説教者:ラルフ・スミス牧師
ピリピ4:6〜7
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
先週も話したが、今日の箇所の中には二つの命令がある。一つ目は「何も思い煩わない(心配しない)」、もう一つは「願い事を神に知っていただきなさい」である。
パウロは、山上の説教のイエス様のことばを借りて「何も思い煩わないで(心配しないで)」と言っている。これをギリシャ語に忠実に翻訳すると、「心配するのをやめなさい」となる。イエス様はこのことばを二か所の説教で話していた。一つはマタイ6:25、もう一つはルカ12:22である。パウロはこの手紙の中で繰り返し心配するのをやめるようにと言う。
願い事を神に知っていただきなさい、という命令はつまり祈って神様に委ねなさい、ということだ。
これらの命令には約束が伴う。神様に委ねたら、主イエス・キリストにある平安があなたの心と思いを守ってくださる。先週この箇所について考えた時に、マタイ6:25からイエス様のことばを見た。
【マタイ6:25】ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
いのちについて心配することをやめなさい、というところから始まる。続いてイエス様は飲む物について、食べる物について、着る物について心配するなと言う。これらはすべて異邦人が求めているものである。そうではなくてあなたたちは神の御国とその義を第一に求めなさいとイエス様は弟子たちに言う。
パウロはイエス様のことばを指しているが、イエス様は旧約聖書に書いてあることばを指していると思う。
イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた(マタイ3章)。イスラエルも海を渡ったときにモーセにつくバプテスマを受けた(1コリント10章)。イエス様のバプテスマと海を渡るイスラエルの連想ができる。イエス様はバプテスマによってメシアの任命を受けて、イスラエルの代表としてバプテスマを受けて、まるでイスラエルとともに海を渡ったような感じである。
イスラエルは海を渡ったあとで試練にあう。これはまだ荒野の前の段階であるが、海を渡って三日目にイスラエルの民は水がないと言ってモーセに文句を言う。苦い水しかないところに行ったときには神様が水をいやしてイスラエルに飲み水が与えられた。過ぎ越しの祭りから一カ月たち、今度はパンがない、食べ物がないと言い出す。モーセに今までよりももっと激しい口調で言う。エジプトにいた時には美味しい肉もパンもあったのに、今はこの荒野で死にそうだと言う。そこでモーセが神様に祈って、神様は天からのマナを与えてくださった。そして肉も与えてくださった。それなのに次にレフィディムという飲み水がないところに行った時もまた文句を言った。しかし神様はここで特別な奇跡を行ってくださった。
【出エジプト17:6】さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。
モーセが岩をたたくとき、ヤハウェをたたくような感じになる。ヤハウェが代わりにたたかれてヤハウェから水が出て、イスラエルに水が与えられる。この時のイスラエルの文句は前よりも激しくなっていた。2節にはモーセと争ったと書かれている。過ぎ越しの祭りから五十日たつ前に、イスラエルは繰り返し不平を言う。あんなに大きな救いを見て、あんなに素晴らしい祝福が与えられたのに、イスラエルはモーセとアロンに対して、食べ物も水もなくてあなたたちは自分たちを殺すためにここに連れて来た、と訴える。
それからシナイ山に着いて、モーセは山に登って律法を受けた。シナイ山で行われていることについて出エジプト記に書かれている。出エジプト記20章で十戒が与えられて、21~23章でその十戒の意味を一つづつ教えられた。24章で契約の食事の儀式を行う。25~40章までは天幕の話だが、途中の32章でモーセが山から下りて来ようとしないので、アロンとイスラエルは金で子牛を作り、これが自分たちを荒野から導きだした神であると言ってその前に祭壇を築き、食べたり飲んだりして偶像礼拝を行なってしまった。それでモーセは山から下りて、イスラエルを叱って、神様にとりなしの祈りをしたので、神様は偶像礼拝をしたイスラエルを赦してくださった。
イエス様にも同じようなストーリーがある。イエス様がバプテスマを受けると御霊がイエス様を荒野に導いた。そこでサタンがイエス様を誘惑する。最初の誘惑は食べ物の誘惑である。イエス様は四十日間何も食べていなかったが、荒野のイスラエルのように「なぜ神様は見捨てたのか」というような文句は言わなかった。サタンはイエス様にお腹がすいたら石をパンに変えなさいと言う。しかしイエス様は人はパンのみで生きるのではないと答えた。
次の誘惑はこの神殿から飛び降りなさいというものだった。神様はあなたを救うお方だし、詩篇にも御使いがあなたを守ると書いてあると言う。しかしイエス様は神様を試してはいけないと答える。すぐに連想するかはわからないが、イスラエルは出エジプト記17章で神様が自分たちとともにいるかどうかを試した。その場所はマサ(試す)とかメリバ(争う)と呼ばれている。イスラエルは神様を試したが、イエス様は試さない。神様を待ち、神様に信頼した。
三つ目の誘惑は、イエス様にこの世の繁栄を全て見せて、ひれ伏してサタンを拝むならこれら全てを与えると言う。この世の国民はイエス様が求めているものだった。神の御国を第一にしてイエス様は生きているが、偶像礼拝を行ってそれを求めることはしない。シナイ山の下にいたイスラエルは偶像礼拝を行ったが、イエス様は断った。
