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「預言者の教えとみことば」申命記18:9~22

  • 2025年10月19日
  • 読了時間: 16分

説教者:ラルフ・スミス牧師


申命記18:9~22

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなたは、その異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねてはならない。あなたのうちに、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行う者はみな、主が忌み嫌われるからである。これらの忌み嫌うべきことのゆえに、あなたの神、主はあなたの前から彼らを追い払われるのである。

あなたは、あなたの神、主のもとで全き者でなければならない。

確かに、あなたが追い払おうとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきた。しかし、あなたの神、主はあなたがそうすることを許さない。

あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。これは、あなたがホレブでのあの集まりの日に、あなたの神、主に求めて、「私の神、主の御声は二度と聞きたくありません。この大きな火はもう見たくありません。私は死にたくありません」と言ったことによるものである。それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。わたしの名によって彼が告げる、わたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしはその人に責任を問う。

ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。」あなたが心の中で、「私たちは主が語られたのではないことばを、どのようにして知ることができるだろうか」と言うような場合、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。


異教の神々への礼拝と信仰、占いや死者に伺いを立てることに対して、モーセは神様の真実のことばを教えている。

申命記18:9~14でモーセは偽りの神々のことをことを話して、「あなたがたはこのようなものを受け入れてはいけない」と教える。


⚫️あなたのうちに、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があってはならない。(申命記18:10~11)

創世記の 3章から人類の歴史の終わりまでずっと真理の戦いが続く。その中で、異教の宗教や異教の偽りがどんなに悪いのかピンとこないかもしれない。赤ちゃんを神々にいけにえとしてささげることは極端な例であるが、

イエス様がサタンについて、ヨハネ福音書でこのように言う。

【ヨハネ8:44】悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

私たちには、暴力や殺人が偶像礼拝や占いとつながるとは思わないかもしれない。日本も偶像礼拝でいっぱいであるが、それが殺人や暴力にはすぐにつながらないと思うかもしれない。しかしそれはつながっている。

どのようにつながっているのかというと、人間が神の特別な作品であるということを否定しているからである。神様が人間をご自分の似姿として創造して大切にしているのに、それを否定しているのである。19世紀の悪魔的な三人のリーダー、ダーウィン、マルクス、フロイトが、人間は神の似姿ではないことを色々な形において教えている。その教えがどのように暴力につながるかというと、赤ちゃんをいけにえにささげるような形ではないが、WHO(世界保健機関)によると、生まれる前に殺される赤ちゃんは一年間で 7,300万人と推定されている。これは暴力である。人間は神の似姿ではないとか、人間は単なる動物で進化してきたものにすぎないなどと教えて、それを信じた人々が人のいのちを大切にせずに奪ってしまう。これはとんでもない数字であるが、これが一年間に殺される赤ちゃんたちなのである。偽りと暴力、偽りと殺人の関係は、創世記の 3章から始まって今に至るまでずっと続いている。



⚫️あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。これは、あなたがホレブでのあの集まりの日に、あなたの神、主に求めて、「私の神、主の御声は二度と聞きたくありません。この大きな火はもう見たくありません。私は死にたくありません」と言ったことによるものである。(申命記18:15~16)

エジプトを脱出したイスラエルはシナイ山に着き、神はそこでイスラエルに十戒を与えてくださった。その時に大きな地震、大きな声、大きな火があって、イスラエル人は怖くなったのでこのようにモーセに頼んだ。

【出エジプト20:19】彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」

モーセはそれを受け入た。なぜなら、神様はモーセを預言者として立ててくださったからである。それでモーセは神と民の間に仲介者として立った。

預言者ということばが最初に使われたのは創世記である。

【創世記20:7】今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。しかし、返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことを承知していなさい。」

これはゲラルの王アビメレクがアブラハムの妻サラを取って自分のものにしようとした時に、神がアビメレクの夢の中に現れて言われたことばである。アブラハムがサラを妹だと言ったので、アビメレクは彼女を妻として召し入れていたのだ。アビメレクが正しかったことを神はご存じだった。だからアブラハムに頼んで祈ってもらえば、アブラハムは預言者なのでその祈りを神は聞く。それでアブラハムは神とアビメレクの間に立った。

聖書の中で預言者ということばが一番最初に使われる時に、預言者が祈るという場面であることは興味深い。イスラエルがシナイ山でその大きな火を見て、大きな声を聞いた時に、怖くなって、モーセが間に立つことを頼んだ。それは神様の恵みである。


イスラエルがまだシナイ山にいる時に、金の子牛を作って偶像礼拝をしてしまった。その時に神様はモーセに、この民を滅ぼしてあなたを大いなる国民とする、と言われた。するとモーセは神に嘆願して次のように言った。

【出エジプト32:11~13】主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの燃える怒りを収め、ご自分の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地をすべてあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。

