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「王のための教え」申命記17:14~20

説教者:ラルフ・スミス牧師


申命記17:14~20

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが「周りのすべての国々と同じように私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない異国人をあなたの上に立てることはできない。ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。主は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。

その王国の王座に就いたら、レビ人の祭司たちの前にある書から自分のために、このみおしえを巻物に書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない。それは、王が自分の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることのないようにするため、また命令から右にも左にも外れることがなく、彼とその子孫がイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるようにするためである。

前回はモーセの人生について一緒に考えることができた。モーセの人生全体を見るために、使徒の働きのステパノの説教を思い出さなければならない。ステパノはモーセの人生を三つに分けた。最初の四十年はエジプト、次の四十年はミディアン、最後の四十年はイスラエルと共に荒野を旅した。このようにモーセの人生を簡単に四十年、四十年、四十年で区切ることができる。これはモーセ自身がどんなに特別な預言者であったかをよく表している。


申命記を書いたのはモーセである。彼はそれを四十年の荒野の旅の最後の月に書いた。モーセとアロンは罪を犯したので約束の地には入れないと神様に言われた。だから、荒野の旅が終わりに近づいた時、モーセの最後の仕事は申命記を書くことだったのである。

申命記34章にモーセが死んだことが記録されている。モーセが死んだ後で、おそらくヨシュアが記録したのだと思う。

申命記33章の歌は、モーセが死ぬ直前に創世記のヤコブのようにイスラエルの12部族を自分の子どものように思って書いた祝福と教えの歌である。

この申命記の中心的な段落は17:14~20の王についての教えである。出エジプト記から申命記までの間で「王」という言葉はこの段落以外どこにも使われていない。そしてこの段落が申命記全体の中心的な段落であることは非常に大切である。


モーセがエジプトに生まれたときに、ファラオが生まれてくるイスラエル人の男の子を殺せと命じた。

【出エジプト記1:16】彼は言った。「ヘブル人の女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ。」

ところが、ヘブル人の助産婦たちは神を恐れて男の赤ちゃんを生かしておいたので、神は彼女たちを大いに祝福してくださった。しかしファラオは諦めなかった。

【出エジプト記1:22】ファラオは自分のすべての民に次のように命じた。「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」

ファラオはこのように命じたが、モーセの母ヨケベデの深い信仰によって、モーセは3ヶ月間自宅にかくまわれていた。

【出エジプト記2:3】しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。

ヨケベデはモーセをかごに入れた。この「かご」というヘブル語は、ノアの「箱舟」という言葉と同じである。そして聖書の中でこの二箇所にしか使われていない。つまりモーセの母は信仰をもって、この箱舟にモーセを入れたら神様がこの子を救ってくださると信じていたのではないかと思う。

モーセには兄(アロン)と姉(ミリアム)がいた。姉のミリアムはナイル川に置かれたモーセが心配で見ていた。するとファラオの娘が水浴びをしに現れて、モーセをかわいそうに思った。それを見たミリアムが、ヘブル人の乳母を呼んできましょう、と王女に言って、自分の母親を連れて来た。モーセの実の母は王女から賃金を受け取ってモーセを引き取り、乳を飲ませることができた。

モーセは七歳くらいから貴族の教育を受けるようになった。つまりファラオの娘の息子として認められたのだ。モーセはエジプトの貴族が受ける教育を受けた。エジプトは当時の世界で一番高いレベルの教育を与える国だった。モーセは貴族の教育を二十歳まで受けて、そこから四十歳までの二十年の間、実際の貴族としての経験を積んでいた。それはモーセが王の書物を書くことが出来るための特別な訓練であった。彼は貴族の教育を受けて実際に働いたことによって、神の命令を深いところまで理解して申命記を書くことができた。王の書物を書く訓練だった。


モーセの次の四十年は、モーセがヘブル人の苦役を見るところから始まる。モーセはエジプト人が同胞であるヘブル人を打っているのを見た。この「打つ」という言葉はカインがアベルを殺した時に使った言葉なので、エジプト人は単にヘブル人をいじめていたのではなく、本格的に打っていたのである。

それでモーセは周りにだれもいないのを確かめてからそのエジプト人を殺して砂の中に埋めた。すると今度はヘブル人同士が争っているのを見た。モーセは悪い方に「なぜ自分の仲間を打つのか。(出エジプト2:13)」と聞いた。すると彼は次のように答えた。

【出エジプト記2:14】「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。

モーセがエジプト人を殺して埋めたことが知られてしまい、それが王の耳にも入った。そして王がモーセを殺そうとしたので、モーセは逃げてミディアンの地に着いた。

ミディアンの地はアブラハムとケトラの息子ミディアンから始まった所で、そこに住むイテロは本当の神様を信じる祭司であった。モーセは四十年の間羊飼いとしてイテロの家で働いた。旧約聖書で王は羊飼いと呼ばれている。ダビデが羊飼いとして働いた経験が良い王になるための訓練であったのと同じように、モーセも祭司イテロの元で四十年間羊飼いとして働いた。羊はあまり頭が良くないし迷いやすい。神様が私たちをご自分の羊と呼ぶのは神の恵みを強調しているからである。私たちが素晴らしいからではなかった。その羊飼いの経験によって、モーセがエジプトに戻った時にイスラエルの羊飼いとなった。そこでモーセは王のような仕事をした。律法が与えられて、戦いを導いた。同時にイスラエルの大祭司のようでもあって、シナイ山の頂上に上って神の栄光を見た。他にだれも神の栄光を見た人はいなかった。

そしてアロンとアロンの息子たちの任命式を行ったのはモーセであった。それで祭司制度が始まったのである。

【申命記18:15】あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。

モーセはイスラエルの一番最初の預言者で基準を決めてくれた。王、祭司、預言者のような働きをしていたモーセは王のための書物を自分の最後の働きとして書いた。

モーセが申命記を書いた後で、神のもとに行った。そのモーセが書いた申命記について、私たちはこれから何回か一緒に学ぶが、その中心的な段落は、今日読んだ17:14~20の王のための教えである。この中にいくつか目立つところがあるが、昔の王たちのように心が高ぶらないようにしなさいと書いてある。このような王への教えは周りの異教の社会にはあまりないと思う。

そして王は申命記を自分の手で書いて、それを毎日読まなければならない。王が本当の神を恐れて、神の律法から右にも左にもそれないようにするためである。



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