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「愛は寛容で、愛は親切です」第一コリント13:1〜13

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


第一コリント13:1〜13

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、 不正を喜ばずに、真理を喜びます。 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

先週の午後のクラスで、私たちは歴史を含むほどの大きな概念である「契約」の話をしていました。神とその民の契約の関係です。

他に「御国」の話もしました。御国というと、マタイの福音書でイエスの中心的なテーマでした。

パウロは手紙で、キリストは「王」であることを強調します。

「神殿」の話も大きなテーマでした。歴史の中で、神がどのようにご自分の民と住まわれるのかという問題です。

そして「聖礼典」では、どのように人は神と一体となれるのかについて考えました。

二週間前には特に「栄光」の話に焦点をあてて話しました。栄光を定義するのは難しいのですが、神の善、偉大さ、祝福の現れ、それらが全て合わさったものが栄光と言えます。私たちが神の御前に出た時に、神の栄光を見るのです。神の清さが燃える火だとすれば、栄光はその清さの光をとらえる煙や雲だと言えます。それで神の栄光は神の清さを見えるものや聞こえるものにしたようなものと言えます。だから私たちが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と歌う時、私たち自身が全世界に満ちる神の栄光となるのです。

さて、もう一つの大きなテーマがありました。それは「愛」です。これは宇宙を含むことばです。なぜなら神は愛だからです。それで今日は第一コリント13章を一緒に見ていくことにします。


⚫️たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。(13:1~3)

ここに驚くことが書いてあります。もしパウロが「たとえ私がビジネスで成功して金持ちになって有名になったとしても、たとえ私が山を動かすほどの完全な権力を持っていたとしても、愛がなければ私は無に等しいのです。」と言ったなら、私たちはうなずいて納得していたでしょう。なんてすばらしいメッセージだ、と思うでしょう。しかし、パウロはここで御霊の実と自己犠牲の行動について話します。異言、預言、知識の賜物、信仰の賜物、自分の持っている物をすべて施すこと、殉教、そこまで行ったとしても愛がなければ無に等しいとパウロは言うのです。これは恐ろしい話です。ここに出て来る人は私たちが思うとても良いクリスチャンです。このような人がいたら、私たちは記念館を建てて、そこにいつまでも尊敬されるようにその人の名前を付けたりします。しかし、その人に愛がなければ無に等しいとパウロは言います。

パウロは漠然とした話をしているのではありません。コリントの教会には異言の賜物を持っている人は実際に何人もいて、大声で騒がしく異言を語っていました。周りの人たちから見て、それは御霊に満ちている素晴らしい姿で、うらやましくもあり、同時にお互いの競争にもなってました。異言を語ってだれが一番尊敬されるのかを競っていました。じつはこの次の14章でパウロはこの問題を取り扱っています。


聖書の中で、自分のお金をすべて教会に献げた人がいました。アナニヤとサッピラです。彼らは大きな土地を売って、その代金をすべて教会に献げたふりをしました。それによって教会の中で尊敬されて、それがステータスになるからです。しかし、この二人は神様に殺されました。

2世紀にマルキオンというお金持ちがいました。この人はローマの教会に今のお金に換算して十億円を寄付しました。しかし彼は旧約の神は残酷で復讐心に満ちているが、イエス・キリストが語る新約の神は柔和で優しい神であると言い、それを教えるために新約聖書を編集して十一書だけをみことばと認定し、旧約聖書を認めませんでした。そのため教会は彼を除名して異端者として追放してお金も全部返しました。

ここでパウロは私たちに、悪いものを求めないように気をつけなさいと言っているわけではありません。御霊の賜物とクリスチャンとして正しい自己犠牲的な行動を求めたとしても、その目的が自分を誇るためで、愛がないなら無に等しいと言っているのです。私たちは異言を語ったり預言したりはしませんが、御霊に満ちている者だと思わせるものはあります。長い祈り、病人を訪問すること、貧しい人への施し、教会への献金、深い真実をクラスや説教で宣べること、たくさんの奉仕、証しによって人々をキリストに導くことなど。これらはすべてとても良い行いです。実際にパウロもコリントの教会の人々の御霊の賜物を求めなさいと命じています。たとえ私たちの心がずれていたとしても神様は私たちの行いをすべてご自分の御国を建て上げるために用いてくださいますが、愛がなく自己中心的な思いで他者のためではなく自分の益のために善を行うなら、自分のためには何の益にもなりません。

