「結婚における夫と妻の愛」家庭に関する主題説教シリーズ05
- 7月5日
- 読了時間: 14分
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
今日の説教は、結婚に関するシリーズの続きです。先週は「家庭において妻はどのようにからだとして歩み、教会を示すのか」という話でした。その前の週は、「家庭において夫は妻のかしらとしてどのように歩み、キリストを示すのか」という話をしました。
これはおそらく世界共通のことなのですが、牧師が夫に、夫がかしらであることを教えると、ある問題が出てきます。というのは、未熟な夫たちが自分の妻を支配しようとするのです。その間違った支配というのは、妻たちにすべてを自分の言いなりにさせようと押し付けることです。そして、その間違った権威の使い方を周りの人たちが見た時に、これを聖書のせいにしたり、パウロのせいにしたり、あるいはキリスト教の神のせいにしたりします。つまり身近な男性に「あなたは妻のかしらであり、彼女を導く責任がある」と言うと、子どもに魔法の杖を渡したような状態になってしまうのです。夫は、これを持てば何でも思い通りになり、要求すればやってくれると思い込んでしまいます。例えば「今晩は味噌汁じゃなくてビールだ」と言ったり、あるいは機能性よりも自分の好みを優先して「もう200万円高いかっこいい車を買うことを夫として決定する」と言ったり、「子どものオムツが汚れているから、お前が変えるべきだ。なぜなら私はあなたにとってキリストだから」と言い出したり。このようにキリストの権威、キリストの名を利用する者がいたら、彼は恥を知るべきです。なぜならこれは一種の冒涜の罪だからです。キリストの名に恥をかかせます。もちろん未熟な夫には彼らなりの理屈があります。「ぼくは一日中仕事をして疲れて帰ってきたのだから、自分の仕事は終わっている。だから、妻であるお前も自分の仕事をやりなさい。」と言ったり、あるいは「ミニバンよりもレクサスを買うのは、クライアントの信頼を得るためだ」といった理由があるかもしれません。しかし結局夫たちは、妻を説得できなくなった時にその「魔法の杖」を持ち出すのです。「あなたがキリストに従うように、私に従いなさい。だから味噌汁じゃなくてビールだ」と。
じつは、このような夫は自分の妻に対して「キリスト」になっていません。むしろ小さな独裁者となって、自分の妻を奴隷にしようとしているのです。聖書は実際に、このような人たちについて話しています。
【箴言30:21~22】地は三つのことによって震える。いや、四つのことに耐えられない。奴隷が王となり、愚か者がパンに満ち足り、嫌われた女が夫を得、女奴隷が女主人の代わりになることだ。
この三つとも同じようなテーマなのですが、特に最初の「奴隷が王になること」は、地が耐えられないことです。これは実際に奴隷でなくても、奴隷のような思いがあればいいのです。奴隷のような思いがある人は権威のことを理解していません。つまり奴隷の視点を通してしか権威を捉えていないのです。だから権威とは命令を与えること、命令に従うことで、それ以上だとは思っていません。そのような人が王になると、自分の国民を奴隷にしようとします。なぜなら王は国民に仕えるべきだということを理解していないからです。
同じように、奴隷の思いを持っている男性が結婚する時も、一人の奴隷を手に入れることができたと思い込み、妻は命令を出して従わせる相手だと勘違いしてしまいます。
でもこれは夫婦の間の従うことの意味を間違って捉えています。前にも言ったように、夫に従うこと、夫についていくということは、夫のミッションを助けることであり、そのミッションが成功するようにともに働くことです。彼のミッションを、自分のミッションにすることなのです。
よく箴言にlady wisdomとして登場する知恵は女性です。これは偶然ではなく、妻の役割も、良いアドバイスや助言を夫に与えることです。だから妻が夫に常に、はいその通りです、と言っているだけでは、何も良い助言になりません。自分と違う視点から考えることができ、怪しい方向に行き始めた時に、ちょっと待って、と言ってくれる人が必要なのです,。
ダビデは良い王様でしたが、ナタンという預言者が「あなたは罪を犯している(第二サムエル12章)」と言ってきた時に、それを聞き入れました。悪い王は預言者を殺します。預言者は神の使いであり、彼のことばは神のことばなので、良い王はその助言を聞き入れます。それと同じように、妻が夫に良い預言を与えるなら、ある意味で妻は夫の第一の預言者なのです。神はご自分の権威を分け与えます。よく見ると聖書にたくさん出てくるので驚くのですが、神は神なのに独断をなさいません。神ご自身で何でも決められるのに、そうせずに、わざわざ助言を求められるのです。一番有名な例は、神様がソドムとゴモラをさばく前にアブラハムと相談される場面です。
じつは、天国には天使たちによる神の会議というものがあります。旧約の時代は、神様は常に天使たちとコミュニケーションを取りながら、彼らを使い、彼らを送りながら彼らとともにこの世を支配していました。
新約の時代になると、天に昇ったキリストとキリストに従う人間も、その神の会議に加わります。そして私たちも神の前で祈りをささげることによって、神に助言を与えるのです。神様は常に、ご自分の花嫁の言葉を聞き続けてくださいます。こんなに罪深く、何もわかっていない花嫁の言葉であっても、神様は聞き入れてくださるのです。
ですから夫は、イエスのようになりなさいと言われます。夫は自分がイエスではないことは常に忘れてはなりませんが、イエスでさえもご自分の妻をそのように導かれるのです。
