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「平地の説教」ルカ6:17〜26

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


ルカ6:17〜26

それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。大勢の弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々がそこにいた。 彼らはイエスの教えを聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人たちも癒やしてもらっていた。 群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。 人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。 その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。 しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。 今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。 人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。


先週私たちは、イザヤとペテロが召しを受ける話を読みました。今日読んだルカの箇所は、イエスがご自分の十二弟子を任命した直後の話です。この話はマタイ5章の山上の説教に対して平地の説教と呼ばれています。山上の説教と平地の説教は真反対に聞こえますがじつは象徴的に似ているところがあります。この箇所の前にイエスは山に上って一晩中神に祈っていました。それはこの後で大きなことが待っているからです。イエスは祈りでその準備をしていました。そして弟子たちを山に呼びました。山の上は神に近い場所で、天と地がつながる場所です。そこでかつてモーセとイスラエルの長老たちが神と交わりをもったように、イエスはご自分の特別な十二使徒を選び、彼らに御使いとしての任務を与えました。彼らは地上から天まで上り、そしてまた地上に下る人たちなのです。神と人の間で上ったり下りたりします。ちょうどヤコブの梯子と同じです。ヤコブが見た御使いたちは地上から始まって、下からはしごを上って下るのです。イエスはわざわざ十二という象徴的な意味のある数字を選んで使徒たちを任命しました。彼らはきっとなにか特別なことが起きていると分かって興奮しています。ついに御国が始まる。新しいイスラエルが始まる。彼らはメシアである新しい王につく君主たちなのです。


それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。大勢の弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々がそこにいた。 (ルカ6:17)

彼らはイエスと一緒に山から下りて平地に戻ります。つまり世に戻ります。すると大勢の人に囲まれました。


彼らはイエスの教えを聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人たちも癒やしてもらっていた。 群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。(ルカ6:18~19)

イエスがそのとき何をするかというと、病気を癒し、悪霊を追い出し、彼らにみことばを教えました。これはメシアが来るときに起きることです。メシアは癒し、清め、教え、そしてさばくお方です。だからイエスはモーセと同じように(申命記28章)、祝福と呪いを宣言します。なぜ呪いの話をするかというと、イエスはさばき主であると同時に、天と地を新しくする、つまり再創造するお方だからです。そしてイエスが現れるときに、すべてを逆さまにします。裏と表をひっくり返します。これはちょうどマリアがマニフィカトで祈っていたことです。おごる者を引き下ろして、へりくだる者を引き上げます。だからこの世の権力者はキリストを嫌い、憎むのです。

実際にルカの福音書6章までを見て、イエスがメシアであることが真っ先にわかるはずだったのはだれでしょうか。イスラエルの中で、だれがイエスを喜んで迎え入れるはずだったでしょうか。

まずイエスの故郷ナザレの人々のはずです。幼なじみもいて、彼らこそイエスのことをよく見て、イエスの本質を知っている人たちです。罪を犯したことのない人と一緒に育ってそれに気づかないはずはありません。

もう一つのグループはパリサイ人たちです。彼らは一番熱心に律法を学んで、それを守ろうとしている人たちなので、彼らこそ預言を理解して、預言の成就が目の前で起きたことによってイエスがメシアだとわかるはずです。

それでは実際にどうなったでしょうか。ルカの福音書4章で、イエスがナザレで教える時に異邦人の話をしました。外にあるものを中に引き入れて、中にあるものが外に追い出されるという意味のことを話します。するとそれを聞いたナザレの人たちはイエスを殺そうとしました。イエスと一緒に育った人たちがイエスを殺そうとしたのです。

【ルカ4:28〜29】これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、 立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。

ではパリサイ人たちはどうだったでしょうか。パリサイ人は6章でイエスに出会っています。イエスは安息日に彼らの前で人を癒しました。それで文句を言いますか。しかしパリサイ人はそれを理由にしてイエスに反対して破壊しようとします。

【ルカ6:11】彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始めた。

最終的にイエスを殺そうという結論に達しました。つまりこのルカ6章の時点で、イスラエルはすでにイエスを拒絶していました。イエスの故郷ナザレも、イスラエルの霊的宗教的なリーダーたちもそうします。これがイエスがご自分の新しいイスラエルを形成するタイミングとなりました。

イエスがこの十二弟子に至福の教えを語るときとは、これから反対や迫害が始まろうとしている時でした。これからの苦しみに彼らが耐えられるように、イエスはこの教えを与えています。


人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。 その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。 (ルカ6:22~23)

目の前にいるユダヤ人たちも預言者たちを迫害しました。だからあなたたちも迫害します、とイエスは言うのです。

使徒たちが人を癒して悪霊を追い出して、イエスの名によって福音を宣べ伝えるなら彼らも迫害されます。実際にペンテコステの後の最初の奇跡は、ペテロとヨハネが神殿にいる足の不自由な人を癒すことでした。そして福音を伝えました。そのせいで彼らは逮捕されて、裁判にかけられました。それなのに彼らは大胆にイエスの救いと復活を宣言します。イエスが約束したこの幸いな状態を彼らは求めたのです。その結果、教会の男性は五千人にまで増え、教会は強められました。

