「空の空。すべては空。」伝道者の書1:2、12~14、2:18~23
- 2025年8月3日
- 読了時間: 15分
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
伝道者の書1:2、12~14、2:18~23
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。…
伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。
私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。
私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。…
私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。
私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。
なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。
実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。
今日は、私たちにとって現実的な問題を取り上げます。それは、この人生の意味は何か、という問題です。
私たちが一生懸命働く意味は何でしょうか。自分の人生に飲み食い以上の意味があるのでしょうか。自分が労苦して築き上げたものはだれのものになるのでしょうか。そしてそれはどうなるのでしょうか。
今日私たちが朗読した伝道者の書と詩篇はそのような問を投げかけています。
そしてイエスはルカの福音書でそれに答えます。そして、さらにコロサイ人への手紙でパウロはその真理を強化します。
⚫️空(くう)の空(くう)。伝道者は言う。空(くう)の空(くう)。すべては空(くう)。(伝道者1:2)
聖書がこんなことを言っていいのでしょうか。
ここで使われている「空(くう)」はヘブル語で「ヘベル」ということばですが、蒸気とか霧という意味です。私たちの周りにあるものや、私たちが一生懸命作り上げてきたものはすべて霧や蒸気に過ぎないとソロモンは言うのです。霧や蒸気のように消え去ってしまうなら、それを止めることはできません。まるで風を掴むようなもので不可能です。 三千年前の人はこれを問題と感じていましたし、今でも私たちは同じように感じています。
【伝道者1:14、2:18~19】私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。…私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。
私たちは、人生をかけて一生懸命働いて、何かを成し遂げます。しかし、自分が亡くなった後でそれがどうなるかわからないのです。だれがそれを受け継いでくれるのでしょうか。受け継ぐ人はそのために労苦していないので、感謝がないかもしれないし、愚か者かもしれないし、自分の労苦を理解しないでさらにそれを崩して破壊するかもしれないのです。
私たちが一生懸命働いても、夫や妻とのつながりが薄くなったり、子どもたちとのつながりが薄くなったりすることもあります。
一日の終わりに、私たちは疲れていて、不機嫌になっていて、お互いを楽しむ余裕がなかったりします。
【伝道者2:22~23】実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。
私たちが一生懸命働いても、結局は不安が残るかもしれないし、不眠症になるかもしれません。私たちは心配したくないから働くのに、いくら働いてもそこまで辿り着かないのです。私たちはこの労苦から何を得るのでしょうか。結局風を掴むようなものではないでしょうか。
これがこの世の人生の性質です。すべては霧のように無くなります。だから私たちはそれを手放す必要があるのです。いつまでもその風を追って捕まえようとするのは虚しいことなのです。頑張って失わないように苦労しても、結局そのせいで自分の働きを破壊したりします。また私たちが貪欲になって、もっと欲しい、もっと欲しい、と思うなら、すでに持っているものが虚しく感じてしまうのです。つまり自分の人生の価値を霧のようになくなるものに置いてはならないということなのです。そうでなければ、私たちは愚か者になってしまいます。ちょうどイエスがたとえ話で話したような愚か者になります。
⚫️なぜ私はわざわいの日々に恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が私を取り囲むときに。彼らは自分の財産に拠り頼み豊かな富を誇っている。(詩篇49:5~6)
この詩篇もソロモンが話している問題を繰り返しています。この詩篇は箴言のように書かれています。
じつはこの詩篇はバビロンの捕囚時代に書かれています。つまり南ユダが自分たちの国から追放されて、バビロンで奴隷にされていた時代です。それを覚えて読むと意味が深くなります。バビロンの傲慢、ネブカドネツァルの傲慢、ベルシャツァルが彼の富においている誇りを思い出しながら読むともっとピンときます。
しかし同時に私たちの時代のことも思います。バビロンとバベルは結びつきますが、そこに人間の誇りを表す塔がありました。じつは私たちの町にも高層ビルがたくさんあります。それらは権力や富の象徴であるかのようにそびえ立っています。そこにいる人たちの多くは、自分がまるで死ぬことがないかのように傲慢に生きています。
【詩篇49:9~10】人はいつまでも生きられるだろうか。墓を見ないでいられるだろうか。