イエスが現れた時、イエスはご自分の花嫁を自由にされました。
【ガラテヤ4:26】しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。
このエルサレムとは教会のことです。
【ルカ4:18~19】「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」
イエスは安息の主です。イエスの現れは偉大なるヨベルの年をもたらし、すべての奴隷が自由にされます。
【ヨハネ8:36】ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。
夫がイエスの権威を掲げるなら、そして「自分は妻のかしらだ」と言うのなら、その権威をイエスのように使うべきです。イエスの名を使うなら、イエスの行いをする必要があります。それで夫はその権威を、妻をきよめるために、自由を与えるために、目的を与えるために使うべきです。そして彼女の体、人生、たましい、感情のすべてを導き、ケアしてください。それは彼女のすべてが夫の責任だからです。
では、夫が魔法の杖を振り回すことができないのなら、その魔法の杖が実際に存在しないのなら、夫はどのように妻を導くべきなのでしょうか。
どうすれば妻が喜んでペアダンスを踊ってくれるのでしょうか。
イエスの権威の源はイエスの愛でした。イエスが私たちを愛してくださったから、私たちはイエスについて行くことができるのです。
【第二コリント5:14】というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。
神様はなぜキリストを私たちのかしらにしたのでしょうか。それはイエスが十字架でその愛と自己犠牲を表したからです。
【ピリピ2:7~9】ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
夫は権威がほしければ、イエスと同じようにする必要があります。つまり、自分を低くすること、愛を与えること、自分を犠牲にすることによって。
自分の方がより力があるから、自分の方が理屈が通っているから、あるいはただ夫だから、というのは、キリストのような権威の源にはなりません。そうではなく、深く相手を愛し、実際に世話をすることです。世話をするためには、相手をよく理解する必要がありますし、そのためにはよく目を留めて注目していなければなりません,。
【第一ペテロ3:7】同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。
そのためには、良い本を読んだり、知恵のある人と会話したり、ちゃんと自分で考えて計画を立てたり、何よりも妻と家族のためによく祈ることが必要です。そうすれば、妻を理解して導くことができます。
結局、夫は妻に信頼されない時にこそ、きつく当たったりしがちです。
【コロサイ4:19】夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。
夫は妻につらく当たることによって引きずるのではなく、愛を与えることによって導くのです。実際に妻が安全に暮らし、安心していて、自分が深く理解されていると感じる時に、大抵の場合はその愛に応えて心を開き、喜んでついて行きます。もしそうならない場合は、必ずしも夫だけのせいではありませんが、まずは夫は自分にできる限りのことをすべてやる必要があります。
ここまでは、夫がかしらで妻がからだという関係について話してきましたが、じつはもう一つ大切な要素があります。結婚において、夫が唯一の権威ではないということです。妻にも権威があります。それは子どもに対する権威だけではなく、夫に対する権威も妻にあるのです。
【第一コリント7:3~4】夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
前後関係から、ここでの義務とは夫婦の寝室についての話です。
結婚において、この相互的な関係を視野に入れない限り、結婚の全体を理解することはできません。この意味で、夫と妻の関係は非常にユニークです。親子の関係とも、王と国民の関係とも根本的に違います。聖書には、国民は王に対して権利があるとか子どもは親に対して権威がある、ということばはありません。しかし、結婚に関しては、夫婦はお互いに対して権威があり、お互いに従い合う関係にあるのです。
だから夫は自分の妻に、自分の体を生きた供え物としてささげます。妻も夫に、自分の体を生きた供え物としてささげます。このように、双方が神に従って、互いの体に仕えて義務を果たします。どちらも神に従って義務を果たします。ここでの文法は大切です。直訳すると、夫は自分の妻に権利を与えなければならない、となります。その権利は、奪うものではなくて、自ら与えるものなのです。ですから、結婚式が終わった後でも、夫婦の寝室では強制はありません。体は常に与えられるものであり、奪われるものではないからです。
でも、この「賜物を与え合う」という関係性は素晴らしいものです。神様の導きと備えによって、一生自分に責任を持ってくれる人がいるということです。妻は大人になって結婚して親の家を出た後でも一人ではありません。自分を守り、面倒を見てくれる存在を、神様が任命してくださっているのです。これは寝室の話だけでなく、すべての領域において同じです。
神様は妻を美しく耕す庭師として夫を任命しました。これで夫は彼女を養い、守り、美しくする責任があります。彼がその使命を果たすならば、彼女は花が咲き誇り、果実がいっぱい実る園のようになるはずです。
