top of page

「王であるキリストの御国に生かされている幸い」ヨハネ18:33〜37

説教者:聖書神学舎 学長 赤坂泉先生


ヨハネ18:33〜37

そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼んで言った。「あなたはユダヤ人の王なのか。」 イエスは答えられた。「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。」 ピラトは答えた。「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私にl引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」 そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

(今日は聖書神学舎学長の赤坂泉先生が六年ぶりに私たちの教会で説教をしてくださいます。聖書神学舎は聖書の学びに力を入れていて、聖書に忠実な牧師を育てる働きを何十年もされています。)


---------------------------

みなさん、こんにちは。聖書神学舎で学長をしております、赤坂泉です。

聖書神学舎は1958年から、60年あまりの間に600人ほどの伝道者を送り出してきました。今年度も卒業予定の者が9人おり、牧師、または宣教師として遣わされる準備をしているところです。お祈りしていただきたいことは伝道者が起こされることです。聖書神学舎では20名の在校生のうち9名が卒業しますので寂しいことではあるのですが、主にあって志しが与えられた方々で教室があふれて、諸教会の伝道者の必要が更に満たされるようにお祈りに覚えていただきたいと思います。


今朝は礼拝で朗読されたヨハネの福音書から、私たちの主であり王であるイエス・キリストに目を留めて、キリストの御国に生かされている幸いを覚えて主をあがめたいと思います。

地上の生涯の終わりに、自ら十字架を目指して歩まれた主イエス様は、ゲッセマネの園でユダヤ人たちにご自分をお渡しになりました。そのあと、主イエス様とアンナスとの問答、大祭司カヤパとのやりとりを経て、明け方総督ピラトの官邸に移って来たことがヨハネ18:28にあります。そのピラトとのやりとりが始まるのが、今日朗読した18:33からになります。ルカの福音書はこの辺りのことをさらに詳しく記録しています。

【ルカ23:3~4】そこでピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には、訴える理由が何も見つからない」と言った。

ピラトはイエス様の「あなたがそう言っています。」という短い答えを引き出しますが、イエス様を訴える正当な理由が見つからないと言って、主イエスの身柄を一旦ヘロデのもとに送ります。しかしヘロデに対してはイエス様は口を開かれないので、ヘロデはイエスを侮辱してからかって、それからピラトに送り返しました。

今朝のヨハネ18:33は「ピラトは再び総督官邸に入り…」で始まりますが、再びということばの中には、今ルカの福音書で紹介したような時間の経過が込められているのかもしれません。


⚫王であるイエス・キリスト

あなたはユダヤ人の王なのか。」(18:33)

「それでは、あなたは王なのか。」(18:37)

とあります。繰り返されるピラトの問いに対して、イエス様は「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。(18:37)」とお答えになりました。

「あなたの言うとおり」ということばには翻訳の揺らぎがあります。ここで少し皆さんに翻訳の揺らぎを紹介したいと思います。朗読に使ったのは新改訳聖書2017です。聖書協会共同訳という最近の日本語の聖書がありますが、そこでは「わたしが王だ、とはあなたが言っていることだ。」となっています。だいぶ印象がちがっていて、共同訳の方はイエス様が回答を保留しているような印象を与える翻訳です。古い英訳聖書である New King James の訳からですと、「You say rightly that I am a king」となっています。「rightly」とは「正しくも」という意味なので、この文章を訳すと「あなたは正しくもわたしが王だと言っている。」となります。「わたしが王であることはあなたの言う通りです。」という新改訳聖書の翻訳とわりと近いと思いました。しかし「あなたはわたしが王だと言っている。」というイエス様は、ピラトに賛成しているのか、それとも突き放して「それはあなたが言っていることだ。」と言っているのか、それは解釈が入るところです。翻訳とは難しいもので、イエス様がどのようなつもりで「You say that I am a king.」とおっしゃったのか、受け止め方によってちがってしまいます。「あなたの言う通りです。」なのか「それはあなたが言っていることだ。」と言って突き放すのか。

この文章の流れからすると、私は「あなたの言う通りです」とイエス様がピラトに賛成している新改訳あるいは New King James の翻訳が適切だと思います。

【ヨハネ18:38b】(ピラトは)再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私はあの人に何の罪も認めない。…」

ピラトは何とかしてイエスを釈放しようと努力しました。イエスに何の罪も認めないというのがピラトの評価、評定でありました。

さらにピラトは、越の祭りでは、だれか一人をお前たちのために釈放する慣わしがある。お前たちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」(18:38c) とユダヤ人に尋ねましたが、扇動された群衆は声をあげて「その人ではなく、バラバを」(18:40)と叫びました。

