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「パウロと山上の説教」ピリピ4:6~7

説教者:ラルフ・スミス牧師



ピリピ4:6~7

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

はじめに思い出していただきたいことが三つある。

・パウロとイエス様

イエス様が十字架で死ぬ前に、パウロはイエス様の話を聞いていただろうし、恐らくイエス様の説教も聞いていたと思うので、パウロはイエス様について知っていたはずだと思う。

・パウロとマタイの福音書

マタイの福音書はペンテコステのあと、わりと早く書かれた福音書である。パウロはイエス様が十字架にかけられたAD30年にイエス様を信じて救われた。だからパウロはクリスチャンとして若い時からマタイの福音書を読んでいたはずである。実際にイエス様を見たこともあったと思う。

・パウロとピリピの教会

マタイの福音書はコピーされて多くの教会に広まった。ピリピの教会はAD50年に設立されたので、ピリピの教会でもマタイの福音書を読んでいたはずだと思う。この教会はパウロ、ルカ、テモテ、シラスが設立した教会なので、パウロはマタイの福音書の内容についてもイエス様についても話していたはずである。

なぜマタイの福音書の話をするかというと、今日の箇所と関係があるからである。

●何も思い煩うな。

日本語では「何も思い煩わないで」と訳されているが、ギリシャ語に忠実に訳すと「思い煩うことをやめなさい」となる。やってはいけないという命令を現在形で言うので「〜することをやめなさい」となる。

パウロがここで使う「思い煩う」ということばは動詞と名詞を合わせて聖書で25回使われている。そして中には良い意味で心配するという意味で使われることもある。

【ピリピ2:20~21】テモテのように、私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。

教会のために心配するのは良いことである。しかし他の人はみんな自分のことばかり考えている。

【ピリピ2:3~4】何事も自己中心的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

イエス様はご自分よりも私たちのことを大切にしてくださって十字架にかかってくださった。テモテは良い意味でピリピのことを心配している。

【第二コリント11:28】ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかい(心配)があります。

心を配り、教会や他の人のことを考えるのはクリスチャンとして責任を持って生きることである。だからパウロはすべての心配を捨てなさいとかすべての心配がいけないことだと言っているのではない。

それではパウロは何を言おうとしているのだろうか。

この箇所と山上の説教はどういう関係があるのだろうか。

●山上の説教

【マタイ6:25】ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

ピリピ4:6の「思い煩う」と同じ動詞で同じ形である。少しだけ言い方が違うのだが、明らかにパウロはマタイの福音書の山上の説教を指していると思う。自分のいのちについて心配するのはやめなさい。食べる物や着る物の必要を天の父はわかっているからである。

【マタイ6:33】まず神の国と義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

これがパウロの結論である。

スタンリー・ポーターという新約聖書の学者が仮説として言っているのだが、パウロはこの山上の説教をその場にいて聞いていたのではないかと言う。このピリピ書の箇所だけではなく、ローマ書のいろいろなところでも山上の説教を指して説明していると思われるところがある。命令形で現在形で「心配をやめなさい」と言っているのは、このピリピの箇所と山上の説教しかない。(ルカ6章の平地の説教にもあるがそれは山上の説教と内容的に同じなのでそこも含めると三か所になる。)

パウロはイエス様の教えを指して、イエス様の山上の説教を思い出して、この世の心配事をやめなさいと言う。

マタイ13章に四つの種のたとえ話がある。その中で三つ目の茨の間に落ちた種は、みことばを聞くがこの世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない。(マタイ13:22)

このたとえ話は命令ではないが、着る物や食べる物などこの世のことを心配して、神の御国を求めない種のようになってはいけないことをイエス様は教えている。パウロは山上の説教を深く瞑想して深く理解しているので手紙でこのように書いたのではないかと思う。

●願い事を神に知っていただきなさい

これも山上の説教に基づいている。

イエス様が自分のいのちのことを心配するのをやめなさいと言うが、この節は「ですから」で始まる。イエス様はこの前の節で次のように言う。

【マタイ6:20、24】自分のために天に宝を蓄えなさい。…だれでも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

このように教えてくださったあとでイエス様は「だから、自分のいのちのことで心配するのをやめなさい。」と続けている。この世に宝を蓄えずに、天に蓄えなさい。

このマタイ6章の中で、イエス様は弟子たちに主の祈りも教えてくださっている。パウロは、心配しないで神に祈り、神の国と義を第一に求めなさいとピリピの教会に教えている。

