「福音書と手紙から復活について考える」ルカ24:1~12
- churchmitaka
- 4月20日
- 読了時間: 13分
説教者:ラルフ・スミス牧師
ルカ24:1~12
週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
彼女たちはイエスのことばを思い出した。そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。
今日の説教はイエスの復活についてである。まず福音書から一緒に考えて、次にパウロの手紙から一緒に考える。なぜそのように二つに分けるのかというと、イエス様の復活について、福音書とパウロの手紙の書き方には、矛盾ではなく大きな不思議な違いがあるからだ。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書には歴史的なことしか書かれていない。イエス様がよみがえったので私たちもよみがえるとか、イエス様は初穂であるとか、そのようなことは何も書かれていない。歴史的な事実だけを述べている。
一方で手紙には復活の意味について書いてある。
ペテロは、ペンテコステで御霊が与えられた後の、最初のキリスト教の説教(使徒の働き2章)で、イエス様の復活の歴史的な意味を中心に話している。新約聖書の中で、第三ヨハネ以外の手紙はイエス様の復活を直接的にあるいは間接的に語っている。つまり新約聖書全体の中心はイエス様の復活であると言える。
⚫️福音書から復活について考える
まずなぜ福音書が歴史的な事実のみを語っているのかを一緒に考えたいと思う。
マタイとヨハネは目撃者として福音書を書いた、マルコはペテロの目撃証言を聞いて福音書を書いた。ルカは目撃者を知っていてインタビューして福音書を書いた。(ただしルカも目撃者だったという説もある)
四福音書は目撃に基づいて書かれた福音書である。
そしてイエス様が復活してペンテコステで御霊が与えられた後で、使徒たちはみんなエルサレムに残った。使徒の働き8章に、パウロが教会を迫害した時にほとんどの弟子たちはエルサレムを離れなければならなかったが、十二使徒たちはまだ残っていた。彼らは何ヶ月間も一緒に集まってお互いにイエス様について話したはずである。イエス様から何を教えられたとか、どういう経験をしたとか、一人一人の経験の違いもあるだろうし、すべての交わりの中心にイエス様がいたと思う。それだけではなくて、何千人もバプテスマを受けてクリスチャンになった時に、十二使徒たちはこの人たちにイエス様について教えていたと思う。そうすると私たちは、十二使徒たちがイエス様の復活について簡単に一貫した証を話しただろうと思いがちだが、そうではないのが非常に不思議である。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが細かいところまで同じように書いたのではない。一緒に計画してこのように書きましょう、と言って書いたのではなかった。マタイはマタイの観点から、マルコはマルコの観点から、ルカはルカの観点から、ヨハネはヨハネの観点から、非常に複雑な歴史的な証を書いている。これが一つの驚くべきことである。
復活についてまとめることは不可能ではないが、複雑で難しいところがある。John Wenham という人が200ページくらいの「Easter enigma(イースターの謎)」という本を書いてイースターについて細かくまとめているので不可能ではないと思うが、簡単に書けるものではないと思う。
そしてマタイにはもっと不思議なことが書いてある。イエス様が十字架上で死なれた翌日、祭司長たちとパリサイ人たちがピラトのところに行った。
【マタイ27:63~64】「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」
祭司長たちはこのようにピラトに提案した。それでピラトは番兵を出してイエスの墓に石で封印をして、墓の番をさせた。すると三日目の朝、主の使いが石をわきに転がした。それを見た番兵たちは震え上がって死人のようになった(マタイ28:4)。これは意識不明の状態ではなく、何が起きているのかわかっていたが恐ろしくて動けなかったのである。番兵たちは御使いと女性たちとのやり取りを見て、イエス様が復活してもうここにはいないことを知った。そして女性たちが弟子たちにそのことを伝えに行ったが、その途中で彼女たちはイエス様ご自身に会い、「弟子たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。(マタイ28:10)」と伝えた。女性たちがまだ弟子たちのところに行き着かないうちに、番兵たちはエルサレムに戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した(マタイ28:11)。「すべて」ということばをマタイは強調するが、すべてとは、御使いが現れて、その御使いが墓の石を動かして、女性たちにイエス様がよみがえったと伝えたこと、イエス様ご自身がガリラヤに行けばイエス様に会えると言ったことなどである。それを聞いて祭司長たちは協議して、ピラトには言わずに偽りを言いふらすようにした。
【マタイ28:12~15】そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。
番兵たちにお金を払って弟子たちが遺体を盗んだと言わせた。もしピラトの耳に入っても罰を受けないようにピラトを説得する(つまりピラトに賄賂を贈る)ことにした。
昔のローマの記録にあるが、ピラトが賄賂をもらうことは時々あったようで、評判があまり良くなかった。
番兵たちはお金を受け取って言われた通りにした。
このストーリーをマタイの福音書で読むと、復活の意味は何も書かれていないが、祭司長、長老、律法学者、パリサイ人たちの話は80回以上出てくる。繰り返し繰り返し祭司長たちがイエス様の働きの始めから反対している。男性たちの中で一番先にイエス様のよみがえりの証を聞いたのは、祭司長たち、律法学者たち、長老たち、つまりイエス様を十字架につけたリーダーたちであった。 神様はここまでイスラエルを憐れみ、イエス様に一番反対した人たちに最後まで恵みの御手を伸ばしてくださった。イエス様がパリサイ人や律法学者たちを叱るのは、彼らを憎んでだめにしようとしていたのではない。むしろこの人たちの目が覚めて救われるように憐れんで救うためだった。御使いを送って、その口からイエス様のよみがえりを知らせ、祭司長たち、律法学者たちに伝えるという記録がマタイの福音書に書かれているのは、じつに不思議で素晴らしいことである。私たちは、ここまで神様が恵み深いお方であることを知ることができる。
⚫️パウロの手紙から復活について考える
【第一コリント15:19】もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
