「レギオン」ルカ8:26~39
- 2025年6月22日
- 読了時間: 17分
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
ルカ8:26~39
こうして彼らは、舟で、ガリラヤの反対側にあるゲラサ人の地に着いた。
イエスが陸に上がられると、その町の者で、悪霊につかれている男がイエスを迎えた。彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」
それは、イエスが汚れた霊に、この人から出て行くように命じられたからであった。汚れた霊はこの人を何回も捕らえていた。それで彼は鎖と足かせでつながれて監視されていたが、それらを断ち切っては、悪霊によって荒野に駆り立てられていた。イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「レギオンです」と答えた。悪霊が大勢彼に入っていたからである。悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した。
ちょうど、そのあたりの山に、たくさんの豚の群れが飼われていたので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと懇願した。イエスはそれを許された。悪霊どもはその人から出て、豚に入った。すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、おぼれて死んだ。飼っていた人たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や里でこのことを伝えた。
人々は、起こったことを見ようと出て来た。そしてイエスのところに来て、イエスの足もとに、悪霊の去った男が服を着て、正気に返って座っているのを見た。それで恐ろしくなった。見ていた人たちは、悪霊につかれていた人がどのように救われたか、人々に知らせた。ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、自分たちのところから出て行ってほしいと願った。非常な恐れに取りつかれていたからであった。それで、イエスが舟に乗って帰ろうとされると、悪霊が去ったその人は、お供をしたいとしきりに願った。しかし、イエスはこう言って彼を帰された。
「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。
このストーリーは印象に残るストーリーで、とても大切なストーリーなので、マタイ、マルコ、ルカの三福音書がこの出来事を伝えています。
このストーリーは私たちにに何を伝えようとしているのでしょうか。面白いストーリーではあるのですが、同時に謎だらけのストーリでもあります。
今日はこの直前の出来事から始めてみたいと思います。
【ルカ8:22~25】ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。
舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
イエスが風と荒波を叱ったら湖は静まりました。この話は「いったいこの方はどういう方なのだろうか」という弟子たちの問いまで導かれます。この後のストーリーはこの問いに答えるものでもあるということです。イエスは一体だれなのでしょうか。
私たちがルカの福音書を最初から読んだならその答えはわかりますが、そのことはまた後で話します。
レギオンのストーリーを一緒に考えながら、この問いのことを覚えていてください。レギオンのストーリーはその謎を深めますが、私たちが耳を傾けるなら弟子たちの質問に対する答えもあります。
⚫️こうして彼らは、舟で、ガリラヤの反対側にあるゲラサ人の地に着いた。(ルカ8:26)
ゲラサ人の地は異邦人のいる場所でした なぜなら一つは彼らが豚を飼っていたからです。ユダヤ人は豚を飼わないし食べません。
⚫️イエスが陸に上がられると、その町の者で、悪霊につかれている男がイエスを迎えた。彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。(ルカ8:27)
イエスが陸に上がるとすぐに、悪霊につかれている男が走ってきてイエスを拝みました。
⚫️彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」それは、イエスが汚れた霊に、この人から出て行くように命じられたからであった。(ルカ8:28~29a)
これを読むと、彼らは明らかに初対面ではありません。悪霊たちはイエスがだれなのか知っていて、ある意味でイエスに従っている者たちでもありました。悪霊につかれた男はイエスのことを「いと高き神の子イエスよ」と言います。これは決して「知ってるよ」という軽い感じの言葉ではありません。「神の子」は権威と力のある位を表しますし「いと高き神」は特別な神の名なのです。特に天使(悪霊も含まれます)や異邦人が使う名前です。
