「ナアマンの癒しと謙遜の信仰」第二列王記5:1~15b
- 2025年10月12日
- 読了時間: 14分
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
第二列王記5:1~15b
アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」そこで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王に宛てて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは、銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着を持って出かけた。
彼はイスラエルの王宛ての次のような手紙を持って行った。「この手紙があなたに届きましたら、家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の衣を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。
エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。
ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。
そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。…」
このナアマンの物語は、私の最初の説教箇所でした。二十年ぐらいでしたが、アイダホ州の七百人くらいの小さな町の三十数人しかいない小さな教会で説教しました。その説教は五十五分でした。今日はそこまで長くならないようにします。
ナアマンのストーリーは、人を低くするストーリーです。でもそれは彼を救うためでした。そのために彼をヘリくだらせているストーリーです。
ナアマンは人間の目から見て偉大な人でした。その地域で一番偉大な国は、軍隊が強くて、周りの国々を侵略して支配しているシリアでした。そしてその軍を率いて導いていたのがナアマン将軍で、彼は何度も勝利を治めている将軍でした。このシリアで彼以上に王が価値を置いている人はいませんでした。彼は文字通り王の右腕でした。王が神殿に入る時は、ナアマンによりかかって祈っているほどです。
ナアマンが求めれば王はいくらでも出します。銀十タラントというのは、340kgです。とても持ち上げることはできません。金六千シェケルは68kgです。そして、晴れ着十着と聞いても、たいした事はないように聞こえるかもしれませんが、当時の人たちは二着持つのが普通だった時代なので、その王はこれだけの大金を出しても、彼が助けられることを求めていました。
この偉大なる将軍は、いきなりツァラアトに冒されます。ツァラアトは皮膚の感染症のようなものだと思われていますが、具体的にどういうものだったのかははっきりわかっていません。しかしすごく目立つ皮膚の病気でした。そしてツァラアトに侵されたら、周りからは呪われた人と思われて、汚れている人として扱われます。ナアマン自身も自分が呪われたと思ったに違いありません。
でも、このストーリーを見ると、じつはこれは神様がナアマンを憐れむために与えた試練だったということが明らかになっていきます。神様がナアマンに憐れみを与えるときに、まず彼をへりくだらせます。思いっきり低く引き下げます。
まず彼はこの目立つ病気にかかります。だれが見ても不快に思うような病気で、社会からのけ者にされます。
そしてその病気には治療法がありません。しかし妻から一つのアドバイスがありました。その妻の助言は奴隷の女の子から来たものでした。しかも外国人の奴隷です。社会の中で一番身分が低い女の子からの助言でした。ナアマンはそれを聞くしかなかったのです。
そして、その女の子は自分が略奪した国から連れてきたので、自分よりも弱い国の王のところに行って助けを求めることになります。
ところが、せっかく略奪した相手の王のところに行ったのに、ナアマンは預言者エリシャのところに行かされてしまいます。彼はナアマンにとって異教の神の預言者です。しかもその門の前で待ってもエリシャは出てこないし、直接何もしてくれないし、顔も見せてくれません。ただ使者を送って伝言を伝えるだけでした。
彼はもうこれ以上侮辱に耐えられなくなって、帰ろうとします。
しかししもべがナアマンを諭します。ナアマンはしもべの意見も聞かなければなりません。
ナアマンは外国の土地の、自分たちが敗北させた、自分の目から見て汚い川で、自分の体を洗わなければならなくなりました。
そこまで低くされた時に、ナアマンはどうなったでしょうか。
彼は幼子の皮膚が与えられました。つまり彼は生まれ変わったのです。ヨルダン川の水に入った時に、新しく生まれ変わったのです。彼は偉大なる将軍から、幼子に変わっていきました。これが神様の恵みでした。これによってナアマンは自分の神はだれなのかを知ることができました。自分の救い主を知ることができました。そしてだれに礼拝と感謝をささげるべきなのかを知ることができました。これこそ彼の救い、永遠のいのちなのです。彼のからだだけが癒されたのではなくて、彼のたましいまでも救われました。