ピリピの教会は何を心配しているのだろうか。ピリピの教会に反対する人たちの働きである。迫害されるだろうということは自分たちでわかっている。だからこの教会には迫害されたり反対されて誤解されることについて思い煩ってしまう危険がある。もうすでに心配してしまっているかもしれない。つまり、ピリピの教会はただ何を着るか何を食べるかという軽いことを心配しているのではなく、もっと深い重いことについて心配していた。それでもパウロは心配するなと言う。すべての心配事を神様に知っていただき、神に祈りなさい、と言う。私たちも主イエス・キリストの教えを思い出して、パウロの手紙と一緒に瞑想するのは非常に大切だと思う。

ピリピ2章に良い心配があり、ピリピ4章に悪い心配がある。悪い心配の中にはピリピの教会が迫害されることが含まれている。イエス様は福音書の別のところで、自分が裁判に引っ張られるときに心配するなと教えている。神様に信頼して委ねなさい。神様はそのときに助けてくださるからだ。パウロ自身の裁判の判決も近いので、この教えはパウロの心の中にあると思う。だからイエス様の教えを自分のことばではなしているのだと思う。

ピリピの教会は12年くらい続いている教会で、マタイの福音書を知っているので、パウロの言葉を聞くとすぐにイエス様の教えと気づいてつながると思う。

細かくすべて神様に知っていただくことは良いことである。

今の日本では迫害の心配は無いかもしれないが、迫害されている兄弟は世界中にいる。テモテがピリピの教会を心配していたように、正しい意味で他の教会や兄弟たちのことを心配するのは良いことである。迫害されている兄弟たちのことも神様に祈り求めるべきである。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

心配しないで神様に知っていただきなさい。この中に命令は二つある。心配するな。神に祈りをもって知っていただきなさい。この命令には約束が伴う。

心配して祈ったら自分の思いのままになるという約束ではない。御霊の力によって、すべての人間の理解を超える神の平安が私たちの思いをキリスト・イエスにあって守ってくださる。これが約束なのである。

ヨハネ福音書13章から17章に、イエス様が十字架に行くその前の晩に弟子たちに話してくださったことやイエス様の祈りが書かれている。イエス様は十字架の道を歩まなければならない。弟子たちも憎まれて迫害される。その話の中でイエス様は「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。(ヨハネ14:27)」と言われた。イエス様は十字架にかかる時でもご自分の平安のことを話すことができる。確かにイエス様はゲッセマネの園で、可能ならこの杯を取り除いてください、と泣いた。そこまで苦しんでいた。しかし、イエス様の本当の願いは「しかしわたしの願いではなく、みこころがなりますように。(ルカ22:42b)」であった。これが神の国を第一にする祈りである。イエス様は自分のことを心配せず、弟子たちが寝てしまってもすべての理解を超える平安が与えられていた。

イエス様を逮捕するためにローマ軍と祭司が現れたときに、イエス様は平安をもって弟子たちのことを赦して許してくださいと祈った。イエス様は一晩中むちで打たれたりしても何一つピラトに答えなかった。イエス様の平安にピラトは驚いた。これは人間の理解を超える平安である。パウロは、イエス様が私たちにご自分の平安を与えてくださることを覚えなければならないと言う。祈って目を開けた瞬間、もしまだ平安がないなら、また祈りなさい。続けて求めなさい。神様に知らせなさい。イエス様がゲッセマネの祈りの中で神様のみこころを求めたのは、すべてのことを正しく神にゆだねるのと同じことである。

私たちは礼拝の中で繰り返し平和・平安と言う。パウロの手紙の中にも恵みと平和という挨拶がある。これはシャロームである。私たちの墓地にも書かれている。すべてのことをひとことで言い表している。恵みと平安があなたがたとともにあるように、とパウロはよく手紙に書いている。

礼拝の最後に、私たちは祈りを歌として祈っている。平和、平安、安らぎが与えられるように歌って礼拝が終わる。救いのすべてのことを言い表していると思う。

心配するのをやめなさい。イエス様に祈りをもってすべてを知っていただきなさい。そうすれば平安が与えられる。これはイエス様の説教と同じである。是非山上の説教をもう一度読んで、パウロの手紙と一緒に考えてみてほしい。

礼拝の最後の歌を歌う時に、神の教会すべて、迫害されている教会、病気の兄弟たち、いろいろな心配の中にいるすべての兄弟のために祈りましょう。




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