イスラエルが荒野で行った、神を試すような行動や神に不平を言うこと、そして偶像礼拝をイエス様はすべて断った。天の父はイエス様の必要をすべてご存じである。御国を第一に求めるなら必要なものは全て与えられる。それを確信してイエス様は御国を第一にする歩みをした。
その三つの誘惑が終わってから、イエス様はモーセのように山に登り、そこですわって律法について教えた。こういう人は幸いである、こうすれば祝福される、と宣言したり、祈りについて教えてくれたりした。
イエス様はマタイ6章で、人は神と富の両方に仕えることができないと教える。どちらかを憎むことになるからだ。そして6:25で「ですから、何を食べようか、何を飲もうかと自分のいのちのことで心配するのをやめなさい。何を着ようかと自分のからだのことで心配したりするのをやめなさい」とつながっていく。この世の富のためにいのちをささげようとしないように、この世のことについて心配しないようにと教える。
なぜ服の話が出るのかというと、パリサイ人はかっこいい服を着ることが好きで、服によって自分たちが特別に敬虔であることを表していたからだ。しかしイエス様は山上の説教の中で繰り返しパリサイ人たちの罪を批判している。神の御国を第一に求める者はこうでなければならないと教える。
このように旧約聖書のイスラエルの歴史とイエス様ご自身の歴史は重なっている。イエス様は、イスラエルのようにこの世のいのちを心配するのをやめなさい、と当時のユダヤ人たちに話している。
イエス様の世代のユダヤ人は荒野のイスラエルと同じ心を持っていた。だからこの世代にすべてのさばきが下る。イエス様はマタイ23~24章でその警告をしている。
荒野のイスラエルのように自分のいのちを神の御国より大切に考えてはいけない。民数記14章にイスラエルがカデシュで神に逆らった話がある。イスラエル人たちはカナンの人たちを見て、彼らは巨人で自分たちは戦っても勝てないと思ってしまった。自分のいのちのことばかり考えて、神の御国を求めなかった。当時のユダヤ人の状態はこのときのイスラエルとも重なる。
ピリピの教会の迫害はこれからもっと激しくなる。そのことをイエス様はオリーブ山の説教で話していた。神様がその日を短くしなければ選ばれた人たちでさえも生き残らない。ピリピの人たちはそれがそろそろ来るだろうとわかっていた。この世代は70年で終わるので、そろそろ試練が激しくなる。そのような中でパウロは、イエス様が自分のいのちの心配をやめなさいと教えてくださったことを思い出させている。
イエス様はマタイ福音書10章、ルカ福音書12章で弟子たちを送る。まるで狼の中に羊を送るようなものだ。その中で裁判官の前に立たされるときに何を言わなければならないかを心配するなと言う。話すべきことばは神様が与えてくださる。イエス様はユダヤ人の前で裁判を受けた時には一言も言わなかったがピラトの前では神様から与えられた言うべきことばを話して十字架に行く。弟子たちをまるで狼の中に送った時に、自分のいのちを捨てなければイエス様の弟子になることはできないと言う。弟子たちはこれから危ないところに行き、試練にあう。殺されるかもしれない。しかし心配することをやめなさい。神様が助けてくださり、言うべきことばを与えてくださるから。イエス様がサタンの誘惑を受けた時も、神様から言うべきことばが与えられて、申命記から答えている。
願い事を神様に知っていただきなさい。試練に会うピリピ教会の慰めは、試練の中でも神様が彼らの心と思いを平安のうちに守ってくださることだ。一度祈って平安が与えらたらそれで終わりではない。繰り返し繰り返し祈らなければならないかもしれない。祈った次の日また心配してしまうかもしれない。激しい試練を受けるからである。神様に祈り求めて、神様にゆだねて、御霊が主イエス・キリストにあって私たちに平安を与えてくださるとき、私たちに試練に耐える力が与えられる。
神様に祈り、御国を第一に求める心を持ち、神様が助けてくださることを信じて歩み続けるように、パウロもイエス様も励ましている。イエス様ご自身はイスラエルのように心配しなかった。自分のいのちを第一にすることはしなかった。
ピリピ2章にあるように、イエス様は私たちのいのちを第一にしてくださって、十字架上でご自分のいのちを捨ててくださった。そしてよみがえって勝利を得て、私たちに永遠のいのちを与えてくださった。私たちの大祭司であるイエス様は私たちと同じように試練にあって、試された信仰をもってイエス様にしたがった。私たちの大祭司は同情できないお方ではない。空腹も憎まれることも知っている。最後に十字架に進まなければならない。イエス様は私たちがあった試練以上に激しい試練にあわなければならない。そのイエス様が私たちの大祭司である。ゲッセマネの園で祈り求めたイエス様に神様は平安を与えてくださった。
イエス様もパウロも、心配をやめて、神の御国を第一に求めることを私たちに教えている。そうすれば平安が与えられて続けて戦うことが出来るようになる。イエス様はご自分よりも私たちを大切に思ってくださって、平安を持って神様にすべてをゆだねて十字架に進まれた。私たちはイエス様の十字架を記念してここに集まった。十字架の記念の聖餐をいただく。
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