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「迷子の羊」ルカ15:1~10

  • 2025年9月14日
  • 読了時間: 13分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


ルカ15:1~10

さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。

すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。

そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。

見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。

あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」


今日、私たちは迷子の羊のたとえ話を一緒に読みました。とても短いけれど、力強いストーリーです。イエス・キリストをとても美しく描いていて、慰められ、励まされるされるようなイメージを見せてくれています。

イエスが羊を探しに行って、見つけたら自分の肩に乗せて家に連れて帰って来る。昔からクリスチャンはそのイメージが大好きです。たとえばローマのカタコンベに行きますと、壁にこの絵が描かれています。 2~3世紀頃からすでにある絵なのです。


では、今日のたとえ話は何について話しているのでしょうか。出だしを見てみますと、イエスは食べて飲んでいます。これはルカの福音書によく出てくる場面です。イエスが公に取税人や罪人と宴会を開いています。ルカの福音書を最初から読んめば、このような宴会は問題を起こすということもわかっています。これまでも問題を起こしていたからです。


⚫️取税人

取税人はただ近くのオフィスで働いている公務員ではありませんでした。彼らは外国の勢力のために金をゆすり取る裏切り者で、それをすることで金持ちになった人たちです。そして彼らは異邦人と頻繁に接していました。それでユダヤ人たちはこの取税人たちことを常に汚れている者として見ていたのです。しかしモーセの律法には、異邦人と接するだけで汚れるという教えはありません。これは神様の決めたことではなくて、この時代(第二神殿期)のユダヤ教の教えでした。ユダヤ人は異邦人の家に入るだけで、あるいは一緒に食べるだけで汚れると思われていました。

ペテロがコルネリウスの家に招かれた時にもこのように言いました。

【使徒の働き10:28】ご存知のとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったあり外国人を訪問したりすることは許されていません。

しかし取税人はこれを頻繁にやっていたのです。


⚫️罪人(つみびと)

罪人は貧しくて、社会から破門されている人たちです。彼らも清めの律法を守らない人たちでした。男性も女性も売春していて同性とも寝ます。

このような人たちは決して神殿に入ることは許されないし、祭司やパリサイ人や律法学者のような人たちは、自分たちの方が清くて偉いと思っていたので、絶対に罪人たちと接しないし、一緒に食べませんでした。自分の評判が悪くなるからです。

イエスはこのような人たちと一緒に食事をしたのでイエスの評判は悪くなります。

【ルカ15:2】すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。

祭司たちはイエスが罪人たちと食事をすることについて喜ばずに文句を言います。こんな汚れた人と接するなんて、イエスも汚れている、と思われてしまいました。だから祭司たちは当然イエスから離れます。

イエスは祭司たちを見て、彼らに罪人の悔い改めを喜ぶ心がないことに気づきました。罪人が悔い改めることを喜ばないどころか、近づいてきた罪人を見下して遠ざけたので、このたとえを話したのです。このたとえ話は三つのセットになっています。最初の二つは今日読んだ迷子の羊のたとえ話と、失われた銀貨のたとえ話です。そして、もう一つは来週読む放蕩息子のたとえ話です。この三つとも、戻って来た罪人を神様が喜ぶ話です。それがこの話のポイントです。


⚫️迷子の羊

最初の例え話は質問で始まります。

【ルカ15:4】あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 この質問は賢く聞こえません。羊がすでに九十九匹もいるのに、なぜたった一匹を探すのでしょうか。でもイエスの聞き方は「当然探しますよね。」という聞き方でした。当然そうすべきだとイエスは主張します。

でもだれがそんなことをするでしょうか。羊をただの財産として思っているなら、探すわけがないのです。99対1なのでその軽さをポイントにしているのではなく、価値が低いように見えるというのがポイントです。だれがその一匹のために見つけるまで捜し歩くでしょうか。親ならそうします。愛しているならそうします。想像してみてください。一人っ子が迷子になったら親はいつまで探すでしょうか。いつまででも、どんな遠くまででも頑張って捜します。それだけの愛を神様は全ての自分の子に持っているのです。同じように神様は私たち一人一人をまるで一人っ子であるかのように愛してくださいます。