では、愛とは何でしょうか。


⚫️愛は寛容であり、愛は親切です。(13:4a)

寛容を言い換えると、長く待つことができることです。焦っていません。そして長く苦しむことを拒みません。相手の祝福になるなら苦しみのうちに喜んで待ちます。長い間相手の罪や侮辱に耐えることも含まれます。

【第一コリント6:7】そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。

彼らは互いに相手を侮辱し、耐えることができません。すぐにお互いに喧嘩して法の前で訴え合っています。

コリントの教会にはこのような問題がありました。彼らはお互いの侮辱に耐えなかったのです。お互いに喧嘩して、法の前にお互いを訴えていました。

【第一ペテロ4:8】何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

愛は寛容ですが、相手の可愛さではなく、相手のみにくさや罪に寛容なのです。罪人に囲まれて居心地が悪くてもそれを拒まないこと、近くにいること、そこから逃げないこと、それが愛なのです。例えば夫と妻は互いから逃げてはいけません。互いに親切で寛容でいることを学ばなければなりません。神の御前に互いを愛すると誓ったからです。互いから逃げられないので愛し合うしかありません。愛し合うことを学べば、お互いから逃げる必要がなくなります。

教会の中の兄弟姉妹も同じです。教会で人と一緒にいることの居心地の悪さは、欠陥ではなくて意図的な教会のデザインなのです。神様は私たちが共に一つのコミュニティーとして生きることを強制的にデザインしているので、そこから愛を学ぶことができるのです。


⚫️また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 (13:4b)

ねたみ、自慢、高慢、この三つはセットです。傲慢と傲慢から出る罪の一つがねたみです。ねたみは、対等だと思っているライバルが自分を乗り越えたときに生まれてきます。自分が手に入れたかったあの成功や注目が他の人に向けられてしまった場合に、その人をうらみます。ねたみ深い人は、ライバルが成功するとねたみ、ライバルが悲しんでいると喜びます。じつはこれが愛の真反対の概念です。傲慢な人が自分にねたみがあることを認めるのはとても難しいことです。それを認めるために、自分がさげすんでいる人を自分より勝っているとどこかで認めなければならないからです。だから相手のどこが劣っているかを一生懸命探して、そこに光を当てようとします。

パウロのことばを受け入れるなら、自分の傲慢より愛が強く大きくなければなりません。愛しているなら、相手の成功によってそれが自分にどう影響するかを真っ先には考えません。ライバルが成功したせいで、みんな私のことをどう思うか、自分がどれほど得をするか、そこから考えません。まずは自分の兄弟にどういう祝福があるかを見て喜びます。言い換えれば、人生をゼロサムゲームとして考えないのです。自分たちは同じからだに属しているので、彼らにとって良いものは自分にとっても良いはずなのです。

これはパウロが12章で説明していたことです。

【第一コリント12:26〜27】一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

コリントの教会は高慢で争いが絶えませんでした。パウロが強調するポイントは、だから愛し合う義務がある、ということです。


⚫️礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、(13:5a)

愛は「私にとって良いもの」対「あなたにとって良いもの」というように自分の利益を求める考えをしません。これが礼儀(思いやり)の本質です。だれかのためにドアを開けたり席を譲ったりすることも礼儀や思いやりだったりしますが、感謝して尊敬されることにつながるかもしれないので、それをここで例えとして使うのにふさわしくないかもしれません。ここでパウロが言うのはもっと深い思いやりの心をもって、だれかが自分を困らせても相手に伝えないであえて隠したり、人に仕えるときにだれにも気づかれないような仕え方をするということです。イエスが山上の説教で教えていますが、そのほうが愛の中心、愛の証拠となるのです。


⚫️苛立たず、人がした悪を心に留めず、 (13:5b)