また使徒の働き16章を見ると、パウロはピリピで占いの女から悪霊を追い出したので、彼女によって儲ける見込みがなくなった主人たちが、パウロとシラスを広場の役人に訴えたので、二人はぶたれて牢に閉じ込められました。しかし最終的に看守とその家族に洗礼を授けることができました。そしてピリピで強い信仰の教会が形成されました。イエスが言ったようになったのです。


●「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。(ルカ6:20~21)

この至福の教えを読むときに、ある意味でカルマ≪業(ごう):つまり行動とその結果≫のように感じませんか。

なぜ満たされることは悪いことなのでしょうか。満ち足りるのは悪いことなのでしょうか。タイミングの問題なのでしょうか。今、つまりどの人生にもバランスというものがあって、今笑えばあとで泣くし、今泣けばあとで笑う。それで最終的に全部ゼロに戻る。そういうことなのでしょうか。

イエスはそれを直接的に否定はしませんが、明らかにそうではありません。どういうことかというと、今、手に入る良いものは神からくる豊かさではありません。これは永遠の恵み、賜物ではありません。今、金持ちはこの世のもので満たされていて、そのようなものは枯れて腐ります。今、満たされているなら、それは天から下るパンで満たされていないということなのです。(この時点ではまだ天からのパンは与えられていませんでした。)

今、笑っている人はこの世がまだ闇のうちにある状態で笑っているのです。この世の中が罪と悪霊に支配されている状態で笑っています。しかし光は来ます。そして世を照らします。それで今持っているものは消えていくのです。

【伝道者の書2:8〜11】私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である多くの側女を手に入れた。こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものがない。

これはソロモンが書いたものです。私たちはいくら頑張ってもソロモンほどの金や銀や快楽を手にすることはできません。しかし、ソロモンはそれを手に入れてもすべては空しいと言います。結局それはソロモンに喜びを与えるものではありませんでした。それなのに私たちは自分の手に入る小さな富をもって喜びを求めますか。

【ルカ16:19〜26】ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。そればかりか、私たちとおまえの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのことろへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

この金持ちは、生きている間に何に満たされていたのでしょうか。この世の腐るもの、さびるものでしか満たされていなかったのです。ラザロが自分の目の前にいてもそれを助けようとしませんでした。

イエスはマタイ6章で次のように言います。

【マタイ6:19~21】自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

私たちは自分に問う必要があります。私たちはこの世になじみすぎていないか、私たちは神に受け入れられるよりも人に受け入れられるように努力しているか、もしそうであるなら私たちはあわれです。

周りの人たちは、私たちが根本的にこの世の人と違うことに気づいていますか。自分に敵がいないのは自分が立場を取らないからでしょうか。結局自分を守ろうとしているのでしょうか。キリストとともに立たないから敵がいないのでしょうか。そうであるならあなたがたはあわれです。

自分の時間も力もお金もこの世の幸せを求めるために使うなら、そしてそれをステータスシンボルにして贅沢な食事を食べて笑って、それで自分を満たそうとしているならあなたがたはあわれです。

この世と同じゴールを求めて、何も考えずに、戦わずに、流されているなら、つまり神の御国のために生きて犠牲を払わないなら、私たちはあわれです。しばらくは人生を楽しむことができますが、その人生は終わります。その後、私たちはアブラハムの懐でイエスにある永遠の祝福を味わうことができないのです。

この至福の教えを一つの絵にしたものが目の前の十字架です。十字架を見た時、これはイエスの苦しみと死を表す、目に見える記念なのです。これが私たちのステイタスシンボルです。これが神の栄光です。パウロはガラテヤ書でこう言います。

【ガラテヤ6:14】しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。

私たちがこの世に対して死んでいるなら、この世の呪いがかかっている祝福を求めません。むしろ私たちは呪いに見えるが祝福である十字架と永遠の栄光を求めます。

至福の教えの絵となるものがもう一つあります。それは聖餐式です。これもイエスの苦しみと死を表すものです。しかしその死は私たちにとっていのちとなりました。イエスの犠牲が私たちの宴会となりました。聖餐式は確かに宴会の時です。私たちは食べて飲みます。しかし同時に断食の時でもあります。聖餐式のパンも杯も小さくて、これだけではお腹は満たされません。明らかにこれがすべてではないことを表しています。この聖餐式は未来にある成就を指している影でしかないのです。聖餐式は私たちに何を覚えるように働いているかというと、私たちがこの世で貧しい者、飢える者、泣く者として生きることです。しかし逆説なのは、私たちがそのように生きる時、すでに喜びが与えられているのです。叫ぶほどの、踊るほどの喜びが与えられています。それはイエスの影の約束がそれだけ堅く信頼できるものだからです。そして私たちの信仰も希望もそれだけ堅いものであるからです。だから私たちの喜びはすでに与えられました。私たちは花婿であるイエスとともにはいませんが、同時にこの聖餐式を通してすでにともにいます。私たちはすでにイエスとともにいるような喜びの宴会にあずかることができるのです。



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