説教者:ラルフ・スミス牧師
ピリピ4:4〜5
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。
パウロは逮捕されて、AD60年から62年までローマに軟禁されて裁判の判決が出るのを待っていた。その間にエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙を書いた。ピリピ人への手紙が最後の手紙である。
このピリピ人への手紙はパウロが主にあって喜ぶことを非常に強調している手紙である。今日の箇所は特に有名で、パウロは繰り返し「主にあって喜びなさい」と言う。同時にパウロはもしかしたら自分に死刑判決が出るかもしれないと思っている。
今日の箇所のトピックは三つある。主にあって喜ぶこと、寛容(柔和)、主は近い(励ましのことば)。主にあって喜ぶことと、自分の寛容な心をすべての人に知られることは命令形になっている。主は近い(励ましのことば)は約束になっている。
⚫️主にあってよろこびなさい。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(4:4)
何回も出て来ていることから分かるように、ピリピ人への手紙は喜ぶことが非常に強調されている手紙である。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、柔和、自制であるり(ガラテヤ5:22)、この中で一番強調されているのは愛であるが、二番目に強調されているのは喜びであることに気づいた人はいるだろうか。クリスチャンにとって喜びは非常に大切である。だからパウロは繰り返し「喜びなさい」と言う。しかしピリピ人への手紙を見ても他の新約聖書の手紙を見ても喜ぶことは新しい契約において逆説的な意味がある。喜ぶことの意味がイエス様によって古い契約とは違うものになった。
AD30年に書かれたマタイの福音書はあちこちの教会に広まったので、イエス様が喜ぶことについて新しい見方を与えてくださったことも広まった。マタイの福音書は、ペンテコステのあとすぐにマタイがまとめて書いたもので、書き写したりして多くの教会に与えられた。この福音書の山上の説教の中でイエス様は次のように言う。
【マタイ5:10~12】義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
旧約聖書の中で、神様のために迫害されることを喜ぶ箇所はないと思う。だからイエス様が迫害されている人に「喜びなさい」と言うのは新しい教えだと思う。
【ヨハネ15:10~11】わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。
イエス様は迫害されて苦しんで最後に十字架にかけられたが、そのイエス様の喜びが弟子たちのうちにあるようにとイエス様が教えてくださった。イエス様は悲しみの人で苦しみの人というイメージであるが(イザヤ53)、同時に喜ぶお方であった。神の命令を守って歩む人は喜びに満ちる。そのようにしてキリストの喜びが弟子たちに与えられるのである。新しい契約においては、イエス様のために苦しむ者は幸いである。主イエス・キリストご自身に与えられている喜びがその人に与えられるからである。だからパウロは喜ぶことをこのピリピ人への手紙の中で強調している。
【ピリピ1:29】あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
イエス様のために苦しんで迫害にあう人は幸いである。その人は祝福される。これが新しい契約の喜びについての新しい考え方である。
しかしこれはローマ帝国の中では認められない。なぜならピリピの町の人たちはローマ帝国の国籍を持っていることを誇りに思っているからだ。それは悪いことだとは限らないが、ピリピの教会の人には「天の国籍を持っている人らしく歩みなさい。」とパウロは言う。自分が何者で、どこに属しているのか、どこに国籍があるのかをピリピの教会に考えさせている。
パウロはローマ帝国の国籍を持っている人と天の国籍を持っている人を対比している。ピリピの町一般的な言葉はラテン語である。本来ならピリピのあるマケドニアはギリシャ語であるが、ピリピはローマの国籍を持つ特別な町なのでそのようになっている。同じように天の国籍を持つ者も自分がどうあるべきかを示す責任がある。ローマの国籍を持っている人はいつかローマに戻るのではなくて、ピリピの町でラテン語を話し、ローマの法を守り、ローマの文化を表す生活を送るのと同じように、天に国籍がある人は、毎日の生活において御国を表す責任がある。その一つはいつも主にあって喜ぶことである。しかしこれは普通のローマ人にとって嫌な話である。迫害されて苦しめられることは恥なのに喜ぶのはピンとこない。その中で喜び踊るクリスチャンたちのことはわからなかった。しかしクリスチャンにとっては特別な意味がある。イエス様が苦しみながら神の御心を行うことを喜んだように、私たちも主にあって、主のために喜ぶ。その喜びをイエス様は与えてくださった。みことばに従って歩む者は、迫害されても反対されてもののしられても主にあって喜ぶ。
⚫️寛容(柔和)
あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。(4:5a)
ここで使われている「寛容」ということばは、「柔和」と翻訳した方が良いことばである。
パウロは牧師について柔和でなければならないと言うし、一般の教会員に対しても柔和でなければならないと言うが、ここでパウロは自分の柔和(寛容)が人々に知られるようにしなさいと命じている。柔和とはローマ人にとっては女々しくて弱いことばである。むしろ彼らは力を表したい。ダニエル2章の幻によると、ローマ帝国は鉄の足で表されている。力ある帝国で、残酷で人をいじめることがかっこいいと思っている。自分がいじめられても柔和で、呪ったりしないことは普通のクリスチャンではないローマ人にとっては恥ずかしいことであった。
イエス様はご自分についてこのように言う。
【マタイ11:28~29】すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
反対されて迫害されて憎まれる中で喜びをもって柔和でいるのは本当の御霊の力である。イエス様のように喜んで柔和でありなさいとパウロはピリピの教会に話している。
⚫️主は近い。(励ましのことば)
主は近いのです。(4:5b)
近いということばはパウロの手紙の中によく出てくる。形容詞でも動詞でも両方出てくる。近いとは距離が近いという意味と、時間が近いという意味がある。両方の意味を持っている場合もあってわざとあいまいな表現をしていることもある。ここでパウロはAD70年が近いことを話していると思う。
【黙示録1:3】この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。
この「時が近づいている」は同じことばである。ヨハネが黙示録を書いたのは遅くてもAD64年頃で、そこに書かれていることがそろそろ成就される頃なので時が近いと言っている。
ところがピリピ人への手紙はAD62年に書かれて70年までまだ8年あるのに、なぜパウロは主は近いと言うのだろうか。じつはローマの皇帝ネロが本格的に教会を迫害し始めたのがAD64年であり、それから70年までの間にクリスチャンたちは迫害されて苦しめられるので、パウロは迫害されるクリスチャンたちのことを思って主は近いと言って励ましていると思う。
そしてAD70年にイエス様が古い契約を終わらせた。黙示録はおもにAD70年のさばきについて書かれている。
【黙示録22:10】また私に言った。「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。…」
ダニエル書の中では神殿崩壊の預言は終わりの時まで秘められて封じられた(ダニエル12:9)。しかし黙示録では時が近いから封じてはならないと言う。イエス様がエルサレムをさばくとき、オリーブ山の説教の成就を見ることができる。ピリピの教会にとっても、イエス様の預言通りに全て成就されたのは、イエス様が預言者でありメシアであることの公な証明である。
イエス様が復活したことは基本的には公けではなかった。イエス様の墓の門番たちがイエス様の墓が空であることを大祭司に話し、大祭司は弟子たちが遺体を奪ったと偽るようにと門番たちに言った。弟子たちはみんなイエス様の復活を知っていたし、ペンテコステの日からその福音が伝えられたのだが、他の人たちには知らされなかったので基本的にイエス様の復活は実際の出来事としては公ではない。
イエス様はこの世代が終わるまでにこれらのこと(神殿の崩壊までの出来事)は全部成就すると言う。マタイ24章、マルコ14章、ルカ21章で同じようなことばで強調されている。すべて成就されたときにイエス様が公けに預言した通りになったことが明らかになる。それによってイエス様が預言者であることがわかる。
イエス様が預言した時はまだAD30年だった。神殿はまだ完成していない。AD64年まで続けて建てられている。そしてちょうど神殿が完成したとき、ユダヤ人が確信をもってローマ帝国に逆らい始めた。それでユダヤ人とローマ帝国の対立が激しくなって、ローマの軍が来てエルサレムと神殿を破壊することになった。その時が近いとパウロはピリピの教会に言う。イエス様が復活してイスラエルのメシアであることがさらに明白になった。そのイエス様のことについて喜ぶことができる。感謝することができる。寛容であること、柔和であることが可能になる。主にあって喜んでいるからである。
毎週の聖餐式は主にあって喜ぶお祝いである。聖餐式でイエス様のことを宣言する。その中に喜ぶことを告げるニュアンスも含まれている。毎週の聖餐は、喜んで感謝して、主イエス・キリストが十字架上で死んでよみがえったことを記念する。私たちは日本では迫害されたりしていないが、イスラム教の国や共産主義の国で迫害されている兄弟たちを覚えて祈るべきである。牧会の祈りの中でそのことも毎週祈っている。心において、迫害されているクリスチャンとともに祈りをささげる。喜んで聖餐をいただいて、感謝の心をもつ。これが一週間のスタートである。感謝して御国のために実を結ぶ者として新しいスタートをする。
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