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「待降節において、近づいてくださる神の恵み」ローマ14:1~5

  • 2025年11月30日
  • 読了時間: 12分

説教者:ラルフ・スミス牧師


ローマ14:1~5

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。


今日から待降節が始まり、四週間後がクリスマスとなる。


⚫️旧約聖書のカレンダー

今日はローマ人への手紙14章を読んだが、パウロはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの問題について書いている。

ユダヤ人には、食べ物とカレンダーについて弱いところがある。弱いところとは、彼らが旧約聖書のカレンダーを守り続けなければならないと思っていることだ。

特に安息日の教えについて守らなければならないと思っている。

エルサレムの近くに住んでいるユダヤ人は、一年間に三回の祭りに行くことができるが、ローマに住んでいるユダヤ人にはそれは難しい。

食べ物とは旧約聖書に書いてある食べ物の律法のことである

律法には野菜しか食べてはいけないとは書いてないが、ユダヤ人が肉を買うときに、だいたいは異邦人の肉屋でしか買えない。そしてその肉は偶像にささげた肉なので、弱い人は心配して野菜しか食べないということになっていたようだ。

ユダヤ人クリスチャンの方がカレンダーや肉について心配したりする。

異邦人クリスチャンは基本的に気にしないので、教会が異邦人の習慣とユダヤ人の習慣に分かれてしまっていた。弱い人=100%ユダヤ人とは限らないし、強い人=100%異邦人とは限らないが、パウロはお互いをさばかずに受け入れるようにと教えている。


今日から待降節が始まるので、私はカレンダーや食べ物についてのパウロの教えを思い出した。それでこのことについて話そうと思った。


現代に生きる私たちクリスチャンには、はっきりした神様からのカレンダーは与えられていない。

しかしレビ記23章にある通り、イスラエルには一年間のカレンダーがはっきり与えられている。まず安息日の教えが最初に出て、過越の祭り、ペンテコステの祭り、仮庵の祭りの教えが続く。

紀元前586年にネブカドネツァルがエルサレムの神殿を破壊してエルサレムを倒した。そしてたくさんのユダヤ人がバビロンに連れて行かれて奴隷にされてしまった。

その後、紀元前539年にキュロス王がユダヤ人をエルサレムに戻れるようにしてくれたので、たくさんのユダヤ人が戻ることができた。しかし全員が戻ったわけではない。エルサレムの神殿に近いところに住んでいる人たちは年三回の祭りに参加することができたが、ペルシャ帝国や北イスラエルに散らされて残っている人たちもたくさんいたので、彼らは祭りには行けないが、安息日を守るようにして、そして食べ物に気をつけるようにして生活していた。

しかしそれはすべてイエス様において成就されたので、私たちクリスチャンは守る必要はない。つまり現代に生きるわたしたちには、旧約のカレンダーも食べ物の教えなどもないのである。

私がカリフォルニアに住んでいた時に知り合ったあるユダヤ人クリスチャンは、安息日と日曜日の礼拝の両方を守っていた。そして旧約聖書の食べ物の律法を守る人だった。しかし彼は他の人もそれを守るべきだという立場ではなく、彼は自分の良心のためにそれを守り、他の人も自分の良心に従えば良いと思っていた。パウロはこのローマの箇所でそのようなことを考えている。


⚫️現代のクリスチャンのカレンダー

私たちには神から与えられたカレンダーはないが、教会の伝統によるカレンダーはある。待降節もクリスマスもそのカレンダーから取っている。イエス様の誕生日は12月25日ではないだろうと推測する人は多いが、聖書に書いてないのでいつなのかはっきりしない。イエス様の十字架と復活はイスラエルの過越しの祭りから計算することはできるが、太陰暦なので毎年変わる。しかし聖書の中でその日を守るべきであるという教えはない。

【ローマ14:5】ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

パウロはユダヤ人に向けて話していると思うが、クリスチャンにとってもポイントは同じである。教会に、この日を守らなければならない、というはっきりしたルールはない。日曜日の礼拝もそうである。日曜日の朝10時半から礼拝するのは適切だがイエス様の命令ではない。イエス様は日曜日に復活したので、日曜日を復活の日として習慣にしてお祝いすることは良いことだが、イスラム教の国で伝道している人たちの中には、金曜日を礼拝の日にする教会もある。そこには何も問題はない。