例えば、悪魔がイザヤ14章でこのように言います。
【イザヤ14:14】密雲の頂きに上り、いと高き方のようになろう。
新約聖書では、ピリピの町でパウロたちにつきまとう占いの霊につかれた女奴隷もこのように言います。
【使徒の働き16:17】彼女はパウロや私たちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けた。
このように「いと高き神」は天使たちの中でも特に悪霊がよく使う表現で、同時に異邦人もよく使います。メルキゼデク、バラム、ネブカデネツァルなど。天のエロヒーム(神々)がたくさんいて、神々のような天使たちの中で、偉大なる、栄光に満ちた、この神お一人だけが礼拝に値する神なのです。
そのことがルカの福音書の始めのところに出てきます。先ほどルカを最初から読んでいればわかると言いましたが、この箇所のことです。
【ルカ1:30~33】すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
その子イエスは王となり、いと高き方の子と呼ばれます。これがルカの大切なテーマの一つです。
人々はイエスのことをいと高き神の子として認めるのでしょうか。それに従うのでしょうか。イエスは本当にその位を受けた王として治めるのでしょうか。
何度も天使や悪霊がイエスに出会って、それを認めます。
【ルカ4:41】また悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは悪霊どもを叱って、ものを言うのをお許しにならなかった。イエスがキリストであることを、彼らが知っていたからである。
悪霊どもがなぜそれを知っていたかというと、初めから、彼らは御子によって支配されて、イエスがその位を持っていることを知っていたからです。でも人間たちはそれを認めません。それがイエスの裁判の時の問題でした。この方はだれなのか。「あなたはキリストですか」と聞かれて、イエスは「人の子です。」と答えます。イエスが引用する箇所は、人の子が神の子だと言っているところなので、それを悟った祭司たちが「ではあなたは自分のことを神の子と言うのか。」と言って、冒涜だと訴えたのです。そのせいでイエスは十字架にかけられました。イエスは本当のことを言ったのに、偽りであると宣言されて死刑になったのです。イエスはだれなのか、というのがルカの中心的な一つの問いです。
この悪霊につかれている人は、元々この町の人ですが、今は町の外の山の中の墓場で暮らしていました。彼はあまりにもたくさんの悪霊につかれていました。
そして悪霊は自分たちのことをレギオンと呼びます。レギオンはローマの五千人から六千人くらいの兵士の部隊を指す言葉です。実際に天使は万軍の神の軍隊なので、天使もレギオンごとに分かれていました。つまりレギオンという呼び名は悪霊にとっても相応しい呼び方です。
この人が悪霊につかれるのはとても苦しいことでした。拷問です。
【マルコ5:3~4】この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれも彼を押さえることはできなかった。
彼を苦しめたのは、人々が彼を恐れていて、彼を縛ろうとしたことです。彼は人間の社会から切り離されていたのです。そこには孤独の苦しみがありました。
【マルコ5:5】それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。
彼は苦しいから自分のからだを傷つけていました。彼は悪霊にも人間にも「あなたは罪人で、あなたには救いがない。あなたは愛に値しない。あなたには価値がない。」というようなことを常に言われていて、それが行動に出た結果でした。彼は人から切り離されて、服を身につけず、家に住まないで、山の中にいました。まるで動物のような生き方です。そして生き物から切り離されて墓場に住んでいました。これはまるで死人です。彼は生きていながら死んでいました。地上にいながら地獄にいました。
そんな彼がイエスに出会ったのです。イエスは真っ先にその悪霊に出ていくように命じました。イエスだけが彼を見て憐れみました。でも、なぜそれほどたくさんの悪霊が一人の男についていたのでしょうか。それはこの地方全体の悪霊が彼についていたからです。彼はこの社会の身代わりになっていました。英語で言うと”scapegoat”(スケープゴート・身代わり) です。別の時にもイエスは悪霊を追い出していましたが、パリサイ人たちはそれを見てこう言いました。
【ルカ11:15】しかし、彼らのうちのある者たちは、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。
実際に、異教徒のエクソシスト(悪霊払い)はこのようなことをします。つまり、もっと偉い悪霊の力によって悪霊を別の人につかせるのです。つまり悪霊を本当に追い出すことはせずに、別の人にすべて集中させて、社会の平和を保つのです。この人がその身代わり(スケープゴート)でした。彼の苦しみによってこの社会が悪霊から救われていました。