すると神はわざわいを思い直してくださった(出エジプト32:14)。


同じように民数記の14章のところで、約束の地を偵察に行った十二人のうちカレブとヨシュアだけは、ぜひ上って行って占領しようと言ったのだが、あとの十人が、その地の住人は自分たちより強いから攻め上れない、と言って民の心をくじいたので、民はエジプトに戻ろうとした。それでカレブとヨシュアは次のように民に言った。

【民数記14:7~9】私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。

これを聞いた民は、カレブとヨシュアを石で打ち殺そうと言い出した。

その時も神様はモーセに、民をさばいて、モーセを彼らより強く大いなる国民にする、と言われた。しかしモーセは正しい仲介者で預言者であるので、モーセが祈るように神様は刺激を与えている。

【民数記14:13~19】エジプトは、あなたが御力によって、自分たちのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、この地の住民に告げるでしょう。事実、住民たちは聞いています。あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主が目の当たりにご自身を現されること、またあなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱の内にあって、彼らの前を歩んでおられることを。

もし、あなたがこの民を一人残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は、このように言うに違いありません。『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と。

どうか今、あなたが語られたように、わが主の大きな力を現してください。あなたは言われました。『主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰し、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」

モーセが神様に祈り求めたので、神様は民を赦してくださった。しかし神の栄光とエジプトや荒野で神様が行ったしるしを見ているにもかかわらず、神のことばに聞き従わなかった二十歳以上の世代は約束の地に入れない、という裁きに変わった。

ただしカレブとヨシュアは神に従い通したので、約束の地に入ることができる。

預言者は神様が聞いてくださる祈りをささげる者である。

だからモーセはただみことばを語るだけではなくて、イスラエルのためにとりなしをしている。祭司にもその働きはあるのだが、預言者にもあるということを忘れてしまいがちだと思う。


⚫️それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。(申命記18:18)

皆さんの訳で「一人の預言者」という訳になっているけれども、その訳は行き過ぎだと思う。原語でははっきりと「一人」とは言っていない。最終的には主イエス・キリストのことを預言しているが、モーセからキリストまでは繰り返し必要に応じて預言者を起こし、与えるということである。

その預言者はモーセのように神様に忠実に従う預言者たちで、モーセの時代から聖書が書かれる時まで、神様は預言者たちを与えてくださった。

【申命記18:18】わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。

預言者たちは特にこのように定められている。預言者は、自分ことばではなくて、神様から与えられたことばを語るのである。それで、神のことばか占い師の言葉かという戦い、神と悪魔の真理の戦いは、創世記3章からずっと歴史の中で続いている。

それで、神様は自分のことばを預言者の口に授けて、預言者はそれを語る。私たちが聖書を読む時も、昔のイスラエル人たちが預言者のことばを聞く時も、単なる人間のことばとしてではなくて、預言者たちを通して神様ご自身の真理のことばを私たちに与えてくださったのである。

細かく考えれば不思議なところがありすぎるのでこの時間内ですべて話すことは難しいが、例えば申命記やアモス書やダビデの詩篇などは文学的に違う。神様のことばは機械的に与えられるのではない。例外的な書物はレビ記で、レビ記は8章から10章以外は最初から最後まで神様が宣言して、モーセはそれを聞き取って書く。それは普通ではない。

申命記とか民数記などは、モーセ自身を通して神様は語るけれど、神様がことばをモーセに与えてくださる時に、モーセの性格とかモーセの心などを潰してモーセを機械にするというやり方ではない。だから、モーセとダビデでは一人一人書き方や表現の仕方などが違うのだ。神様がその人を通して自分が与えたいことばを私たちに与えてくださっている。つまり、みことばに書かれていることばは、その人を通して与えられるが、与えられることばは最終的には神のことばである。

神様は預言者にことばを与えてくださって、預言者がいろいろ考えてからあとで預言書を書く、ということではない。神様は預言者の性格、歴史、すべてを計画して支配して書かせる。だから預言者が語ることばは神様ご自身が私たちに語ることばとなっている。神様が私たちにことばを与えて語ってくださるなら、私たちは真理を確実に知ることができる。


⚫️わたしの名によって彼が告げる、わたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしはその人に責任を問う。ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。(申命記18:19~20)

この中に警告が二つある。一つ目は、預言者を通して語られる神様のみことばに聞き従わない者は、神様がその人に責任を問う、つまりさばくということである。もう一つは偽預言者についてである。神が遣わしていない預言者が、神の名によってあるいは他の神々の名によって告げるなら、その人はさばかれて死刑になる。真理の話はそこまで大切で重大である。

神様はイスラエルを偽預言者の偽りから守るために、イスラエルにこのように語るのだが、それではイスラエルはどうやって本物と偽物を区別することができるのだろうか。


⚫️あなたが心の中で、「私たちは主が語られたのではないことばを、どのようにして知ることができるだろうか」と言うような場合、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。(申命記18:21~22)

