「第十戒についての教え」申命記26:1~11
- churchmitaka
- 3月9日
- 読了時間: 10分
説教者:ボグミウ・ヤルムラク牧師(CREC フス地区会監督牧師)
申命記26:1~11
あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に入って行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫する、大地のすべての実りの初物の一部を取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ばれる場所へ行かなければならない。
そして、そのとき任務についている祭司のもとに行って、「今日、あなたの神、主に報告いたします。私は主が私たちに与えると父祖たちに誓われた地に入りました」と言いなさい。
祭司があなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、主の祭壇の前に置いたら、あなたは、あなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「私の父はさすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。しかし、エジプト人は私たちを虐待し、苦しめ、私たちに激しい労働を課しました。私たちが私たちの父祖の神、主に叫ぶと、主は私たちの声を聞き、私たちの苦しみと労苦と虐げられている有様をご覧になりました。そこで、主は力強い御手と伸ばされた御腕によって、恐ろしい力と、しるしと不思議をもって私たちをエジプトから導き出し、この場所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに与えてくださいました。今ここに私は、主よ、あなたが私に与えてくださった大地の実りの初物を持って参りました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前で礼拝しなければならない。あなたの神、主があなたとあなたの家に与えられたすべての恵みを、あなたはレビ人および、あなたがたのうちの寄留者とともに喜びなさい。
今日の説教は申命記26章1~11節です。先ほど朗読したばかりの箇所です。
今日の箇所はイスラエルの40年の荒野の旅が終わろうとしているところになります。エジプトを出たときに40歳以上だった大人のほとんどは、この時点でみんな亡くなっています。今生きているイスラエル人の中には、エジプトを出たときに生まれていなかった人も含まれています。イスラエルの民は約束の地に入る寸前で、この約束の地は乳と蜜が流れていました。つまり約束の地はエデンの園より素晴らしい場所ということです。クリスチャンの中には、自分たちの望みはエデンの園に戻ることだと言う人もいますが、そうではありません。神様は私たちにエデンの園以上のものを与えようとしています。私たちは歴史的に前に進もうとしています。私たちは、常に昔の黄金時代に戻ろうとしてる古代ギリシャ人ではありませんし、同じようなことを夢見ていたマルクス主義者でもないのです。
神様は常に以前より良いものを私たちに与えようとしています。エデンの園には水と果物がありました。今度はその水が栄光化されて乳になり、果物が栄光化されて蜜になり、さらにそれが栄光化されてぶどう酒になりました。神は私たちにより良い物を常に与えようとしています。
イスラエル人にこれからまさにこのようなことが起きようとしていました。
しかし、エデンの園に勝っている約束の地に入るためには、ある命令を守らなければなりません。私たちが小さい子どもだとします。そして親に三輪車を買ってもらったとします。しかし彼らが成長すると、親にSUV(スポーツ用多目的車)を買ってもらいます。三輪車よりSUVの方が能力やスキルが必要になります。イーロン・マスクは火星まで行ける宇宙船を与えようとしています。それはさらに知恵と責任が必要になるのです。神が与えるより良いものをちゃんと使うためには、私たちは知恵においても責任においても成長しなければなりません。それがここでモーセがしようとしていることです。
イスラエルはここでパラダイス以上のものを与えられるところです。しかし、この美しい実が実る地を荒野に変えないために、そしてそれを耕して守り、栄光から栄光へと変えていくために、それを正しく扱う知恵が必要です。
神はモーセを通して民と契約を新しくします。
申命記のほとんどは十戒を拡大して説明しています。それがおもな知恵の源だからです。
申命記5章から26章までは十戒を説明するとても長い説教です。今日学ぶのは26章なので、モーセはこれから最後の第十戒を説明します。
順番にも意味があります。第一戒が御教えの楚石(コーナーストーン)であるなら、つまり知恵の土台であるなら、第十戒は一番上に乗る冠石(キャップストーン)のようなものです。ポーランドに是非おいでください。皆さんにキャップストーンをお見せします。
第十戒はそれまでの命令とは違って、行動より心の姿勢について話しています。
旧約聖書はモーセはただ外面的なところを取り扱っていて、どのように行動するかが書かれているだけだとよく言われます。しかしそれは間違っています。例えば、神様は人を妬むな、と言いますが、間違って妬んではならないものを妬まないように、という意味です。嫉妬には良い嫉妬もあるからです。皆さんはきっと、私の新しいジャケットに嫉妬しているでしょう。100%ウールでエジプト製です。エジプトのジャケットは日本では買えないでしょう。あるいは私の知恵に嫉妬しているかもしれません。
嫉妬による行動は二つあります。まず一つ目は、私を殺してこのジャケットを奪うことです。残念ながらそちらを選ぶことが多いと思います。これを恨みといいます。これは革命家がやることです。
もう一つの行動は私のように一生懸命勉強することです。ジェームス・ジョーダンの講義をすべて聞き、グロックAIからサブスクリプションを買えば、50年後には私のような知恵を得ることができるでしょう。
第十戒は正しい愛の順位についての教えと言えます。