【ヨハネ19:4】ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」 

繰り返される無罪の宣言であります。それでも人々が騒ぐので、ピラトは次のように言いました。

【ヨハネ19:6】ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」

ピラトはこのように幾度も繰り返してイエスに罪がないことを宣言し、イエスを釈放しようと努力しました。行政官としては良心的な誠実な行政、あるいは司法とも言えるでしょう。

【ヨハネ19:12】ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」

ピラトは自分の身が危うくなることを察知すると、とうとうイエスを引き渡してしまいました。当時のパレスチナはローマの植民地であったので、ローマ皇帝カエサルが最高権威をもっていました。そのカエサルに背くつもりなのか、とユダヤ人が迫ったのです。当時のユダヤ人は心の中ではカエサルの権威を認めたくない人々が圧倒的に多かったと思います。圧制と重税に苦しむユダヤ人たちにはカエサルに対する反感こそありましたが、カエサルが王であるという告白は心の深い所にはなかったと思われます。でも皮肉なことに、自分を王とする者はみなカエサルに背いています、と言ってともかくイエスを亡き者にしようとしました。このままではピラトは自分の立場が脅かされるという状況なので、正義や公正よりも自己保身に走ったと言うべきでしょう。とうとうイエスを引き渡してしまいます。

ヨハネ19:14~15、19~22を見ると、ピラトは一貫してイエスがユダヤ人の王であると主張し続けるのです。十字架の上に掲げた罪状書きも、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス(19:19)」と書かせました。ユダヤ人が嫌がって、ピラトに「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください。(19:21)」と嘆願しますが、ピラトはあえて「私が書いたものは、書いたままにしておけ。(19:22)」と言って筋を通します。どこまでかは分かりませんが、イエス・キリストこそがまことに王であるという真理をピラトはある程度理解していたのかもしれません。少なくとも自分の判断を覆そうとするユダヤ人たちに一矢報いている、そんな感じです。


ここで一貫して問題になっているのは、イエスは王なのか。だれが王なのか、という問題です。イエス・キリストがまことに王である、とピラトはある程度まで理解していたかもしれません。信仰に至ったとは言いませんが、それでも自分の領地で散々な騒ぎを起こして、人々をここまで困惑させ、あるいは従わせている人物はただならぬお方であるということをある程度理解できたのではないでしょうか。

私たちはどうでしょうか。私たちは主イエス・キリストというお方と聖書を通して出会って、今朝も主の前にいるわけですが、イエス・キリストがまことに王であるという真理をどのように理解しているでしょうか。イエス様は私たちにとって救い主、親しい友、近くにいて助けてくださるお方であると同時に、イエス・キリストが王であると理解し、告白し、その理解と告白に従って日々を歩んでいるでしょうか。今朝はそんなことも加えたいと思います。


⚫キリストの国

【ヨハネ18:36a】わたしの国はこの世のものではありません。

先ほどから一貫して、ここで問題になっているのは「王」というキーワードだと言いましたが、ここに出て来る「国」ということばも王ということばと隣り合わせで、大切な真理を提示しているキーワードです。王と国という二つの単語ですが、英語ですとキングとキングダム。英語だと隣り合わせで関連していることがよくわかります。日本語では王と王国と理解した方がいいかもしれません。ギリシャ語で国はバッシレイヤといいます。王はバッシレウスです。同じ根っこから出て来る単語だとよくわかります。キングダム、つまり国と訳されていることばを新約聖書のギリシャ語の辞書で調べると意味が二つ出てきます。一つは「the act of ruling 治めるという行為そのもの」で、もう一つは「territory ruled by a king 王によって治められた領域」の意味があります。私たちが国ということばを見ると、つい領土や領域をイメージしてしまいますが、ここで言われている国、キングダム、バッシレイヤということばはむしろ治めるという行為だというように、少し理解を広めていただきたいと思います。

この「国」ということばは新約聖書に160回以上出て来ます。そのうちの90%は国と訳されますが、少数のそうではないことばがあるので紹介したいと思います。

一つはマリアに対する受胎告知の場面です。

【ルカ1:30~32】「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

「その支配に」というところが国、キングダム、バッシレイヤということばが当てられているところです。神は彼にその父ダビデの王位をお与えになり、その支配(御国)に終わりはありません。

もう一つはイエス様ご自身の弟子たちへのことばになります。

【ルカ22:28~29】あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。そうしてあなたがたは、わたしのでわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。