このツァラアトは、聖書の中では汚れや罪を表す病気です。その理由の一つは、これにかかった人は神殿で神に近づくことができなくなるからです。そして清い民の間で暮らすことも許されません。人間の社会からも切り離されます。これが私たちの罪、そして私たちの傲慢の結果なのです。私たちが傲慢になる時、人より偉大になりたいと思う時は、神に背いて、神の栄光ではなくて、自分の栄光を求めます。自分の力、自分の富、自分の知識で自分を救おうとします。自分で自分を救いたいと思うのです。それで神に祈らないで、神から助けを求めません。
そして私たちの傲慢は他の人たちとの関係性も破壊します。私たちは人からほめられたいし、尊敬されたい。自分の方が正しくて、自分の方が優れている状態を維持したいと思います。自分の状態がどんなに悪くなっても、絶対に助けを求めません。アドバイスなどはほしくないし、人にも頼りたくないのです。それでどうなるかというと、自分は人から遠ざかるし、人も自分から遠ざかっていきます。そして最終的に、私たちはこのツァラアトに冒されている人のような状態になります。
神様が私たちを救うときには、私たちを低くして、傲慢から救ってくださいます。
【第一ペテロ5:5~6】みな互いに謙遜を身につけなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。
今日読んだルカの箇所も並行しています。
イエスがエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた時に、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えました。彼らは遠く離れたところに立って大声でイエスに祈ります。
【ルカ17:13】「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」
「あわれみをお与えください」私たちも数分前にこのように祈りました。
「憐れみをお与えください。」は「キリエ・エレイソン」という有名な祈りです。福音書の中で七回も出てきます。旧約聖書から来ている祈りですが、イエスに憐れんでくださいと祈った人たちは全員、イエスに聞き入れられて救われました。憐れんでくださいとイエスに頼んだ人で、憐れまれなかった人はいません。
ルカ17章にナアマンのような人がいます。
【ルカ17:14~16】イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。そのうちの一人は、自分が癒されたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
ここに神に深く感謝している異邦人の姿があります。彼は正しい神を知って、その神を礼拝しています。イエスが祭司のところにいきなさいと言うと、この人は大祭司がだれなのかを悟りました。そして神の神殿はこの地上のどこにあるのかを悟りました。それでイエスご自身のところに行って礼拝したのです。
【ルカ17:19】それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
実際に彼は14節のところですでに病気が癒されています。他の九人も同時に癒されていますが、戻って来ませんでした。イエスが信仰の話をするのは、この人にからだ以上の救いがあるからです。からだはすでに癒されましたが、彼にはそれ以上の救いが与えられました。より偉大なる救いは信仰のみによって受けることができるのです。
「信仰」と言うとき、「私の信仰によって私が救われたのですか。私が信じたから、私が何かをしたから、救われたのですか。」というようには決して思わないでください。信仰というのは能動的な行動ではありません。ルターの表現によると、信仰は心の手だそうです。神の恵みを受けるために開いている手だそうです。つまり受け身的です。信仰はいつも受け身なのです。
例えば、洗礼の水は信仰によってキリストにあって私たちに新しい命を与えてくれます。私たちが自分に洗礼を授けることはできません。私たちが信じて洗礼を受けた時に、それが私たちにとって新しいいのちとなるのです。
同じように、聖餐式の時にも、信仰をもっている私たちがパンとぶどう酒を受ける時に、私たちはキリストにあっていのちがあらたになります。信仰がなくてこれを受けるのは逆に呪いとなります。
ナアマンはヨルダン川に入ることによって、自分の力で自分を癒したわけでは決してありません。
ルカの福音書のサマリア人も、自分の足で祭司のところに向かい始めたから自分を癒したとは決して言えません。自分たちに、自分を癒す力、助ける力は何もなかったのです。しかし、彼らは理解できない時に、神様のことばを聞き入れて、神様に従いました。こんなことでどうして癒されるのか、彼らにはつながらないのです。でも理解していない時に、へりくだった心を持っていたから、子どものような信仰を持っていたから、彼らにまた幼子の皮膚が与えられました。
だから、彼らの病気は彼らを呪うためではなくて、彼らを救う唯一のものに目を留めるために与えられたものでした。