このスケープゴートがどこから来るかというと、レビ記16章の罪のきよめの箇所からです。
贖いの日に、大祭司が2頭のやぎを選んで、くじを引いてそのうちの一頭を罪のきよめのためのいけにえをとしてささげます。もう一頭は荒野に話されます。
【レビ16:21a】アロンは生きている雄やぎの頭に両手を置き、それの上で、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪を告白する。
この雄やぎにその罪をすべて負わせるのです。
【レビ16:21b~22】これらをその雄やぎの頭の上に載せ、係りの者の手でこれを荒野に追いやる。雄やぎは彼らのすべての咎を負って、不毛の地へ行く。その人は雄やぎを荒野に追いやる。
この雄やぎは遠く人から離れた所に罪を負って行かされます。
でも、この贖罪のスケープゴートの雄やぎは、ただ旧約聖書のいけにえ制度だけのものではありません。あるいは古代の悪霊につかれた社会の問題でもありません。じつは人間の社会は普段からこのように機能しているのです。まさかと思うかもしれませんが、よく考えてみると、私たちは常にこのようなことをしています。例えばこの社会の中で、すべての問題をある人のせいにします。その人には実際に欠点があるかもしれませんが、でも、そのほとんどが彼のせいではないのに彼のせいにするのです。
家庭がうまく機能していない場合は、すべてある一人の協力的でない子どもや、気が強い子どものせいにしたりします。場合によっては、気が弱くて受け身的な父親のせいにされたりして、色々なパターンがあります。家庭の中でこれはよく起こることです。何か問題が起きた時に、必ずその人が何かをしたから、あるいはその人が何もしなかったからこうなった、ということにしてしまうのです。それで家族がある意味で一致してその人に罪を負わせることによって、その人以外の家族が機能し続けることができるのです。アルコール中毒がいる家庭はこのパターンが多いらしいです。
会社でも学校でも、何かのチームがあるところでは、何か問題が起こるとすべて不器用でちょっとドジな人のせいにして、みんなが仕事を終えてからその人の悪口を大胆に言ったりします。
もっと大きな規模で考えてみると、20世紀のヨーロッパの問題は、ナチスによってすべてユダヤ人のせいにされました。じつはこの問題が今も続いています。
私たちはこのスケープゴートがいつもいるようにします。自分たちの平和のために、ある意味で治ってほしくない、その人に良くなってほしくないのです。 ドジが直って優秀になってほしくない。そうすれば私たちはいつまでもその人のせいにできます。なぜなら、その人がいないと私たちは自分の欠点や自分の罪と向き合わなければならなくなるからです。
⚫️人々は、起こったことを見ようと出て来た。そしてイエスのところに来て、イエスの足もとに、悪霊の去った男が服を着て、正気に返って座っているのを見た。それで恐ろしくなった。(ルカ8:35)
レギオンの話の中で色々なことが起きたのですが、その中で不思議なことの一つは、悪霊が追い払われた時に人々がそれを恐れていることでした。これまで恐ろしくて危険で強かった人が、正常な状態で服を着てイエスの足元に座っている。その姿を見て、彼らは非常に恐れました。本来なら反対だと思いませんか。凶暴な悪霊につかれている人の方が、彼らには都合が良かったのです。その方が安心できたのです。
今日読んだガラテヤ書からわかるように、服を着たというのは、イエスを着たということです。
【ガラテヤ3:27】キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
彼は服を着てイエスの足元に座っています。イエスを着てイエスの教えを受け入れた者になっているのです。人々にとってはこの方が恐ろしかったのです。それでこのような状況を作ったイエスを自分たちの地方から追い出します。なぜなら自分たちの身代わりがなくなってしまったからです。自分たちの悪霊、自分たちの呪いを受けていた人がいなくなったので、自分たちに戻っきてしまうのではないかと恐れているのです。それでイエスを追い払って遠くに行かせました。今度はイエスがある意味で彼らのスケープゴートになるのです。
⚫️ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、自分たちのところから出て行ってほしいと願った。非常な恐れに取りつかれていたからであった。(ルカ8:37a)
彼らに頼まれると、イエスはそれを受け入れました。まるで自分が悪いことをしたかのように、その罪を持って遠くまで離れて行きました。この社会の平和と救いのためでした。その意味で、この町全体、この地方全体が病気なのでした。彼らはみんな救いを必要としているのに、その救いに必要な義牲は払いたくなかったのです。自分たちの罪を認めたくありませんでした。そして、このいと高き神の御子に従いたくなかったのです。それで彼らが選んだのは罪のない者に自分たちの呪いを負わせることでした。その生き方の方を選びました。この一人の人が民全体の代わりに苦しむことを選びました。
