説教者:ベンゼデク・スミス牧師
今日は待降節第四主日です。しかし私たちの教会はクリスマス当日に礼拝がないので、私たちにとって今日がクリスマスです。だから今日の朗読箇所も12月25日の礼拝用の箇所でしたし、牧師は白いストールを使っています。これは喜び、清さ、栄光を表します。
今日は少し変わった質問から始めたいと思います。
「クリスマスは祝ってよいものなのでしょうか。」
もちろん祝って良いものだと思っている人がほとんどだと思いますが、じつはすべてのクリスチャンがクリスマスを祝うわけではありません。アナバプテストの団体はクリスマスを避けるか、あるいは最低限に例えば家族だけで祝ったりします。単立の、聖書のみを信じる教会もクリスマスを避ける傾向があります。聖書の神を信じる教会とは、つまり聖書に書かれていない使徒信条やニケア信条は使いません。単立の教会だけではなく、クリスマスを祝わない教団もあります。皆さんがよく知っているチャーチ・オブ・クライストもその中に含まれています。ぼくは何年も前にクリスマスの時期にチャーチ・オブ・クライストの礼拝に出たことがありますが、若い牧師が教団に反抗心を示して、クリスマスのシンボルが付いたネクタイをしていました。彼らはクリスマスを一切祝いませんので、この牧師は少し大胆なことをしたことになります。
なぜクリスチャンなのにクリスマスを祝わない人がいるのでしょうか。その理由の一つ目は聖書に従うことについての理解が間違っているからです。例えば新約聖書でクリスチャンがイエスの誕生を祝って12月25日にお祝いをしているという記述はありません。新約聖書ではそうするように命令されていないのです。だから彼らはクリスマスは非聖書的だという結論に達してしまいました。
異邦人のクリスチャンはユダヤ人の祭りを祝う必要はない、とパウロが言っている箇所が新約聖書にあります。クリスマスを祝わないクリスチャンたちは、そのパウロのことばによって、クリスチャンもイエスの誕生を祝うべきではないと解釈してしまいました。ある人は聖書にない伝統に従いたくないと言ってクリスマスを避けます。あるいは、クリスマスは異教徒の背景があるのではないかという心配が彼らにはあります。毎年この時期になると議論されることでもあります。多くのカルトはクリスマスを祝いません。また、新約聖書のみを見てそれに従おうとするカルトもクリスマスを祝いません。例えばエホバの証人などです。
クリスチャンがクリスマスを祝わない理由の二つ目はイエスの誕生を祝うことは良いことではあるがそこまで大事ではないと思っているということです。彼らはイエスの誕生を祝うよりもっと大事なのは伝道することだと言います。クリスマスは伝道のために良いタイミングなので、伝道のためにクリスマスを祝います。
しかしこの部屋にイエスを信じる人がいないとしても、あるいは日本でノンクリスチャンが一人もいないとしても、私たちは当然クリスマスを祝います。日本人がすべてキリスト教徒になれば12月25日はクリスマスとして国民の休日になるでしょう。
だから「クリスマスは祝ってよいものなのでしょうか。」という最初の質問の答えは「はい、もちろん祝ってよいものです。」と答えます。それどころかクリスマスを祝うのは良いことで、ふさわしくて、正しいことです。なぜなのでしょうか。なぜ私たちはクリスマスを毎年祝うのでしょうか。その理由は二つあります。一つは神様が祝う神様だからです。もう一つは神様が記念する神様で覚える神様だからです。
・神様は祝う神様である。
私たちの神様は祝い事が大好きな神様です。創世記1章の天地創造の時に、神様は毎日お造りになったものを見て喜び、良しとします。六日間終わって七日目に神様は一日かけて創造の完成を祝います。この三位一体の神様はおひとりで祝うのではありません。必ず他のものにご自分の喜びを分け与える神様です。例えば創造のときに天使たちに喜びを分け与えて一緒に喜びました。
【ヨブ38:4、7】わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。…明けの星々がともに喜び歌い、神の子たち(御使いたち)がみな喜び叫んだときに。
神様は天使たちとともに創造を祝っていました。また神様は天において歌っています。
【ゼパニヤ3:17】 あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」
これが私たちの神なのです。天で神様は喜び歌っています。神様は特にご自分の子たちの救いを祝うのが好きです。ご自分の愛する民が救われたことを私たちとともに祝います。
【ルカ15:22~24】父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
放蕩息子が戻って来たときに、父親が言ったことばです。このたとえ話の中で父親は神様を表していますが、父親は服にこだわり、食べずに祝うことはありません。神様は私たちを祝福するために待っているのです。そして主人の喜びをともに喜んでくれと言う神様なのです。
神様は宴会をする神様です。イエス・キリストは花婿です。そして花婿の周りには必ずぶどう酒の宴会があります。
【ルカ5:34】イエスは彼らに言われた。「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか。…」
今日読んだイザヤの箇所にもあります。
【イザヤ62:8~9】主は右の手と力強い腕によって誓われた。「わたしはあなたの穀物を再び敵に食物として与えはしない。あなたが労して作った新しいぶどう酒を異国の民が飲むことはない。取り入れをした者が、それを食べて主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭でそれを飲む。」
穀物とぶどう酒の話です。つまり神様は私たちをご自分の家に招き入れて、そこで宴会をするのです。だから日曜日に聖餐式をするのも一緒に愛餐会をするのもふさわしいことなのです。神様はイスラエルにパンとぶどう酒の収穫を約束しています。そして略奪する者や侵略する者たちから守って、平和を与えます。そして神の家で宴会をします。だから私たちがクリスマスを祝うのは、神様が特にご自分の民の救いを祝う神様であるからです。
・神様は記念する神様で覚える神様である。
神様はご自分の契約を覚えて、ご自分の民を覚えて、心に留めて、ご自分の約束を忘れないお方です。そしてさらに私たちにもそのようになってほしいのです。私たちも神様がよくしてくださったことを何一つ忘れない民であるように、私たちにも記念しなさいと神様は常に言うのです。神の恵みを覚えて、神の救いを記念して覚えなさいと言います。そのために太陽と月を造ってくださいました。神様は太陽と月などの天体のサイクルを作って、同じ時が常に戻ってくるようにしています。一日のサイクルもあれば一週間のサイクルもあり、一カ月、一年のサイクルもあります。このようにして私たちは時間を数えることができます。過去を振り返ることも、未来に向かうこともできます。これが神の意図だったのです。
【創世記1:14】神は仰せられた。「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。…。」
光があるのは良いことですが、それだけではなくて、しるしとして、時間を数えて、覚えて、記念することができるように、与えられています。例えば、神様がエジプトからイスラエルを救い出した時に、過越しという年に一回の祭りを与えました。その特別な日が来るたびに、 神様の救いを忘れることがないように、 イスラエルが集まって特別な食事をします。
じつは私たちもお互いの誕生日を祝うときに同じことをします。太陽と地球が同じポジションに戻ったときに、一年のサイクルがまた回って来たときに、私たちは誕生日の特別な食事をします。そしてその食事を特別にするために私たちは儀式を加えます。まず電気を消すと暗闇の中にろうそくの光が現れます。本当の火があると特別さを感じます。そしてハッピーバースデーの歌を歌います。ケーキが誕生日の人の前に置かれたら、その人がろうそくを吹き消します。そのケーキは砂糖と小麦で作った単なるケーキではなくて、しるしとなるのです。その儀式を通してしるしとなったものを一緒に食べます。おいしいから、お腹がすいたから、目の前にあるから食べる、というのではなくて、この人を愛しているから、この人の存在を喜んでいるから食べる、というしるしなのです。だから私たちはこのように儀式を通して重みが与えられるのです。
私たちがある出来事を祝うときに、そのことを何度も再現します。その体験を繰り返すことによってその出来事によって私たちに力をもって、私たちを形作る体験となります。トラウマはこの嫌なバージョンです。トラウマがあると嫌な気持ちが繰り返されるので、嫌な方向に形作られていきます。しかし私たちは意図的に、これを思い出したい、これを記念したい、このように形作る力を力を得たいというものを祝います。だから人の誕生日を祝う時、神様がその人を私に賜物として与えてくださったことを喜びます。その記念によって感謝が深まります。
ではイエスの誕生の話に戻りましょう。お互いの誕生日を祝うのに、イエスの誕生を祝わないわけにはいきません。私たちの人生を形作るのはイエス・キリストです。それで私たちは生涯、毎年イエスの誕生を祝います。イエスは私たちの王であり、救い主である。それを祝います。詩篇でも、多くの聖書でもこのことを祝っているのです。
【詩篇97:1~2】主は王である。地は小躍りせよ。多くの島々は喜べ。雲と暗黒が主を囲み 義とさばきが御座の基である。
詩篇97篇は王の即位の詩篇と呼ばれています。王が私たちに義とさばきを与えます。このような正しい王は歴史を探しても他にはいません。
【詩篇97:6】天は主の義を告げ 諸国の民はその栄光を見る。
まさにイエスの誕生を告げに天使が羊飼いのところに現れた通りです。私たちががんばって歌うのは全世界がその声を聞くことができるためです。教会から喜びの声がいっぱいになります。
【詩篇97:7】すべて偶像に仕える者 偽りの神々を誇る者は恥を見る。すべての神々よ 主にひれ伏せ。
イエスはすべてのエロヒーム、つまり天使にも悪霊にも礼拝されます。
【詩篇97:8】シオンは聞いて喜び ユダの娘たちも 小躍りしました。主よ あなたのさばきのゆえに。
これを読むときに、喜びや小躍りはただ感情を表現しているわけではなく、共に礼拝をしているのです。次の節を見ればわかると思います。
【詩篇97:12】正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。
神を礼拝するときに、喜び、感謝します。クリスマスは一年のサイクルで毎年戻って来る祝い事なのですが、私たちも神様も一年も待っていられません。だから神様は毎週のサイクルも作りました。毎週パンとぶどう酒をいただくときに、神の恵みと救いを思い出します。特別な日に、特別な食べ方で、特別な人たちと一緒にいただく特別な食事です。この特別な食事はイエスご自身です。イエスのからだとイエスの血です。特別な食べ方をするというのは、礼拝の中で罪の告白があったりみことばの宣言があったり祈りがあったりして、この前後関係の中で食べるから特別な食べ方です。特別な日は主の日で日曜日です。これによって私たちは特別な民とされて、イエスのからだとされ、イエスの花嫁になります。聖餐式を通して、救い主である神がご自分の慈しみと愛を私たちに示してくださいます。私たちはこれによって、十字架にかけられたイエス・キリストの栄光を見ることができます。いと高きところで、栄光が神にあり、地上の私たちに平和がある、と信じることができます。
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