王権、国と訳されているのがキングダムです。

国と訳されないで王権とか支配と訳されている箇所をご紹介しましたが、つまりイエス様が「わたしの国はこの世のものではありません。」というとき、地上の領土をイメージするだけでは不十分なのです。わたしの王権は、わたしの支配はこの世のものではありません。イエス様がそう言っていると理解するとよくわかると思います。「わたしが治めるという行為はこの世のものではありません。この世界にもあるし、この世を超越したものなのだ。」


この同じ思想を使徒パウロが非常によく言い表しています。パウロはキリスト者の救いの本質をこのように言い表します

【コロサイ1:13】御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 

この「ご支配」ということばには別訳がついていて、脚注に「御国」と書かれています。神がイエス・キリストを信じる者に与える救いとは、神が暗闇の力つまりサタンに縛られて支配されている人々を暗闇の領域から取り出して、キリストの支配する領域つまり御子の御国に移してくださるということなのです。キリストが王として治めておられる領域、現実を生きるようにと招かれたのがキリスト者であり、その招きに応答して「はい主よ、キリストを王として生きて行きます」と告白し、歩み始めたのがキリスト者なのです。パウロはこのように救いの本質を述べた上で、14節から20節まででキリスト論を濃密に展開しています。

【コロサイ1:14~20】この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

御子は万物に先立って存在しているお方で、万物の創造主で、万物を神と和解させるために道を開いてくださったお方であります。先ほど二ケア信条をともに告白いたしましたが、その中のキリスト論のかなりの部分はこのコロサイ1章に負っているところが多いのです。

聖書は繰り返し教えています。イエス・キリストがこの世界の創造主であり、父なる神と聖霊なる神とともにこの世界を造り、この世界を治め、そして私たちの救いのためにこの世界に来てくださったお方なのです。そのイエス・キリストが王として治めておられる領域は、イエス・キリストを信じた者たちだけではなく、イエス・キリストがお造りになったこの全世界であることも覚えておきたいと思います。イエス・キリストは全世界の王です。信じた者の王であることは言うまでもないことですが、それだけではなくて、お造りになった全被造世界の王なのです。そのキリストの王権が回復していくこと、福音が世界に広がって行って救われる民が加えられていくということ、地に平和が広がっていくということが同義語だと考えて良いでしょう。キリストの支配がこの世界に広がって行くことが神の御心です。その支配のもとに生きるようにと他の人々より先に招かれて、福音を信じる民とされているのが私たちであるとするなら、今日私たちはあらためて私たちの救い主イエス・キリストが私たちにとっての王であるという理解と告白と実践への思いをあらたにしたいと思うのです。キリストの御国に生かされているという幸いは、やがて天国において完成することになります。今すでにキリストを王としてあがめるその瞬間瞬間に、私たちのただ中にキリストの御国があります。王であるキリストと私との関係を日々の現実の中で持ちながら生きて行くことができる幸いを知らされているのですから、あらためてその幸いを大切にしたいと思うのです。

確かに今は途上です。完成を待っています。イエス・キリストを信じた者の神の子どもとしての身分は確かですが、その身分にふさわしい生活の現実はまだまだ途上で、イエス・キリストが王であることを本当に喜んで、キリストの支配のもとで生き生きと歩んでいる瞬間と、戻らなくてもいいのに暗闇の方に引きずり戻されそうになる誘惑と戦っています。そしてそのような戦いの中で祝福を選び取り続けるという重労働を私たちはしているのです。その意味では途上です。やがて主が再び来てくださる時にはそのような労働や葛藤や戦いや誘惑は全く無くなって、キリストの完全な支配の中に完全に安らぐことができるのです。その日を待ち望みながら、今の私たちに与えられている務めはキリストの御国を生きることです。

キリストが王として治めておられるというその事実を告白しながら、まずは自分の人生の全ての領域にキリストの王権が及ぶことを求めていくことであり、私たちの周りにもキリストの支配の恵みが広がっていくために祈り労していくことであり、そのようにしてキリストの支配下に生きること、キリストを王として生きること、そのことを喜び、御国に生きる幸いを私たちの身をもって表し、結果として福音を周りの人々に証しするという日常を主が私たちに備えてくださるようにと祈りたいと思います。

折りしも来週からアドベントに入ります。私たちのために来てくださった王、やがて再び来てくださる私たちの主キリストを覚えてこの季節を大切に歩ませていただきたいと思います。





閲覧数:0回

Kommentare


© 2023 Mitaka Evangelical Church. All rights reserved

bottom of page