【ルカ15:5~6】見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。

イエスは「あなたがこちらに来なさい」と呼ぶのではなくて、羊を肩に担いで家に連れて戻ります。イエスはこの羊が弱いことをよくわかっているのです。

このたとえ話についてアウグスティヌスは、イエスは良い羊飼いで、肩に乗せているのは全人類だと言います。イエスが全人類を肩に担いだのは十字架をご自分の肩に担いだときです。その時にイエスは全人類を連れ戻してくださいました。

一方で羊は何もしません。このストーリーの中では羊は迷子になるだけです。つまり救いは全て神の働き、神の恵みなのです。

このストーリーの中心的なポイントは、羊飼いの喜ぶ姿です。

【ルカ15:7】あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

この喜びがあるからイエスは宴会に加わっていたのです。しかしこの喜びをパリサイ人たちは理解できなかったので、宴会には加わりませんでした。


⚫️失われた銀貨

【ルカ15:8】また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。

この次の例えば話はある点をもっと強く主張します。

たった一枚の銀貨なら、普通は無理に捜さずに出てくるまで待つでしょう。十枚のうちの一枚なのだから。金貨でもないし、お金の袋でもないし、価値がないことを強調しています。しかも彼女は明かりをつけて積極的に捜します。当時の油は高かったのでそれを燃やすなんて考えられません。

【ルカ15:9~10】見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

ここで神様の積極性、主体性がまた強調されています。羊は迷子になったら泣くことはできますが、銀貨は転がっているだけで全く受け身的です。自分を救うことはできません。すべてが神様の恵みであることを非常に強調しているストーリーです。そして、さらに銀貨を一枚見つけたら、パーティーをするでしょうか。近所の人たちや友だちを呼び集めますか。

(女の人)「うちに来てください」

(近所の人)「どうしたのですか。子どもが生まれたのですか」

(女の人)「いえ、なくした一万円札が見つかったのです」

これは大袈裟です。恥ずかしくてこんなことはできません。イエスは普通の人がやらないことをたとえ話にしているのですが、それだけ一人一人の罪人が神様にとって清い者、尊い者だということです。

神様は恥じることなく喜び、愛し、迎え入れます。

だから神様(ここではイエス・キリスト)は良い羊飼いなのです。イエスは、良いリーダーはこのような姿です、と教えているのではなく、イエスご自身が何者なのかを彼らに示しています。

イスラエルには羊飼いがいました。この時代だと祭司たち、祭司長たち、パリサイ人たちのことです。しかしこの羊飼いたちは羊を守っていませんでした。守っていないどころか散らしていました。そこでイエスが現れて、ご自分が約束されたメシアであり、約束された王であり、羊飼いであると彼らに示しています。

【エゼキエル34:15】わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせるーー神である主のことばーー。わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。

この箇所はイスラエルの羊飼いがどれだけ羊を大事にせず、守っていないかを話す文脈の中のことばです。

この中の「わたし」がイエス様です。そしてここで預言されていることが、今、祭司たちの前で成就されているのです。

この迷子の羊は個人ではなくて、アウグスティヌスが言ったようにまずはイスラエル全体の話です。その中には異邦人も含まれます。

「その主が来た。王が現れた。わたしはこの迷子の羊を集め始める。だから集まりなさい。」とイエスは言っているのです。


じつは今、この部屋で同じことが起きています。

私たちの羊飼いは、私たちを主の前で集めています。私たちは詩篇51篇のダビデのことばを使って罪を告白したばかりです。ダビデも罪人でした。迷子になった羊でした。しかし神様は彼を追い求めて、預言者ナタンを送ってダビデを連れ戻しました。私たちもダビデのように汚れた罪人です。毎週その道からそれて、迷子の羊のように罪を犯します。しかし、毎週神様はまた私たちを集めて、罪を赦して、ご自分の家に招いて下さいます。イエスのことばを聞かせて、ともに宴会をします。


最後に二つのポイントを話したいと思います。

 一つ目は、神様は、私たちが戻ったことを喜ぶのであれば、私たちが神に戻ることを決して恐れてはならないということです。自分がどんな状態にあったとしても、どこまで道からそれたとしても、神に戻ることを恐れる必要はありません。私たちが戻ったら、神様は天使たちの前で喜びます。