これがイエスが十字架でやったこと、そのものです。実際にイエスを十字架にかけようとしていた時に、彼らはこんなこと言いました。
【ヨハネ11:50】 一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だ…
イエスはエルサレムの外に連れて行かれて、民から離れたゴルゴタ(「どくろ」という意味)で十字架にかけられました。
【ヘブル13:12】それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
実際にイエスは私たちを愛して、私たちの罪を、私たちの傷を、遠くまで持って行ってくれました。
【詩篇103:11~12】天が地上はるかに高いように 御恵みは 主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように 主は 私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。
では最初の問いに戻ってみましょう。
「いったいこの方はどういう方なのだろうか」
一つ出て来たのが、イエスは神の創造界の支配者である、ということです。 イエスは海を叱って嵐を止めることができます。そして悪霊を底しれぬ湖に落とすことができるお方です。そしてイエスは御使いたちの支配者、いと高き神の御子です。強い者サタンを縛り上げることができる、もっと強い者です。
【マルコ3:27】まず強い者(サタン)を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。
イエスはこの強い者よりも強い者でした。サタンを縛って、サタンの家にあるものを略奪しました。奴隷の家に入って、その奴隷たちを連れ出して自由にしました。これがイエスというお方でした。そして同時にイエスはヘリくだって、愛と憐れみに満ちたお方でした。さらにイエスは世の身代わりでもあります。
【イザヤ53:3~4】彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
これが私たちの神。私たちの神の子。だから私たちはイエスを崇めて、イエスを礼拝します。イエスは私たちから悪霊を追い払った時に、私たちを空っぽな状態のままにしません。この自由にされた人はイエスの足元に座ってイエスのことばで満たされました。同じように、イエスはここで私たちをみことばとみからだで私たちを養って、私たちを満たしてくださいます。だから私たちは感謝をもってその救いを受け入れましょう。
《追記》この翌日にベン牧師からあとがきが送られて来ましたので、それを原文のままここに載せます。
昨日の説教で言い忘れていたことがありました。それは、「レギオン」のストーリーと、昨日の聖書日課の詩篇43篇とのつながりについてです。
レギオンが社会のスケープゴートであったことを一緒に見てみました。人々や悪霊たちから責められ、その社会のすべての災いの原因であるかのように扱われ、苦しめられていたのです。その苦しみの中で、昼も夜も、墓場や山の上で、彼は叫び、石で自分を傷つけていました(マルコ5:5)。
同様に、町の外で十字架につけられたイエスこそが、私たちのスケープゴートでした。悪霊と告発者サタンのような人々に囲まれ、嘲られ、偽って責められました。(偽りの告発や公の恥ほど耐え難いものはありません。)しかし神は、イエスをお見捨てになりませんでした。神は、復活によってイエスを救い、イエスは正しく、聖なる方であることをすべての人の前に宣言されたのです。
このことこそが、詩篇43篇の祈りへの神の応えなのです。(すべての詩篇はイエスの祈りです。)
1 神よ 私のためにさばいてください。
私の訴えを取り上げ
不敬虔な民の言い分を退けてください。
欺きと不正の人から 私を助け出してください。
2 あなたは私の力の神であられるからです。
なぜ あなたは私を退けられたのですか。
なぜ 私は敵の虐げに 嘆いて歩き回るのですか。
3 どうか あなたの光とまことを送り
それらが私を導くようにしてください。
あなたの聖なる山 あなたの住まいへと
それらが私を連れて行きますように。
4 こうして 私は神の祭壇に
私の最も喜びとする神のみもとに行き
竪琴に合わせて あなたをほめたたえます。
神よ 私の神よ。
5 わがたましいよ
なぜ おまえはうなだれているのか。
なぜ 私のうちで思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
私の救い 私の神を。
どうか主が、サタンの偽りの告発から皆さんを救い、皆さんを正しく裁き、義と認めてくださいますように。そして、神が自分にしてくださったことを力強く語る恵みを与えてくださいますように。
神が皆さんの一週間を守り祝福してくださいますように。
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