クリスマスは、御父が御子をこの世に遣わしてくださったことを記念する日である。

イースターは十字架と復活を記念する日である。

ペンテコステは御霊が与えられたことを記念する日である。

それはすべて良いことであるが、そのことでお互いをさばいてはいけない。


待降節はキリスト教の伝統では一年の始まりで、今日から四週間の季節である。待降節の意味は、クリスマスを待つという意味ではない。神様の方が私たちのところに近づいてきてくださるお方であることを覚えて感謝するという意味である。クリスマスはイエス様の受肉を深く広く表す。聖書の神様は私たちを求めて、私たちのところに来てくださる神様である。


神様が最初に人のところに来てくださったのはエデンの園だった。神様はアダムを創造していのちの息を吹き込んでくださった。アダムが寝ている間にエデンの園を造ってくださり、アダムをエデンの園に置いて、仕事を与えて、任命して、善と悪の知識の木から取って食べてはならないというルールを与えてくださった。しかし、いのちの木を含め、そのほかの木からはすべて食べて良かった。

神様はアダムに妻を与えてくださった。

これはすべて、神様の方から積極的にアダムとエバを祝福するために近づいてきてくださったということである。その中でアダムとエバに祝福を豊かに注いで、任命してくださった。

アダムとエバが罪を犯した時も、園の中で神様の方から話しかけてくださり、蛇をさばいて、アダムとエバをさばいた。しかしそのさばきの中に救いの約束も含まれていた。その救いの約束をアダムは悟って理解した。

神様はアダムにエバを妻として与えてくださり、二人に子どもが与えられることを約束した。

【創世記3:15】わたしは敵意を、おまえ(蛇)と女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。

救いの約束がこのさばきの中に含まれている。アダムは神様の約束を悟って女にエバという名前をつけた。彼女は生きるものすべての母親だからである。神様は近づいて来てさばくが、そのさばきの中に神様の恵みも含まれているのである。


創世記の中で受肉を約束するかのような箇所がある。

創世記18章でヤハウェがアブラハムに現れた。男性三人がアブラハムのところに来ると、アブラハムはすぐにその中の一人がだと分かる。あとの二人は御使いである。アブラハムは話しかけて、の御使いは一緒に食事をする。それはまるで人間の集まりのようだった。見た感じは完全に人間同士で交わりを持っているようだった。

新約聖書が与えられた後でこの箇所を見ると、これはイエス様の受肉を前から表すかのようなイメージである。神様は人をご自分の似姿として創造されたので人間になることができる。

旧約の時代に、神様は繰り返し人に近づいてくださり、救いを与え、さばきを与えてくださったが、神様の方が私たちを求めてくださり、喜んで祝福してくださるお方であることを、この待降節で覚えたいと思う。

もちろん、神様が近づいてきてその恵みを一番深く表すのはイエス様の受肉である。イエス様は本当の人間として生まれ、本当の人間として生きて、死んで、よみがえって天に戻って今も永遠に100%人間である。

ローマ帝国のイエス様の時代の男性の平均身長は、だいたい170cmだったと何かで読んだ。私たちが天国に行ったら、受肉した本当の人間としてイエス様に会う。

イエス様が復活して弟子たちの前に現れた時に、弟子たちにはそれがイエス様だと分かったり分からなかったりしたが、実際にイエス様にさわって、一緒に食べて、イエス様が繰り返しご自分を弟子たちに表してくださったので、弟子たちはみんなイエス様が復活したことがわかった。


イエス様は昇天した時に栄光を受けた。

ヨハネが黙示録の1章のところで栄光を受けたイエス様に出会った時に、その栄光の輝きはあまりにも素晴らしかったのでヨハネは倒れてしまった。

【黙示録1:17】この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。


同じ神様が積極的に私たちに近づいて御霊を与えてくださって、心の中で働いて、神様に近づくように導いてくれる。御霊は私たちの中に住んでみことばを教えてくださる。神様は私たちに近づいて愛してくださるお方である。そのことをペンテコステの時に教会に示してくださった。