もう一つは、他の人たちが神に戻った時に、私たちも神とともに喜ばなければならないということです。

その人がだれであっても。その人が何をしたとしても。

⚫️神に戻ることを恐れてはならない。

そうは言っても恐れてしまいます。私たちは人に罪を犯したとき、しかも何度も何度も犯してしまった時に、合わせる顔がないと感じます。恥ずかしくなります。その人と道ですれ違いたくないし、顔を合わせたくもありません。なぜならその人は自分を見下して拒否すると思うからです。でも私たちが心から悔い改めているなら、神様は決してそんなことはなさいません。神様は私たちの牧者、私たちの御父だからです。だからどんな罪を犯したとしても、どこまで迷子になったとしても、神様は必ず連れ戻して受け入れて下さいます。


そして神の家に入る時に恐れてはいけないのと同じように、お互いの顔を見るのを恐れてはいけません。

・教会は病院である

【ルカ5:30~32】すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」

そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

ここでもイエスとパリサイ人が食事をしています。

私たちが集まっているのはここが病院だからです。同じように神様の患者がたくさん集まっています。病気ならここに入ってくるのは当然だし、周りにも同じような病人がいます。

・ここは神の家である。

ここは神の家なので、神の子どもはいつでも歓迎されます。一つのたとえはパウロです。パウロも迷子になった羊でした。彼は教会を迫害するところまで道からそれてしまいました。今日の箇所でイエスと衝突しているパリサイ人たちとそんなに変わらない状態です。しかしそのようなパウロにイエスはご自分を示して下さり、パウロを担いで連れ戻して下さいました。

【第一テモテ1:13~16】私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。

私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。

先例、つまり模範です。パウロが救われるなら私も救われるでしょう、と思って下さいと言っているのです。「私は罪人のかしらです。こんな私でさえ恵みを受けましたよ。」とパウロは言っているのです。

だから絶望せずにいましょう。自分が戻れないとしても、イエス・キリストがあなたを見つけ出して、あなたを担いで家に連れ帰って下さいます。だから何度罪を犯したとしても、すぐに祈って罪を悔い改めて、すぐに神様にごめんなさいと謝って下さい。神に戻れないと決めつけているのは自分なのです。神様は手を差し伸べています。そして喜んで受け入れます。

自分の恥や霊的な怠惰のせいで神の宴会に行かないということがないようにして下さい。


⚫️他の人が戻った時に、私たちも喜ばなければならない。

他の罪人が神に戻るなら、私たちも喜ぶべきです。パリサイ人たちは聖書をよく知っていて、当然詩篇51篇も暗記していたはずでした。しかし彼らはその詩篇が自分に関して言っていることばだとは思っていないし、自分たちが罪人のかしらだとは思っていなかったので喜びませんでした。

私たちが神の家に入った時に、喜ぶのが難しい相手とはだれでしょう。刑務所から出たばかりの人が来たらどうでしょうか。あるいは有名人を暗殺したばかりの人だったらどうでしょう。売春婦や同性愛者だったらどうでしょう。ホームレスだったらどうでしょう。

あなたはどう反応しますか。

もっと頻繁に起きるのは、自分に対して罪を犯した人が隣に座っている時かもしれません。その人が教会に来た時にその人の隣に座ることを喜べますか。神様は、彼らが教会に入ってそこに座ることを喜びます。それなら私たちも喜ぶべきです。

じつは、パウロが改心してエルサレムに行った時には喜ばれませんでした。みんなパウロがパリサイ人たちのスパイだと思ったので、バルナバが説得しなければなりませんでした。そのように神の愛を表さなければならなかったのです。だれかが教会に入ってきたら、みんなに暖かく迎え入れられるべきです。そして喜びに満ちた宴会に招かれるべきです。だから毎週料理してくれる人に感謝していますし、その食事に残る人たち、交わりを持っている人たちに感謝しています。

迷子になった羊をどうぞ覚えて、祈る時には名前を出して彼らのために祈って下さい。神様の恵みのみが彼らを引き戻すことができます。私たちもみんな、自分でその道を見つけることはできませんでした。

そして自分が迷子の羊であることも忘れないようにしましょう。私たちも迷子だった罪人であるのに、イエスは私たちを祝宴に加わるように招いて下さいました。

【第一テモテ1:17】どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。



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