愛は簡単に怒らないし、ずっと怒り続けません。怒らないためには人が自分にした悪を心に留めて、数えてはいけません。先週もやった、去年もやった、十年前からやった、と相手の悪をためてはいけません。忍耐のバケツがいっぱいになると怒りが一滴落ちて、またバケツがいっぱいになって、常に苛立った状態になります。自分に対して被害者意識があると、他の人に自分が被害を与えていることには気づきません。自分の傷には気づきますが、相手に赦されていることには気づきません。そして自分をかわいそうだと思い始め、義憤に燃えて、結局自分自身の傷に塩をぬって、自分の怒りを拡大させて、同時に正当化します。しかし、愛するならその怒りを手放さなければなりません。兄弟を赦して和解を求め、祝福しなければなりません。


⚫️ 不正を喜ばずに、真理を喜びます。(13:6)

不正を喜ぶとはどういうことでしょうか。先ほど、ねたむ人は相手が失敗したり罪を犯したりしたときに喜ぶと言いましたが、うわさ話が好きなのも同じようなねたみの問題です。私たちは特に相手が失敗したときに良いネタにされます。付き合っていた二人が別れた、だれかがクビになった、などなど相手に起きた災いは完全に自分につながっていないから相手の苦しみを感じないで話すことができます。完全な他者に対して起こった事なので、悪いことをした側の恥も感じないし、された側の痛みも感じません。共感しないで話すことができます。しかしこれでは一つの体として行動しているとはいえません。相手と同じ体であって、愛しているなら、その人の痛みも恥も共感できるはずですし、自分の中でも感じるはずなのです。そうすれば軽々しくその人の痛みに関して、あるいはその人の評判に関することをうわさ話にできなくなるはずです。

むしろ真理を喜びます。人が真理を語るとき、真理のうちに歩んでいるときに、それが自分の喜びとなるということです。

【第三ヨハネ4】私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな大きな喜びはありません。

それはパウロが彼らを愛しているからです。この手紙をみると、愛する者への愛に満ちた手紙であることがよくわかります。


⚫️すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。 (13:7)

この四つもセットです。子どもが生まれたときに、「よし、これから二十年かけてこの子が立派な大人になることを期待しよう」と思います。そしてたくさんのことに耐えます。夜泣き、おもらし、食べ物で汚したりおもちゃで部屋を散らかしたりすること、癇癪を起すこと、教育費が上がるのと同時に反抗期が来ることなどです。そして子どもたちが育った頃には親にも家族にも関心が薄くなって、家を出ることばかり考えます。場合によっては神様への関心も薄くなって信仰から離れることもあります。それでも親はすべてを耐えます。その子はそれでも大人になります。親はその子がいつか神に祝福されて神の栄光を求める者になることを期待して信じ続けます。そうしないではいられないのです。その子を愛しているからです。他の人が諦めてその子の存在を忘れてしまっても、親だけは希望をもって信じ続け、子どもたち一人ひとりのために祈り続けます。それが愛なのです。


13章はまだ続きますが、時間の関係でそろそろ説教を終わらせなければなりません。最後に言いたいのは、この箇所は神がどのように私たちを愛してくださっているかを話しているということです。神は私たちの罪を数えません。むしろ忘れます。私たちが悔い改めると、すぐに私たちを赦して元に戻してくださいます。今日の礼拝の始めに神は私たちの罪を赦してくださったばかりです。神は私たちの罪をすべて耐え忍んで、私たちが清い者になることを期待してそのために働いて待っていてくれます。神はあきらめません。神の愛は決して絶えることがありません。

キリストがなぜ私たちを愛してくださるのかというと、私たちがキリストと一つだからです。私たちは洗礼を通して神と一体となって、聖餐式の時にその一致がまたあらたにされます。

御父がなぜ私たちを愛するかというと、私たちが愛する御子と一つのからだだからです。

その愛は御霊の実です。私たちを一つに結び合わせるのは御霊です。

愛の証しと量りは自己犠牲です。というのは、この13章で読んだことは何も楽しくないことばかりでした。私たちが愛ということばを読んだとき、すぐに恋愛とか楽しいことを思い浮かべるかもしれませんが、先ほど読んだところはすべて苦しいことばかりです。だから神様の無限な愛のかたちが十字架なのです。十字架でささげられたイエスの肉と血なのです。

【第一ヨハネ4:10〜11】私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。



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