【詩篇128:】あなたの妻は家の奥でたわわに実るぶどうの木のようだ。あなたの子どもたちは食卓を囲むときまるでオリーブの若木のようだ。
同じように、神様は夫を養い、管理してくれる存在として妻を任命しました。だから妻は、優しさや注目を与えて夫を力づけます。抱きしめることによって彼を癒します。
【雅歌6:2~3】私の愛する方は、自分の庭へ、香料の花壇へ下って行かれました。園の中で群れを飼うために、ゆりの花を摘むために。私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。
ここが夫婦の相互性を表すところです。
雅歌の中で、夫自身は羊飼いでありながら、その群れとして描かれています。
【雅歌4:16b】私の愛する方が庭に入って、その最上の実を食べることができるように。
花嫁自身がその庭であり、夫を養って面倒をみる者であると言っています。
彼女が百合の花のように美しく咲いているのは、彼が愛情深い庭師で、彼女に愛情深い注目を与えているので、この花を摘むことができるのです。
そして夫はそこから力を得て世の中に出て行き、神の義をもって働くことができるのです。これが夫と妻のあるべき関係で、権威の使い方です。神様が望んでいる姿です。
これは決してこの世が理想とする50対50の対等な関係ではなく、お互いが「100%の自己犠牲をもって仕え合う関係なのです。
最後に、この結婚のシリーズの締めくくりとしてお伝えしたいことがあります。 地上での結婚は、あくまでも天の結婚の影に過ぎないということをぜひ忘れないでください。まことの結婚とは、キリストと教会の永遠の結婚です。地上の結婚は、常に結婚している二人の目がキリストに向くように、そして周りの人たちの目も二人を見てキリストに向くように導くものでなければなりません。クリスチャンが良い結婚生活を送る時、それはキリストの愛、平和、調和を示すものとなります。それで私たちがキリストとの結婚をより望むように導きます。
地上の結婚が完璧ではなく、苦しい時は、地上の結婚以上のものが私たちに必要であることを表しているのです。夫婦は、キリストの誠実さを自分たちの結婚で表そうとするかが試されます。
地上の結婚は、簡単に偶像になり、神の代わりになってしまいます。私たちは神を求めないで、結婚相手や地上の結婚に執着してしまうことがよくあります。確かに家族という祝福は素晴らしい賜物で、地上で天の前味を味わうことができるものです。でも、栄光に満ちた影だからこそ、これが本物だと見せかけることができてしまいます。
地上の結婚を偶像にしてしまう理由はいくつかあります。一つは、なかなか結婚しないことです。いつまでも完璧な相手を探し求めて、相手が完璧でなければ納得できない、妥協できない、と思ってしまうことです。完璧な人を夫や妻として求めているのは、完璧な結婚を求めているからです。しかし、いくら待っても完璧な人は現れません。それよりも、良い人を見つけて良い結婚生活を送り、神の恵みによってお互いにとって素晴らしい人へと成長していくことの方が大切です。
二つ目は、結婚していながら常に不満を持っていることです。これは約束と違う、なぜ完璧ではないのか、もっと完璧に近づいているはずだったのに、というように思ってしまいます。そして離婚や再婚を夢見たりします。しかし、結婚の目的は単なる自分の幸せではありません。苦しみや自己犠牲を通して、自分がキリストのような者へと変えられていくことなのです。
三つ目は、聖書や神様やキリスト教を利用して、自分の結婚を良いものにしようとすることです。つまり影と本物を反対にしてしまうことです。キリストと教会のたとえを見て、この結婚をより良いものとするか、結局テクニックをそこから得て使ってしまうことです。彼らは最終的にキリストと教会の関係を学ぶことによって、夫と妻が幸せになることができると思ってしまいます。しかし、ディートリヒ・ボンヘッファーが、これから結婚する二人のために書いた説教でこう言っています。「あなた方の愛が結婚を支えるのではなく、これからは、結婚があなた方の愛を支えるのです。 」
なぜかというと、二人の愛は人間の愛ですが、結婚とは神が結び合わされたものであり、神の愛を表すべき関係だからです。キリストは、こんなに罪深い花嫁である私たちでも愛し続けてくださっています。それは、私たちが父なる神からの賜物だからです。ですから、自分も神を愛しているからこそ、自分の夫、妻を常に愛する必要があります。自分の愛が常に美しくて力強いからいつでも愛せるのでもないし、相手が素晴らしいからいつでも愛せるのでもありません。自分が常にキリストに愛されているからこそ、相手を愛し続けることができるのです。
今、結婚しているとしても、結婚していないとしても、結婚というものを見つめ直す必要があります。なぜならそこにキリストを見出すことができるからです。
実際にイエスも私たちが結婚に注目するように導いています。イエス様が最初になさった奇跡は、カナの婚礼の席でのことでした。そこでイエスはご自身をまことの花婿として私たちに表されました。そこで水をぶどう酒に変えました。
毎週の聖餐式も、結婚の婚礼の宴会です。イエスは毎週ぶどう酒をご自分の血に変えます。それは、私たちがそれを味わい、イエスの自己犠牲の愛を知るためなのです。
父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。
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