「富の正しい使い方」ルカ16:19~31
- 2025年9月28日
- 読了時間: 17分
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
ルカ16:19~31
ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
今日の礼拝の朗読は、富の使い方について教えられている箇所でした。そして福音書からの朗読は金持ちとラザロのたとえ話でした。このたとえ話はじつは朗読した箇所よりももっと長くその場面が続いています。その中でイエスはしばらくパリサイ人たちとやり取りをしています。この前後関係も大切なので、ルカ16:13まで戻ってみましょう。
【ルカ16:13~15】どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。
これはイエスのパリサイ人に対することばになりますが、イエスはパリサ人のお金を愛する心と戦っています。 彼らは人々の前で尊ばれることを望んでいます。それを求めて満足しているのですが、イエスはもっと大きい現実を見せようとしています。つまり、神様の視点から見てみなさいと言っています。その神様の視点を伝えるために、金持ちとラザロのたとえ話をしたのです。
⚫️ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。(16:19)
イエスはこの金持ちがパリサイ人だとは言いませんでしたが、じつはこの紫とか柔らかい亜麻布というのは、祭司が着るように神様が命じている服なので、祭司を連想することができます。そして、この暮らしはアモスに出てくるような金持ちの暮らし方でした。
【アモス6:4~6】象牙の寝台に横たわり長椅子でからだを伸ばし、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている者、琴の音にのせて即興の歌を作り、ダビデに倣って自分たちの楽器を考え出す者。彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗り、ヨセフの破滅のことで嘆き悲しむことがない。
⚫️その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。(ルカ16:20~21)
家の門の前にラザロがいるということは、毎日金持ちが家を出る時も入る時も、ラザロの前を通らなければならないということです。皆さんは、物乞いの前を通ったことがありますか。三鷹駅ではあまり見かけませんが、インターネットなどには、貧しい人や病気の子どもの写真がたくさんあります。そのページを閉じるたびに心苦しいです。目をそらすのは苦しいのですが、この金持ちは毎日ラザロを無視していました。しかしラザロのような貧しい人は、ある意味では彼らにとって無視しやすい存在です。なぜなら、ラザロはパリサ人の視点から見ると神に呪われた者だからです。神様は富を与えるお方なので、当時は神様に愛されて祝福されている者たちが金持ちになると思われていました。だから貧しいというだけですでに神様から遠く離れていることになります。さらにラザロは体中できものだらけで、これはヨブを連想します。ヨブも神に呪われた者として軽蔑されていました。そしてさらにそのできものを今度は犬がなめています。犬はユダヤ人にとって汚れた動物です。それで祭司やパリパリサ人たちは、決してラザロのような人物に近づくことはしないのです。貧しくて、汚れていて、見た目も苦しそうな人こそ、パリサイ人たちは避けます。一緒に食事をすることもしません。自分の食卓に招いて、どうぞ私と一緒に座って食事をしてくださいとは絶対に言わない相手なのです。しかし、これがイエスがしていることでした。だから彼らはイエスのことが嫌いなのです。
やがてこの金持ちもラザロも亡くなります。そしてなぜか貧しいラザロの方がアブラハムのもとに行き、金持ちはハデスに行ってよみで苦しみます。これはイエスの話を聞いているパリサイ人たちにとっては驚く展開です。でも、ここで一つ注意したいことは、ラザロがアブラハムのもとに行けたのは、貧しかったからではありません。つまり、貧しいことが倫理的に良いこと、というわけではないのです。私たちはマルクス主義を信じているわけではありません。ラザロがアブラハムのもとに行った時点でやっと彼が良い人間だったとわかりました。
同様に、この金持ちがよみにくだったのも金持ちだったからではありません。彼が自分のお金を贅沢に遊ぶためにしか使わないで、ラザロを憐れまなかったからハデスで苦しんでいるのです。
テモテでパウロはこのように言っています。
【第一テモテ6:17~19】今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。
この金持ちは、立派な行いに富んでいませんでした。来るべき世において立派な土台となるものを蓄えて、まことのいのちを得るようなことをしませんでした。だから彼はその報いを受けたのです。ハデスで苦しんでいる金持ちは、ラザロから水を一滴でももらいたいと思っていますが、彼は生きている間にラザロにパンくずさえもあげませんでした。だから今度は水をもらえません。
⚫️金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:27~31)
本当にそうでしょうか。死んだ人がよみがえって戻ってきて、生きている人たちに「悔い改めなさい」と言えば、人々は聞き入れるのではないでしょうか。でもイエスは、モーセと預言者の言うことを聞かないなら、死人が戻ってきてもその人の言うことを聞き入れないと言います。
イエスのことばは合っていましたか。正しかったでしょうか。
このたとえ話が不思議とされているのは、人物の名前が出てくることです。ここではラザロという名前がでてきます。そしてじつはこの後、イエスが十字架にかけられる少し前に、実際にラザロという名前の人が死人の中からよみがえりました。それを見ていた人は大勢いたので、祭司たちやパリサ人たちは確実にそのことを聞きました。