彼は見る。知恵のある者たちが死に愚かな者浅はかな者も等しく滅び自分の財産を他人に残すのを。
結局、どんな権力者でも金持ちでも死から逃れることはできません。イスラエルで一番の権力と富を持っていたソロモンでさえ、私たちと同じ問題を抱えていました。私たちはみんないつか死にます。そして自分の働きの実をほかの人に委ねなければなりません。
ではどうすればいいのでしょうか。イエスはそれに答えを与えてくれます。イエスはいつものようにたとえ話で教えてくれます。
⚫️群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」(ルカ12:13)
この人のお願いは「正しい判断で裁いてください。」ではなくて「私に遺産が来るようにして、私の財産を増やしてください。」というものでした。そのためにイエスを利用しようとしています。
私たちも実際に遺産をもらう時が来たら、お互いの心に潜んでる貪欲が見えてきます。
イエスは彼のお願いを拒否します。そして群衆に貪欲について教え始めます。
【ルカ12:15】そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
イエスはよく財産やお金の話をしますし、貪欲や不安に関する話をします。なぜならこれらは私たちの心を神からそらすために悪魔が使う道具だからです。神様からの贈り物である賜物や富みは神様に目を留めるように働くものだったのに、悪魔はそれを使って私たちの目が神から離れるように用いるのです。イエスはこの悪魔の働きと戦うためにたとえで話してくれます。今回はある愚かな金持ちのたとえ話です。
【ルカ12:16~19】「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
これのどこがだめなのでしょう。
だれもがやりそうなこと、やろうとしていることかもしれません。
一つ気づいてほしいのはイエスの言い方です。
イエスは「ある金持ちの畑が豊作だった」と言います。畑が主語になっています。つまりだれが畑を豊作にしたのか、ということです。実際に豊作になるのは農夫が決められることではありません。もし決められるなら毎年豊作になるはずです。つまり豊作は神様が与えるものなのです。それなのに彼のことばの中には神への感謝が出てきません。そしてその豊かな収穫をどうやって人のために使うかという話も出てきません。ただ自分の富をどうやって守るか、その富で自分の欲を満たすためにどうすれば良いか、それしか考えていないのです。
食べて飲んで楽しむことが彼の人生のすべてなのです。「空の空。すべては空。」結局これなのです。
これは永遠のことを考えない人たちの心です。まるで死がないかのように、あるいはさばきがないかのように生きています。
この人は金持ちですが、彼の人生はすべて倉に収まるようなものでした。私たちの周りの人たちの多くはそのように生きています。これがこの世の流れなのです。 私たちも彼らと同じように生きて、死んで、さばきを受けます。
【ルカ12:20~21】しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」
あなたは何を欲していますか。あなたの心の中にある欲は何ですか。あるいは自分の富で何を買おうとしていますか。名誉ですか、人からの好意ですか、贅沢な生活ですか。
イエスはこの後も鳥の話や花の話をします。神様は鳥や花の面倒を見ますが、私たちはそれ以上に価値があるではないか、と言ってくださいます。どのように神様が鳥や花を大事にしているのかを話してから、だから心配するのをやめなさい、と言います。確かに私たちが自然を見た時に、不安がなくなって平安になったりしますが、イエスは私たちに山で散歩すれば気分が良くなりますよ、という程度の話をしているのではないと思います。神様の働きを見て、神様がどのようなお方なのかを悟りなさいと言っているのです。そして神の被造物に対する愛とまことをみて信じて神の平安を受けなさい、と言っているのです。
【ルカ12:29~31】 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。
ここで一つ繰り返し強張したいことは、イエスは決してこの世を捨てて天だけを気にしなさいと言っているのではないということです。この世は滅びるからこの世をゴミと思ってください、とイエスは言っていません。よく、清くなりたいと思う人がそのように考えてそのように生きようとすることがあります。この世を捨てて、この世がまるで価値がないように思って、早く死んで天国に行けば、それですべてが解決されるような生き方です。あるいは早くイエスが来て、私たちがみんな天に上げられればこの世の問題は解決されると思っています。しかしイエスの解決はいつもこの地上で神の御国を作ること、つまり天と地を結び合わせることでした。そこに解決があるのです。だからイエスは、ただ私たちに、心配するのをやめなさい、それは罪だからやめろ、と言っているのではなくて、私たちには神にある平安と平和が与えられているので心配しなくてもよいと言ってくださっています。私たちが天を見て、天に目を向けて心がそこに行くように、私たちの宝が天にあるように、私たちを導いてくださいます。
神様はどうしてこの地上で私たちに富を与えるのでしょうか。それは私たちの肉の思いでそれを食い尽くすためではありません。むしろこの世の富を使って、私たちが天で富を得ることができるためなのです。私たちは神の子で、天に国籍を持っています。だからそのように生きましょう。
⚫️こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。(コロサイ3:1~4)
