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「恵みとまこと」ヨハネ1:1〜5、14

説教者:ラルフ・スミス牧師


ヨハネ1:1〜5、14

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。…

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

クリスマスは一日だけのお祝いではなく、季節の呼び方である。だから12月25日は過ぎたが今日はまだクリスマス礼拝と言ってよい。クリスマスの意味を非常によく表しているのはこのヨハネ1章である。

⚫️初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)

ギリシャ語では過去形である。

・初めにことばがあった。

「初めに」とは創世記1:1を指している。

【創世記1:1】はじめに神が天と地を創造された。

この天地創造の時が「初め」である。

初めにことばがすでに存在していた。

・ことばは神とともにあった。

ことばは永遠に存在していて始まりがない。神が天と地を創造した時、ことばがすでに存在していたとヨハネは言う。

「ことばは神とともにあった」というギリシャ語は翻訳しにくい。「ともに」という表現ではなくて、顔と顔が向かい合って交わりをもっているというニュアンスである。つまり御父と御子が永遠の昔から親しい交わりをもっていることを表している。初めにあったことばは世界が創造される前から常に御父と親しい交わりをもっていた、ということをヨハネは指している。

・ことばは神であった。

ギリシャ語で「神」ということばに定冠詞がついている場合は「the God」となり、御父のことだとはっきりわかる。しかしここでの「神」は「the God」ではない。この「神」は神性を持っておられるお方である、というニュアンスである。神であるが、御父とは区別しなければならない。だからヨハネ1:1は三位一体の神のことを指しているような言い方になる。イエス様は永遠に存在していて、御父と永遠に親しい交わりをもっている神である。イエス様は御父と同じ本質を持っている。

今朝も二ケア信条で三位一体の神について告白した。御父、御子、御霊を告白した。三位一体とは人格は三つで存在は一つである。この概念は、私たちの理解を超えるが、神様が私たちの理解を超えていなければ、どうして信じることができるだろうか。私たちの理解を超えるものはこの世にいくらでもあるし、私たちの理解を超える人間もいる。そうであれば、神は人の手によって作られたものではないので、なおさら人の理解を超えているはずである。

⚫️ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。(ヨハネ1:14a)

この永遠なる創造主なることばが人間となってくださって、二千年前にこの世に生まれて、私たちの間に住んでくださった。そして一緒に歩んでくださった。

ヨハネは、私たちがその方の栄光を見た、と言うが、それが非常に不思議である。二千年前にイエス様は宮殿で生まれたのではなかった。貧しい大工の家に生まれて、異邦人の多い町で見下されているナザレに住んでいた。ナザレは栄光のある町ではなかった。

【ヨハネ1:46】ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」

このようにユダヤ人がナザレに栄光がないことを認めている。

だから当時の人がイエス様を見て、栄光に満ちているとは思っていなかった。栄光のある人ではなかった。

イエス様は十字架で死ぬときに服は一つしか持っていなかった。栄光のある人はもっとたくさんのきれいな服を持っていると思う。

【ルカ9:58】イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」

カエサルにもイスラエルの金持ちたちにも寝る場所はあった。もちろん皆さんにもあるでしょう。しかしイエス様には寝る場所もお金もない。それが栄光なのだろうか。

ヨハネの福音書の中で一番不思議なのは十字架についての話である。イエス様はご自分が十字架で死ぬことについて栄光が与えられると言う。十字架が栄光の場所であるかのような言い方がヨハネ福音書の中で繰り返し出てくる。十字架は一番恥である。イエス様は裸で、ローマにもイスラエルにも馬鹿にされて軽んじられて憎まれて殺される。これがどうして栄光になるのか。ローマ帝国の中で十字架にかけられるのは、ローマの国籍がない人や国籍のない犯罪者たちである。ローマ人は犯罪者でも十字架にはかけられずに首を切られるだけである。イエス様は一番恥ずかしい栄光とは思えない死に方で十字架にかけられた。十字架がイエス様の栄光を表す場になり得るのだろうか。

ことばが人となって私たちの間に住まわれたらどのような生活をするのかを、ヨハネはマタイ、マルコ、ルカよりも私たちに細かく教えてくれる。

ヨハネ3章でイエス様はパリサイ人と長い会話をする。人間となってくださった、ことばであるイエス様はパリサイ人と話す時に神の愛と恵みを表している。

ヨハネ4章でイエス様はサマリアの女性と話す。普通のユダヤ人の男性はサマリア人と話したりしない。サマリヤ人とユダヤ人は完全に分かれているので一緒に話したりしない。しかも品のある男性は一人で外で女性と話したりしない。しかしイエス様は井戸のところにすわってこのサマリヤ人の女性と長く神の恵みについて話している。彼女がイエス様を信じることができるように導いている。これはユダヤ人はしないが、人間となってくださった神様はしてくださる。

ヨハネ5章でイエス様は足の不自由な人を癒してくださった。その人がパリサイ人のところに行って癒されたことを話すと、その日が安息日だったことからパリサイ人たちはイエス様を攻撃する。イエス様に感謝しない人にでも、そこまで大きな恵みを与えてくださる。自分に対して良いことをしてくれる人だけに親切にするのはいけない。良い人にも悪い人にも神様は恵みを与えてくださる。

【マタイ5:45】天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何も報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。