このように喜んで恵みを与えてくださる神様であることを記念して、教会のカレンダーができている。待降節からペンテコステまでは、御父、御子、御霊中心のカレンダーである。

私たちは今週から、主イエス・キリストご自身を中心にする箇所を読み、祝う。

ペンテコステのあと次の待降節までは特別なお祝いはない。ただ一週間づつ数えるだけである。


私たちの礼拝では心を神にささげるところがあるが、本当はそれは毎週の携挙である。私たちは天に上って神様の御前で礼拝している。

一年のカレンダーを主イエス・キリストご自身を中心にすることは非常にふさわしいことで、祝福である。


同時にパウロは、どの日も大事だと考える人もいる、と言う。

それはすべての日をキリストのために生きているからだ。特別な日だけキリストのために生きていて、他の日はキリストのために生きることはしないという意味ではない。カレンダーを大切にするにしても、すべてをキリストを中心にする。カレンダーを大切にしないにしても、すべてをキリストを中心にする。

だから、日を守る人はキリストのために守るし、日を守らない人はキリストのために守らないのである。

ローマ書のポイントは私たちの教会にも私たちの人生にも適用できると思う。


⚫️イエス様の受肉と聖餐

イエス様が本当の人間であるということについて、ルーテル教会の変わった考え方は間違いだと言わなければならない。キリストのからだはどこにでも同時にあり得るというUbiquity(ユビクイティ)という神学である。実際にキリストのからだは天にあるだけではなく、全世界にあると彼らは考える(カトリックの教えとは少し違う)。受肉したイエス様が今も人間であるならその神学はあり得ない。なぜこのようになったのかというと、聖餐においてキリストのからだを受けるのなら、キリストのからだがあちこちになければ実際に食べることはできないからだ。

しかし主イエス・キリストは天に座っておられるので、パンや杯の中には入らない。御霊の働きによってパンはキリストのからだとして私たちに与えられて、御霊の働きによってぶどう酒はキリストの血となる。実際の物質としては何も変わらないが、御霊の働きによってキリストのからだと血を与えらえると理解している。それは改革派の根本的な考え方である。

ツヴィングリは、パンとぶどう酒は単なるしるしに過ぎないから、本当の意味でキリストのからだと血を受けることはしていないと考える。多くのバプテスト教会は今もそのように考えている。


私たちにとっては、受肉したイエス様が天に上っての父の右に座っておられるので、そのイエス様のからだを御霊の働きによって実際に受けている。イエス様は人間なので、私たちはイエス様と永遠に人間として交わりを持つことができる。

【ヨハネ6:53】イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。

イエス様のからだは永遠のいのちの食事であるとイエス様は言う。

御霊の働きによって、このパンと杯はいのちを与える神の力を持つものとなる。


待降節の時になぜそれが大切なのかというと、毎週の聖餐は私たちに近づいてくださり、喜んで交わりを持って、受け入れてくださることを表しているからである。

だから、私たちの教会の教会員ではなくても一緒に聖餐をいただくことができる。聖餐は私たちの教会のものではなく、キリストのものであるからだ。聖餐はキリストがご自分のからだである教会に喜んで与えてくださるものなのである。

バプテスマを受けるということは、神との契約関係の中にあるということである。契約の誓いであるバプテスマを受けていなければ、もちろん聖餐をいただくことはできないが、御父、御子、御霊の名によってバプテスマを受けているなら、聖餐をいただく資格がある。

それで、だれでもバプテスマを受けた人なら私たちの教会で聖餐をいただくことができる。神様は喜んで私たちに近づいてくださるお方である。

待降節は特にそれを記念する季節で、私たちはずっとイエス様の受肉のことを考えたり、私たちを求めてくださることを考えたり、来てくださるお方であることを考えたり、恵みなる神様であることを考えたりして、毎週の聖餐において記念して覚えて一緒にいただく。

今日もイエス様の受肉と恵みと愛を感謝して、一緒に聖餐をいただきましょう。



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