パウロは私たちにとってたった一つの必要なものに目を留めるよう導きます。私たちにとってたった一つの必要なものとはイエス・キリストです。私たちのいのちであるキリストです。では私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。どのように天に宝を蓄えることができるのでしょうか。
【コロサイ3:5】ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。
私たちはこのような罪を殺さなければなりません。でも私たちは自分の罪を完全に手放したくないのではないでしょうか。少しは持っていて、まるで潜伏している病気のように、自分のからだから無くならないようにして、たまには罪を犯して、罪を楽しんで、そしてまた清い生活に戻りたいのではないでしょうか。しかしパウロはそれを殺すところまでいかなければならないと言うのです。だから私たちは上にあるものに目を留めなければならないのです。キリストがすべてで、キリストがすべてのうちにあり、それがまことであるように生きていかなければなりません。
だから自分の富をどのように使うべきかを知るために、天を見上げましょう。神の右の座に座しているキリストに目を留めましょう。すべてがキリストから流れ出て、キリストに向かっています。キリストがアルファでありオメガであるのです。それを覚えていれば、私たちは自分の富をどのように使うのかを悟ることができます。前回の説教でも言いましたが、自分の作ったお金は自分のものだから自分が好きように使っていいんだ、と思ってはいけません。そのように思うなら、私たちは結局自分の小さな塔の上に立っている小さなネブカドネツァルなのです。
私たちは働いても忘れてはいけないことは、成長を与えてくださるのは神様であるということです。私たちが神に感謝を忘れると、そこからすべての偶像礼拝が始まります。
それがローマ1章に書いてあることです。
私たちは神に感謝するものによって支配されます。つまり、あるのもを受けてもそれ自体に自分を支配する力はありません。だから私たちは毎週の礼拝で献金をするのです。献金はただ必要のためだけではありません。もっと効率よくするなら月に一回振り込めばいいのです。献金を振り込んでいる人もいるのに、私たちはわざわざ献金袋を回して、前にある机の上に置いています。なぜそれを毎週わざわざしつこくやっているかというと、私たちのすべての賜物が神から来ること、それをまた神に与えるものであることを忘れないためなのです。私たちが自分の財産によって支配されないために、自分の財産によって滅ぼされないためです。高層のオフィスビルは現代のバべルの塔のようなものだと言いました。そこで私たちが働いたとしても、そこで礼拝偶礼拝をしている人から給料をもらったとしても、私たちは決して彼らと一緒に礼拝してはなりません。
なぜ教会の建物が昔からあれだけ高いのかと思ったことはありませんか。じつはコンスタンチノープルのハギヤソフィアという教会は現在イスタンブールにありますが、それは800年の間ずっと世界で一番高い建物でした。だいたい紀元500年に作られて、1300年までの800年間は世界一高い建物でした。中に入って上を見上げると、ドームはいまだに55m以上あるのです。1300年にイギリスのリンカン大聖堂がハギヤソフィア教会を超えました。その大聖堂の尖頭は160mです。当時のヨーロッパの多くの町には教会の建物よりも高いものを作ってはいけないというルールがありました。もちろん今では教会よりも高い世俗の建物もいろいろあるのですが、初めての世俗の世界一高い建物は1901年に建てられたフィラデルフィア市庁舎でした。
教会の建物の話に戻ります。
なぜあれだけ苦労して、お金もかかるし危険なことなのに、教会の建物を一番高く建てていたのでしょうか。それは教会を見た時に私たちの目が天に引き上げられるためでした。私たちの目が天まで登っていくためでした。建物の中のドームが大きいのも天を表しています。ぼくは二回ハギヤソフィアに行きましたが、そこにいる人たちはみんなドームを見るために上を向きながら歩いていました。そのような教会に座っていると、自然と上を向きながら時間を過ごすのです。これが教会の高い建物の目的なのですが、教会そのものの目的でもあります。私たちの目的が天に上るように。そして教会の外には高い尖頭があり、真上を見上げないと目に入りません。尖頭のよくあるデザインは、塔の下の部分は四角になっっていて、これは地を表しています。でも途中から八角形に変わります。イエスが八日目に復活したからでイエスにある永遠の復活のいのちを表すのです。つまり尖頭は永遠の天に地上を引っ張って行くイメージです。そして先頭の一番高いところに十字架があります。イエスは山の上で死なれたので、私たちが上を見上げて神を思うためにあるのです。
私たちの教会の天井はそんなに高くなくて平らですが、私たちの礼拝も、私たちがこの世界を超えて天に心が上るような礼拝になっています。私たちがこの世にいながらも、私たちの目の前に神の右に座しているキリストがいるのです。私はこの部屋に座っていてもじつはここは天の聖所なのです。そしてここでイエスのことばを聞くことができます。
私たちの労苦、私たちの人生、私たちのいのちをこの祭壇の上のイエスのからだと血の隣に置いて、私たちは天におられる父に祈ります。私たちが天の父から受ける賜物をどのように受けるべきかを知るためです。つまり永遠の御国に仕えるかを悟るためです。私たちのいのちが霧のように消えゆき、築き上げたものが全て若い世代に受け継がれる時、私たちは天に永遠の宝があることを知ります。そして私たちの心にキリストにある平安と平和が与えられます。
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