【ヨハネ11:47~48】祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」
イエスがたとえ話でラザロという名前を使っているのは、よみがえったラザロのことを聞いて、パリサイ人たちがたとえ話のことを必ず思い出すようにするためです。しかし、悔い改めるかわりに、彼らは自分たちの権力を守る方に動きました。
イエスご自身も十字架にかけられた後で復活します。その証拠は真っ先に祭司たちのところに行きました。弟子たちがイエスの復活を知る前に、すでに祭司たちはそのことを知っていたのですが、死んだ者がよみがえっても、彼らは悔い改めることなく続けて神ご自身と戦って、この世の富を手放すことはしませんでした。
では、このたとえ話は、私たちに何を教えようとしているのでしょうか。まず一つ目は、富の間違った使い方についてです。そしてもう一つは、イエスの警告を聞かないことについてです。
・富の間違った使い方
パリサイ人たちはお金を愛しています。しかしお金を愛することが強欲の罪なのです。お金を愛して強欲の罪を犯す人たちは、人を利用して自分のお金を増やそうとします。しかし、私たちはお金を愛するのではなくて、人を愛するべきです。私たちは人を犠牲にして、人を裏切って、自分の益を求めます。しかし神を愛して人を愛する者は、お金があったら人を祝福するために使います。金銭を愛する人と真反対なのです。たとえ自分のために何もできない相手だとしても、ラザロのような相手だとしても、相手を利用してお金を手に入れるのではなくて、お金を利用してその相手を祝福します。イエスがここで言おうとしているのは、金銭を愛する生活をしてはいけないということです。なぜならあなたはいつか死ぬからです。そしてその時に、わたしが与えた賜物で、あなたは何をしましたか、と神様はあなたに尋ねます。だから、私たちが神に与えられた賜物をすべてまことのいのちを得るために使いましょう。そのためには、具体的にどのようにすれば良いのでしょうか。どのように考えるべきなのでしょうか。
【第一テモテ6:6~8】しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。
私たちはあるもので満足すべきです。これは決して受け身的な満足ではなく肯定的で、満ち足りる心を伴う敬虔だとパウロは言います。
【第一テモテ6:11~12】神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と、敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。
パウロは「私には欲はありません。」と言えば良いとは言いませんし、「あなたはこれらのことを避けなさい」では終わらないのです。私たちに衣食はありますか。あるならまずそれで十分です。私たちはそれを信じなければなりません。
【第一テモテ6:9~10】金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの慾望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。
パウロは、「金持ちは」ではなく、「金持ちになりたがる人たちは」と言っています。自分を滅ぼすのはお金ではなくて強欲です。お金を持つことではなくてお金を愛することです。私たちは、自分よりもお金を持っている人について、あの人は私よりも強欲の罪を犯していると思いたがります。そうでなければなぜそこまでお金を作ろうとするのかと思うのです。
さらに、たとえ貧しくてもお金に執着することはできます。お金さえあれば、と思ってしまうかもしれません。極端な話、貧しい人が億万長者より強欲の罪を犯すことも全然可能です。だから、パウロは私たちみんなに話しています。あの人、ではなく私たちです。もっとお金があれば、もっと財産があれば、と常に夢を見ている私たち、自分の衣食だけで満足していない私たちにパウロは話しかけています。というのは、悪魔は私たちのお金を愛する心を使って信仰から遠ざけようとします。私たちのたましいを滅ぼそうとします。私たちがラザロを軽蔑して、無視して、その前を通り過ぎるようにさせます。
実際に私たちはいろいろな言い訳をします。私たちは資本主義者だから人にお金をあげないで仕事をあげる、と言うかもしれません。それは間違いではありませんが、それをラザロを無視するための言い訳にしてはなりません。あるいは、「これは私のお金だ」「私が自分で働いて手に入れたものだ」という思いを持つかもしれません。これはネブカドネツァルを思い出します。しかし違います。これは神様のお金です。だから神様が命じるように使うのです。それで私たちは礼拝の中で献金をします。その貢献の時間を設けているのです。すべてを神様から受けたのですべてを神様に返す、ということ覚えるために毎週やります。実際に、パウロは金持ちにも声をかけます。「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、…(第一テモテ6:17)」つまりお金があると高慢になる誘惑があるのです。ではどれほどのお金があれば高慢になり得るのでしょうか。その誘惑を受けるのでしょうか。年収一千万円ですか。いやいや年収一千万円はそれほど特別多くはないでしょうと思うなら、年収一億円くらいですか。いやいや自分より金持ちの人はいくらでもいるから、私はそんなに高慢にはなりません、と思わないでください。自分よりも金持ちがいるからではなくて、高慢は自分よりも貧しい人がいるかどうかで決まるのです。つまり、自分が隣の人よりもお金があれば、もう高慢になることができるのです。この人は自給千円、私は自給千百五十円。それだけでも高慢の理由になります。ちなみに神様の視点から見ると、私たちはみんなそのレベルで競い合っています。私たちはみんなどんぐりの背比べをしているのです。