主が語られていないことばをどうして知ることができるか。

この問いに神様は答えるが、この答えは非常に難しいところである。日本語では「そのことが起こらず、実現しないなら」となっていて、同じことを繰り返し言っているかのように見える部分があるが、モーセは繰り返し同じことを言っているのではない。その意味は、「今まで与えられた啓示に一貫していなければ、これは偽りの預言である。」ということである。

そしてその預言が「実現しない」ことも偽りの預言である。

この二つのやり方で試すことができることは大切である。

ダニエルは六百年後の歴史について預言した。ダニエル自身もその預言が成就するところまで生きていないし、他の人たちも生きていない。では、ダニエルの預言が成り立つかどうかをどうやって判断するのか。それはまず今までの教えと一貫しているかを試すのである。そしてダニエルの預言の中にすぐに実現されるものもあったので、それでダニエルの預言が本物であることがわかる。

モーセがこれを書いたのは、紀元前1500年である。そして預言者たちの働きはずっとAD60年頃まで続く。この1600年くらいの間に私たちが持っている聖書が少しずつ与えられてきた。そして聖書全体が完成したので、もう付け加えることはできないし、今の時代にはいわゆる預言者はいないし、使徒もいない。みことばは完成されて、私たちに与えられた。

このみことばは本当に神様のことばかどうか、どうやって試すことができるのだろうか。

これは私たちにとって、答えやすい質問である。

【使徒の働き3:22】モーセはこう言いました。『あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。聞き従わない者はだれでも、自分の民から断ち切られる。

ペテロは使徒の働き3章で説教をしている時に、この申命記の箇所に言及している。私たちは主イエス・キリストがこれを成就したことがわかっているが、ペテロは復活の証をしている。イエス様の復活は私たちの信仰の確かな土台である。人類の歴史の中で、イエス様以外に復活した人はだれ一人もいない。さらにイエス様は復活してから四十日間繰り返し弟子たちに現れて、話をして一緒に食べて、ご自分が復活したことを弟子たちに十分に、たくさんの確かな証拠によって証明した。

イエス様は復活した。それがみことばが真理であることを一番簡単に明白に表すことである。


イエス様が十字架にかかる前に、オリーブ山で最後の説教をする。そこでイエス様は「この世代が過ぎ去る前に、エルサレムはさばかれる」と預言した。AD70年にその預言通りにイスラエルはさばかれた。神殿は完全に破壊された。イエス様の最後の説教は預言の説教であったが、その説教はイエス様が本物の預言者であることをよく表す。

イエス様の復活、イエス様の教え、イエス様の人生は私たちの信仰の土台である。イエス様は旧約聖書に書いてあるすべてのことを成就した。

イエス様はエマオへの道を歩いている二人に、旧約聖書からご自分について書いてあるすべての箇所を教えてくださった。だからイエス様は旧約聖書の中心、旧約聖書の成就である。

あなたの信仰は確かですか、どうやってそれがわかるのですか、と聞かれたら、私たちはイエス様のことを話す。

【エペソ2:20】(あなたがたは)使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要石です。

私たちはこの土台に立って、確かな真理を神様から与えられている。だから私たちはこの真理に立って、この真理を求めて、神のみこころをを知ることができるのである。

【第二テモテ3:16聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

聖書は神の霊感によって与えられたと書いてあるが、このみことばは本当はもっと強い言い方にしてもいいと思う。ポイントは、神様は確かなみことばを私たちに与えてくださったが、それは神に仕えるすべての働きにおいて十分に整えられるためである。みことばが与えられるということは、真理を知るためだけではなくて、その真理に従って歩み、神様に十分に仕える者となるためなのである。パウロはそれをテモテに話して、テモテを励ましている。みことばは私たちに歩むべき道を教えてくださり、私たちに神様の御国のために働く力と教えを与えてくださる。


黙示録の19:13では、イエス様が血に染まった衣を着て、白い馬に乗って、「神のことば」と呼ばれている。聖書全体は主イエス・キリストご自身を指している。私たちはみことばのどこ読んでも、何を求めても、イエス様のところに導かれる。

私たちが聖書を読む時に、単なる知識、単なる事実、単なる教えということではなくて、みことばであるイエス様の話を教えられていることを覚える。イエス様ご自身が語ってくださり、聖書によってイエス様ご自身を求めるように励まされる。みことばを求めるとはイエス様を求めることである。そしてみことばに従って歩むのは御国のために実を結ぶ働きができるためである。


申命記でモーセが預言者たちの制度を通して根本的な認識論を教えている。みことばは唯一の基準ということではない。基準は色々ある。車を作るための基準も色々あるし、コンピューターを作るための基準も色々あったりする。基準はたくさんあるが、究極的な基準は一つしかない。それはみことばである。誤りのない、絶対的な真理である。そして神様の真理は生きていて、私たちを変える真理である。

だから、私たちが心からみことばを求めて、イエス様を求めて、みことばの教えを得て、御国のために実を結ぶ働きができるように、モーセが私たちに励ましのことばを与えてくださった。



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