恵みなる神様の模範に従ってすべての人に対して恵みを与えなさいとイエス様が教えてくださった。イエス様ご自身がヨハネ福音書5章でそれをした。

ヨハネ6章でも似ていることをした。イエス様は五千人に奇跡的にパンと魚を食べさせた。しかし食べさせた人たちはどういう恵みを与えられたのかを全然わかっていない。

【ヨハネ6:26】まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

彼らは神を求めているのではなく、パンを食べて満腹したからここにいる。その人たちがイエス様と話しているうちにたくさんの弟子たちがイエス様から離れてしまった。

【ヨハネ6:66】こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

ヨハネ7章、8章でもイエス様は恵みの祝福を与える話をして奇跡を行ったが、パリサイ人たちはイエス様に反対した。

ヨハネ8章でパリサイ人たちはとうとう石を投げてイエス様を殺そうとした。イエス様がいくら恵みを与えても、ユダヤ人も罪人たちもイエス様を信じない。

ヨハネ9章はすごく面白い話である。イエス様は弟子たちと歩いていて生まれながらの盲人を見た。弟子たちは「この人が盲目で生まれたのはだれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」とイエス様に聞く。弟子たちは、この人の家族が罪を犯していなければ盲人として生まれることがあり得ないと思っていた。でもイエス様は次のように言う。

【ヨハネ9:3〜4】イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

イエス様はこの人が盲人として生まれたのは神の栄光が表されるからである、と言われた。この人が何年も目が見えなかったのは未来のためである。イエス様に出会ったときにイエス様がこの人を癒すためであった。

その人はイエス様に言われた通り、イエス様の唾で作った泥を目に塗って、シロアムの池で洗うと見えるようになった。

ところがパリサイ人たちは、その日が安息日であったことから、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言ったり「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか。」と言ったりした。しかし最後にこの人はイエス様に「主よ、信じます」と言ってイエス様を礼拝することができた。

人となったイエス様は、このような癒しの奇跡をする。これも神の恵みを表すことである。

⚫️父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14b)

「恵みとまこと」は御言葉は出エジプト記34章を指している。じつはこの前の33章でモーセは神に「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」と言う。すると神様はモーセにご自分の栄光を見せてくださった。

【出エジプト記34:6〜7】「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

そして神様はご自分の御名をモーセに宣言する。その栄光は光り輝く栄光であったが、イエス様は恵みとまことに富んでおられる栄光であった。神だけがもっておられる永遠なる神の栄光であった。

弟子たちはヨセフとマリアと同じようにイエス様の話はピンとこなかった。特に弟子たちはイエス様が十字架の道を歩まなければならないことは信じられなかった。ペテロもピンとこないので「そんなことがあなたに起こるはずはありません。」とイエス様に言った。ペテロたちはイエス様のことをメシアとして信じていたので、メシアがローマ帝国に殺されるはずはないと思っていた。しかし、イエス様はペテロたちを叱る。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)

イエス様が十字架の話をしても復活の話をしても、弟子たちには全然ピンとこなかったし、ヨセフとマリヤにもピンとこなかった。ある時マルタに復活のことを話した時に、マルタにもピンとこなかった。彼女も復活は一度だけ歴史の終わりに来るがそれより前にはないと思っていた。実際にイエス様が十字架上で死んでくださって、よみがえって、ペンテコステのときに御霊が与えられるまでは、イエス様のことばは彼らにはピンとこなかった。御霊が与えらえた弟子たちは初めてイエス様のことばがわかるようになった。初めてイエス様が三位一体の神の御子であることを深く理解することができた。だからイエス様の最後の命令は、すべての国民に福音を伝えて、御父、御子、御霊の名によってバプテスマを授けなさい、というものだった。「名」は単数形なので、御父・御子・御霊は唯一の神の一つの名前であることがわかる。三つの人格に一つの名前があって一つの存在である。その三位一体の神の名でバプテスマを授けなさいとイエス様は言われた。弟子たちに御霊が与えられた時に、御父、御子、御霊という言い方がよくわかるようになったので三位一体の神様の福音を伝えることができるようになった。すべてのものはことばによって創造された。だからすべてのものに意味がある。偶然にできた宇宙には何も意味はないが、ことばであるイエス様はことばですべてを創造されたので、すべての被造物に意味があり、私たち一人一人にも神様が与えてくださった意味がある。クリスマスの時に、主イエス・キリストがみことばなる御子であることをお祝いする。ことばであるイエス様がすべての人を招く。

周りの人を招いていきましょう。

【ヨハネ7:37】「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

黙示録にも繰り返されている。

【黙示録22:17】御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

イエス様は、渇いた者、お腹が空いているもの、貧しい者、悩んで苦しんでいる者を招いて永遠の救いを与えてくださる。イエス様を信じる者に永遠のいのちが与えられることを、イエス様自身が約束してくださっている。ヨハネの福音書の中で信じることを強調している。ことばである神様が十字架上で私たちの罪のために死んでくださって、私たちの受けるべきさばきを代わりに受けてくださって、死に対して打ち勝って、よみがえって天にもどった。この永遠なることばであるイエス様が私たちの救い主である。クリスマスのときにイエス様の栄光を覚える。永遠の栄光、十字架の栄光、子ども時代のイエス様の栄光、恵みとまことにみちておられるイエス様を記念する日である。そのことを覚えて一緒に聖餐を受けたいと思う。




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