結局、私たちの高慢な心は、自分が人よりも優れていると思いたいのです。それを思える根拠を常に探しているのです。お金は数値化されているから比べ易く、評価しやすいものです。どこかで他の人より自分にお金が入った時に、このお金が入ったのは私が優れている人間である証明として使いたくなります。私が彼よりお金があるのは私の方が努力しているから、一生懸命働いているから。でもすべての人がお金のために一生懸命働いているとは限りません。例えば毎日家で一生懸命働いている主婦たちはにはお金は入りません。それでも彼女たちは一生懸命働いているのです。みんな一生懸命働いているのに私の方にお金が入るのは、私がきっと賢く働いて能力があるから、と思うかもしれません。それでやっぱり私は優れていると思いたがるかもしれません。しかし人にはいろいろな能力があって、すべてが金に結び付くわけではありません。優れた画家がいてもお金がもうかるわけではないでしょう。
じつは数年前にある社会実験が行われました。高慢と金のつながりを試すための実験で、モノポリーというゲームを使います。二人が競い合いますが、一人は最初から倍のお金を持っています。そして一周するたびに、その人に相手の倍のお金が入ってくるとします。つまり、その人は絶対に負けないで、絶対に勝つようにしました。当然毎回その人が勝ちます。でもそれで勝っても威張れないでしょう、その人は絶対に威張らないでしょう、と思いませんか。しかし実際にその人を観察していると、お金を思っているプレイヤーは、体を大きくして、場所をとって座るようになります。自分の戦略について語り始めたり、自分の前にお菓子が置かれると、人よりパクパク食べます。 ただ偽物のお金をもらっているだけなのに、どこかで自分の方が優れていると思いたがるのです。自分の富は自分が受けるべきもので、それに伴う優遇も自分が受けるべきものなのだと思ってしまいます。必ずこうなるとは言いませんが、そのような誘惑が確かにあるのです。だから金持ちにはパウロが言うように高慢にならないように警告が特に必要なのです。では、お金持ちになることに何の得があるのでしょうか。ただのつまずきなのでしょうか。確かに悪魔はつまずきになるように働きかけますが、神様は祝福として与えます。どういう祝福かというと、紫の服を着て、毎日な贅沢な暮らしができるという祝福ではなくて、自分の富を良い行いにおいて富むように使う機会という祝福です。ヨハネス・クリュソストムという教父がこのように言いました。「富める者とは、多くを持つ者ではなく、多くを施す者である。」だから富んでいるということは、多く施す機会が与えられているということなのです。高慢にならないようにと言ったあとで、パウロはこのように続けます。「頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。(6:17~19)」
富により頼んでいるときに、寛大になることはできません。富には頼れません。富を持っている人はそのことをみんなわかっています。今日はお金があっても、明日はそれがなくなるかもしれないということです。だから自分が安心するために常にたくさんもっていなければなりません。それを手放すことはできません。手放したらもう頼れないからです。だから常に安心できるまで十分に持つまで待って、十分になってから人にあげるつもりです。でもその日はいつ来ますか。
でも神に望みを置くと、すべては神様から来ることを知ります。そして神様は毎日必要なものをあなたに与えてくださいます。そのことを知って平安に生きることができます。平安をもって施すことができます。そして実際に神様の方がこの世の富よりも良い投資です。やがて天においてキリストとともに永遠に生きることを手にします。それを神様が私たちに約束しているからです。
同時に、お金がなければ善い行いに富むことはできないとは決して思わないでください。この世でイエスは最も貧しい人でした。お金は一切持たずに暮らしていました。でもイエス以上に善において富んでいた方はおられませんでした。言いかえると、十字架を負って生きるためには一円も必要としないということです。
・イエスの警告
イエスのたとえ話の終わりに警告があります。この金持ちには五人の兄弟がいました。まだこの世に生きています。この兄弟はだれでしょうか。もちろんイエスの目の前にいるパリサイ人たちのことです。でも同時にこの世でまだ生きている私たちみなさんのことでもあります。私たちもモーセと預言者のことばを聞き入れなければなりません。さらに、私たちにはモーセに加えてイエスのことばもあるのです。その中にはこのたとえ話も含まれます。そしてマリヤとマルタの兄弟でよみがえったラザロの証もあります。よみがえったイエスご自身の証もあります。だから、私たちはこの世の富を愛する言い訳は何一つもありません。
私たちは生きた後に死んで、その後に神のさばきを受けることを知っています。だから、私たちが持っている賜物すべて、お金も力も能力も、神様が与えて下さったすべてのものを神と人を愛するために用いましょう。そうすれば、神様は私たちに報いてくださいます。
私たちの神はどのようなお方でしょうか。
【詩篇146:7~9】虐げられている者のためにさばきを行い、飢えている者にパンを与える方。主は捕らわれ人を解放される。主は目の見えない者たちの目を開け、主はかがんでいる者たちを起こされる。主は正しい者たちを愛し、主は寄留者を守り、みなしごとやもめを支えられる。しかし悪しき者の道は主が曲げられる。
私たちの神はこのようなお方です。そうであるなら、私たちもこの世でその王のしもべとして、この世で同じようことを行うべきです。私たちの主イエス・キリストに、誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。
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