第一戒は、私たちの愛もすべて神に注目しなければならないと言います。しかし、私たちの神への愛の順位が間違っていたり曲がっていたりすると、隣人への愛も曲がります。そしてそのひねくれた愛も自分の求めるところも曲げてしまいます。
【詩篇37:4】主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
この節は二つに分かれています。「主を自らの喜びとせよ。」と「そうすれば主はあなたの願いをかなえてくださる。」です。つまり私たちが主を自分の喜びとしないなら、第一戒を守らないと私たちの求めるものも曲がってしまいます。神が私たちを憐れむなら、私たちの罪深い望みをかなえません。しかし、私たちが神に聞き従わず、逆らってしまうなら、神は私たちの罪深い願いをかなえてしまいます。それが私たちに対するさばきなのです。これが常に不満で恨みに満ちている人のもたらす結果です。まるで私たちの内にエイリアンがいて、それが大きくなって体から飛び出るようなものです。だから私たちは主にあって喜びなさいと命じられているのです。26章でモーセは私たちにそのことを話しています。主にあって喜ぶことが、不満や恨みに対する一番の薬だからです。私たちが主にあって喜ぶなら私たちの望みも価値観も神によって変えられます。その結果、隣人を愛することができるようになります。それにボーナスとしてついてくるのが豊かないのちです。
争いや文句を言って楽しむよりももっと良いものがあります。良い友人との友情や良い会話です。お互いをからかうことも含まれるかもしれません。一緒に飲んだり食べたりできるかもしれません。一緒にタバコを吸うかもしれません。とても楽しい時間です。でもなぜそれが楽しいのかというと、それは礼拝のクライマックスに主と全ての聖徒たちとともに食べて飲むからです。罪は間違ったものを愛することから出てきます。あるいは、あるものをふさわしくないほどに愛することから出てきます。あるいは、間違ったタイミングで愛することから出てきます。
それに対する治療法は神を第一に愛すること。神を第一に愛すれば、ほかのものは自然と良い順番に並べ変えられます。この申命記26章で、モーセは実践的にアドバイスします。まず私たちの初穂を主に持って来なさいといいます。これはとても実践的です。恨みに満ちた人になりたくなければ神に献金しなさい。
これを言うと、皆さんはきっと、私がただお金が欲しいだけなのだと思うでしょう。もっと本を買いたいからだと思うでしょう。
しかしもし私が教会から受けたお金を間違って使うなら、この場で稲妻が光って雷が落ちて私は死にます。モーセが言うのは、神に喜びをもって什一献金をささげなさい、ということです。喜び感謝して神にささげなさい。このようにして神に感謝を表すのです。私たちはカントというドイツの哲学者に思想が曲げられていて、先に感謝の心がないと献金できないと思ってしまいます。しかし、親は子どもが食事を終えて食卓から離れようとする時に、魔法のことばを言わせます。「ごちそう様でした」この習慣が性質になっていきます。神は私たちに什一献金を喜んで持ってきなさいといいますが、この初穂を持ってくることができるのは、すでに神に祝福を受けているからです。先に良いものを与えられたのは神です。それをもって働いて、豊かに実を結ぶために、神様はイスラエルに乳と蜜の流れる地を与えてくださいました。彼らが建てていない家を与え、彼らが耕していないぶどう畑を与えようとしています。私たちはみんなこのようなプレゼントが欲しいと思いますが、じつは神様はそれよりずっと良いものをすでに私たちに与えてくださっています。その一つがイエス・キリストです。神がすでに与えてくださっている良いものを思い出せば、喜びをもって神の愛に出ることができます。自分の働きの実を祝って喜びましょう。
だからモーセの時代にたくさんのお祭りがありました。厳しい時代にどれほど祭りがあったと思いますか。年に八十日くらいありました。祭りは寝坊できる日ではなく、祭りをする日でした。じつは断食は一日だけしかありませんでした。これは信頼の問題でもあります。私たちが収入の10%を聖職者に渡すのは難しいことかもしれません。しかし私たちが主を信頼しているかどうかが問題です。神がこうしなさいと言われるから、私たちはそれに従うのです。神が私たちを愛していて、慈しみ深いお方だとわかっているからです。つまり、什一献金は私たちにとって良いものだということです。
そして献金は神とのやり取りと考えてはいけません。献金やいけにえを神とのやり取りと考えるのはカインの見方です。私たちが神の命令に従って水の上に投げたパンは、必ずふさわしい時に戻って来ます。だから私たちが神に献金を与えることによって、私たちが神の恩人になるわけではありません。私たちが何をしても神の恩人にはなれません。というのは、神様はキリストにあって私たちに全てを与えているからです。神様は神の慈愛の働きに加わわるように私たちを招いています。そのお金は必要とする人の手に渡ります。
また、神は地上の栄化に加わるように私たちを招いています。私たちの献金は私たちにこのことを思い起こさせます。なぜなら献金は私たちの働きの実であって、主に祝福されているからです。
【第一コリント15:58】ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
これはパウロの手紙の中で一番長い章で、復活について教えている箇所の一番最後の節です。献金をするときに、私たちの労苦は無駄ではないことを思い出します。常に私たちを栄光へ導くことを思い出させてくれます。神様が私たちに与えてくださる恵みや祝福のすべてに感謝を表す方法の一つです。妬みや欲に対する唯一の治療法です。妬む人になりたくないので、人を祝福したいのです。妬みはエイリアンです。体の中で内側からあなたを食い尽くします。苦い恨みに満ちた、怒りに満ちた人間に変えてしまいます。
主のわざに励む道は祝福といのちの道です。
欲張って妬む心をもち、全てを手放さない心は実を結ばない死と呪いの道です。
だから選ぶ前によく考えてください。アーメン。
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