この世においてのみ望みがあるなら惨めである。イエス様のことを思い出して欲しい。
【イザヤ53:3】 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
イエス様は悲しみの人である。それは十字架だけではなく、生まれた時から悲しみの人だった。ヘロデは赤ちゃんのイエス様を殺そうとした。イエス様はエレミヤのように悲しまなければならないメシアだった。
【エレミヤ9:1~2】ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。
ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を置いて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通する者、裏切り者の集まりなのだ。
エレミヤは泣いて泣いてイスラエルの罪を悲しむ。エレミヤ書9章はエレミヤの悲しみで始まるが、5節からはヤハウェの悲しみになっている。エレミヤとイスラエルの神様は同じような心を持っている。エレミヤは神の哀れみや悲しみや苦しみを自分の経験として表している。単なる罪人であるエレミヤがここまで悲しんだのだとしたら、完全に清く、正しく、深い哀れみの心を持っているイエス様はどれほど人の罪を思って泣いていただろう。ナザレで育って、子どもの時から周りの人々の罪深さを感じて悲しんでいたはずだ。イエス様は十字架に行く前に神殿で嘆く祈りをささげていた。
【マタイ23:37】エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
悲しみの人イエス様に望みがなければそれこそ惨めである。
【ヘブル12:2】信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
イエス様には復活の望みがあり、ご自分の前に置かれた喜びがあるので耐えることができた。
【ローマ8:18】今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
私たちに与えられる試練や苦しみは、未来の栄光に比べれば取るに足りないとパウロは言う。
被造物全体も私たちの復活を待ち望んでいる。
【ローマ8:19~21】被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
個人一人一人は復活するが、それだけではなく、神の子たち、つまりイエス様のからだである教会全体の復活ことをパウロは話している。
そして被造物全体が神の教会のよみがえりと神の教会の永遠の栄光を待ち望んでいる。栄光の望みは個人一人一人、教会全体、被造物全体の話になる。
【ローマ8:22~25】私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
主イエス・キリストの復活は、すべての祝福、全ての栄光の初穂である。初穂は最初の収穫で、その後の収穫の保証である。イエス様がよみがえったので、私たちもよみがえる。イエス様のよみがえりは歴史的な確かな事実なので、私たちはその証を覚えて、自分たちもよみがえることを覚える。その確信により、被造物とともに栄光の望みをもってすべてを耐えることができる。今の苦しみは後の栄光と比べたら取るに足りない。
私たちは100年か120年生きるかもしれないし、もっと早く死ぬかもしれない。そして私たちは死んでイエス様の元で永遠のよみがえりを待つ。よみがえった後の永遠のいのちは私たちには把握できない概念であるが、永遠の神の恵みを楽しむ未来が待っている。そのことを、特に私たちは復活祭の時に思い出して、覚えて、その事実の上に立って、自分たちの未来を待ち望む。そしてすべての苦しみに耐えるように励まされる。
【ローマ8:28】神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
ギリシャ語の順番は日本語の順番と違う。ギリシャ語では「私たちは知っています。」で始まる。次に「神を愛する人々」と続く。私たちの毎週の礼拝の中でモーセの十戒に続いて、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と司式者が唱えてくれる。神を愛し、隣人を愛する人がクリスチャンの定義である。
ギリシャ語の順番に戻るが、「私たちは知っています。」「神を愛する人々」それに続いて、「すべてのことがともに働いて益となる。」となる。最後に「神に召された人々」で終わる。神を愛する人々とはだれなのか。なぜ神を愛するのかというと、先に神が私たちを愛してくださったのである。神は私たちを選んで召してくださった。神を愛する愛は、神が私たちを愛してくださる愛から始まる。
【ローマ8:29】神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
私たちの未来の栄光は御子とともに御子と同じ姿になる。具体的に想像はできないが、パウロは知っていると言う。確信できるのである。
【ローマ8:30】神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。
過去形で表現されている。私たちが永遠の栄光を相続することは確かなので過去形で表現できる。栄光はすでに私たちに与えられているからである。
【ローマ8:31~34】では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
イエス様はよみがえって神の右の座にすわってとりなしていてくださる。そして私たちの大祭司は私たちの苦しみを知らないお方ではない(ヘブル4:15)。
【ローマ8:35~37】だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
私たちは圧倒的な勝利者である。栄光の勝利が私たちを待っている。その時までに神様が私たちを守って助けてくださる。イエス様はとりなしの祈りをしてくださり、必ず最後まで守ってくださり、すべてのことを働かせて益としてくださる。
【ローマ8:38~39】私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
私たちの愛が弱くても素晴らしいものではなくても、ポイントは神の愛である。私たちを愛してくださったイエス様が十字架上で死んで、よみがえられた。よみがえったイエス様の愛を覚えて、イエス様とともに私たちに永遠の栄光が与えられ、教会全体に栄光が与えられ、神の被造物全体がイエス様の復活の栄光にあずかる。そのことを覚えて一緒に聖餐を受けたいと思う。
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