私たちは事実、力のないものです。私たちの中で、一番偉大な人でも自分を救う力はありません。だから私たちは自分には力がないことを認めて、自分を低くして、神を信じて、神に祈って、神に聞き従う必要があります。そうすれば、神様は私たちを救ってくださいます。
このキリエ・エレイソン(主よ、憐れんでください)は、謙遜な、へりくだった祈りであり、信仰深い祈りなのです。だからぜひこれを覚えて、必要な時に思い出して祈ってください。自分が苦しい時に、あるいは試練や誘惑にあっているときに、また疑いや不信仰にぶつかっている時にこの祈りを祈れば、イエス様は必ずそれを聞き入れてくださいます。そして必ず救ってくださいます。神様は憐れんで、そして私たちを自分の罪から救ってくださいます。私たちを自分の無知から、その苦しみから、あるいは他の人の無関心、他の人の残酷な行為から救ってくださいます。私たちを、孤立、虚しさ、痛み、病気、死からも救ってくださいます。
でも、私たちは祈るときに、必ずしも祈ったものがそのまま与えられるわけではありません。私たちが健康のために祈るときに、健康にならないことがあります。日々の糧のために祈ってもお腹は満たされないかもしれません。しかし私たちが信仰をもってイエスに憐れみを求めるのなら、私たちに求めている以上のものが与えられます。神様はその苦しみ、その病を祝福に変えてくださいます。その死を復活に変えてくださいます。私たちがパンを求めた時に、神様は私たちにいのちのパンを与えてくださいます。
皆さんもこれを体験していると思いますが、私たちは自分が一番苦しくて、一番必要を感じている時に、一生懸命祈ります。人間というのは、神様を信じていなくても祈り出します。
そして神様が私たちを救った直後、私たちは一番感謝に溢れて、神様に近づいている感じがします。そこまでたどり着いた時に、これまでの苦しみはすべて、耐え忍ぶ価値があったということも感じます。神につながる道であるなら、どんな苦しみを通っても、それを耐え忍ぶ価値があるということです。
だから病気も苦しみも決して呪いとして与えられているのではなくて、神様が私たちを低くしている、へりくだらせている試練なのです。神様が私たちを試しています。
ナアマンも長く旅をしました。どこまで低くされるか、すべての段階で謙遜でなければ、彼は諦めます。
エリシャも、自分でナアマンを迎えに来ませんでした。自分で扉を開きませんでした。エリシャもナアマンを試しているのです。
イエスもこの十人の病人を試しています。彼らを送り出して、そのうちだれが戻ってくるでしょうか。だれがナアマンのように感謝にあふれるでしょうか。
だから、私たちが病気のとき、苦しいとき、それを神様の呼びかけだと思いましょう。神様が私たちの目をご自分に向けて、神様を求めて、神様を信じて、神様からの救いを求めなさい、と声をかけているのです。それは私たちの中に神のわざが現れるためです。これがヨハネ9章で盲目の人について話すことばです。
【ヨハネ9:2~3】弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。…」
だから、私たちが苦しんでいるなら、神の御前で自分を低くしましょう。
ヤコブの手紙にこのように書いてあります。
【ヤコブ4:10】主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。
私たちが苦しんでいるなら、私たちは振り向いてイエスの方に戻りましょう。
【ホセア6:1~3】さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また癒し、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。だから、私たちはへりくだって信仰をもってイエスのもとに帰りましょう。
そして、イエスが私たちに送るこの小さな者たちの声に聞き従いましょう。
神様は自分で扉を開けません。私たちよくそう祈ります。「神様、ご自身を私に示してください。神様の顔を見て、神様から直接その癒やしを求めたいのです。その声を聞きたいのです。」
しかし、神様は私たちに仕える者を送ります。場合によっては、非常に身分が低い奴隷の女の子のようなものを送ります。私たちが彼らの声を聞き入れるためには、へりくだっていないといけないのです。
また、同時に私たちも、人をイエスに向かわせる御使いでなければなりません。私たちもその奴隷の女の子のように、あるいはエリシャのように、人がイエスに向くように指をささなければいけないのです。私たちもこののけ者に手を伸ばす者でなければなりません。
その一つの方法は、公のところで神様をほめたたえることです。神様に祈り、人の前で自分がどのように救われたのか、それを感謝をもって伝えることです。だから私たちの教会に来るときに、私たちは自分の救い主イエス・キリスト、私たちの大祭司、私たちの神殿のもとに行きます。そしてそこで、感謝のいけにえをささげます。ユカリスト、聖餐式がまさにそのものです。
最後に、今日読んだ詩篇111編を読みます。
ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげよう。直ぐな人の交わり、主の会衆(つまり教会)において。詩篇111:1
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