「家庭における女性の役割」家庭に関する主題説教シリーズ04
- 6月29日
- 読了時間: 13分
更新日:6 日前
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
先週はかしらとしての男性(夫)を考えましたが、今日はからだとしての女性について考えます。からだとしての女性とは、結婚している女性のことです。(未婚の男性はかしらではないし、未婚の女性もからだではありません。)
まず聖書の中で妻に関して話されている、最も大切な箇所の一つから始めます。
【エペソ5:22~23、33】妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。…
それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。
ここで妻たちに言われているのは自分の夫に従うということです。つまり、女性全体が男性全体に従いなさいと言われているわけではありません。結婚の一体の関係の外には、かしらとからだという役割は存在しないということです。例えば、教育機関、ビジネス、会社、あるいは政府や行政を考えても、男性と女性の間に心理的な違いや身体的な違いはもちろんありますが、その領域では男性と女性が契約における異なる役割を持っているわけではないのです。だから男性も女性もどの職業にもつくことができます。
聖書の中では、神様は王のことをかしらと言わないし、民のこともからだと言いません。牧師と教会員の関係もかしらとからだの関係とは言いません。父親と子ども、あるいは現代でいうと社長や上司と社員の関係も、かしらとからだの関係ではありません。
ところが、結婚における一体の関係は非常にユニークなものです。キリストが私たちの花婿であり、私たちはキリストの花嫁だから、教会においてはかしらとからだという関係があり、またそれを表す夫婦もかしらとからだの関係なのです。
ですから、家庭においては、夫とはどういうものか、妻とはどういうものかという違いが、非常に大切になります。そして悪魔が攻撃するのもここなのです。先週お話ししたように、悪魔は夫が夫らしくないように、責任を取らないように誘惑します。「独身の方が楽しいよ」と言わせたり、結婚したとしても妻に対して「君は独立した強い女性なのだから私に頼る必要はない。男性のようになれ。」と言わせたりします。そうすれば、夫も妻に対して責任を持つ必要がなくなり、自分の時間やお金、エネルギーを夫が自分のためだけに使い続けられるのです。これが、夫が夫でなくなるということです。
同時に、悪魔は妻も惑わします。責任を取らない夫を見て、「ほら、この罪深い夫を見てごらん。全然素晴らしくないですよね。あなたもあんな風になりたくないですよね。」とささやきます。悪魔は、妻が夫を妬み、夫のステータスや役割を奪うように誘惑するのです。「あなたも夫のようになれば、自由やパワーを手にすることができるよ。」と。
その結果、女性牧師がいたり、母親業を見下す女性がいたり、トランスジェンダーも最近現れています。結局悪魔は、妻であることは呪いだと主張するのです。だから生理や出産を呪いだと感じさせたり、子どもがいない方が楽だ、せいぜい一人か二人で十分だと思わせます。妻が愛している夫や子どもに仕えることは奴隷の状態だ、それよりも、妻のことを全く愛していない、何とも思っていない会社に仕えることこそが自由だ、と主張するのです。
夫がいることも呪いだと思ってしまいます。夫といつでも離れられるように夫に頼らないで自立できるようにさせようとします。
神様がこの世界をお造りになった時、真反対のものがお互いを引き寄せるように造られました。例えば磁石のN極とS極が引き合うように、オスとメス、男と女もそのように造られています。
しかし、夫が夫らしくなくなり、妻が妻らしくなくなった時、お互いを引き寄せる力を失い、お互いに魅力を感じなくなります。その結果として、結婚率が下がり、結婚が失敗に終わることは当然の結果なのです。
私たちは先週、夫はかしらとしてどのように歩むべきかについて考えました。
今日は、妻はどのように妻らしく歩むことができるのか、この一体の関係の中で、からだとしての役割をどのように果たすことができるのかを一緒に考えたいと思います。
いくつかポイントを挙げます。
1、妻は夫が神から与えられた働きを支え、果たすことができるように助けます。アダムはエバよりも先に創造され、エバが存在する前から、アダムに神の創造界を支配して守る働きが与えられていました。そして神はアダムに産めよ、増えよ、と仰られました。そのあとで、エバはアダムがその働きを果たせるように助け手として与えられました。順番は、まず働きがあって、そのあとでその働きを果たすことができるように妻が与えられています。もちろんエバがいなければアダムはその働きに手をつけることもできません。エバなしではアダムにとって不可能な働きだったのです。だからこの働きは二人に与えられている働きなのです。アダムと一体となることによって、エバはアダムの働きを自分の働きとして受けて二人で果たすのです。ノアとノアの妻も、アブラハムと妻サラも同様でした。
妻が夫について行って助けるためには、まず夫に働きがなくてはなりません。でもすべての夫に特別なユニークな働きがあるとは限りません。ジャングルで病院を作るような特別な働きをすべての夫が持っているわけではないのです。
でもすべての夫に共通して与えられている働きがあります。それは神を信じて従う家庭を築くことです。その家庭を、神の国の縮図、模型として、この世で神の御国広げるものとすることです。家庭をキリストの愛と平和ともてなしに満ちたものにするという働きのために、妻の助けは欠かせません。
2、妻は夫を敬います。条件なしでいつでも敬うのが神の命令です。彼が尊敬に値する時だけ敬うのではありません。夫を尊敬したいけど、何も尊敬を感じません、と言う妻もいるかもしれませんが、神様の命令は尊敬を感じることではありません。自分にない気持ちを感じるように命じられているのではなく、妻が夫に与えなければならない尊敬とは、態度や行動、言動です。気持ちではなくて、客観的に表す行為です。夫が尊敬を得るようなことを何もしていなくても、自分のかしらとして、また結婚においてキリストを象徴する存在として敬うのです。夫が尊敬できるようなことをしてくれたら、その分だけ敬うのではありません。
これは夫の場合も同じです。夫も、妻が愛するに値するときだけ、愛らしい時だけ愛するのではなく、常に自分のからだとして、また教会の象徴として妻を愛し続けなければなりません。愛するのが難しい時でも妻を愛するなら、そして妻がその愛を受け入れるなら、彼女はどんどん愛しやすい人間になっていきます。同様に、妻が夫を敬い、彼がそれを正しく受け入れるなら、彼はどんどん尊敬に値する夫に変わっていきます。このようにして妻は夫を立て上げることができるのです。社会全体の中で、そのような夫は尊敬を受けます。妻に敬われている夫は、力強く、自信を持って生きることができるからです。嵐に振り回されない男になることができます。妻がついてくるから導くことができるし、他の人も導くことができるようになります。
良い妻の夫に関する箇所にこのように書いてあります。
【箴言31:23】夫は町囲みの中で人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。
この夫は人々に認められ、名誉ある立場にいます。逆に、妻が夫を見下して敬わなければ、彼は恥をうけて、自分を男として見ることができなくなるし、周りの人も彼を男として見ることができなくなってしまいます。
【箴言12:4】しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。
夫も罪人です。妻を一番傷つけるのも夫なのです。そのような夫を許せない妻はよくいます。この欠点だらけの夫を敬うことができないから、夫の欠点を直そうとして、しつこく批判したりコントロールしようとしたりします。よくあるのが愛情を与えないことです。彼女は彼の愛情も受け入れません。そのように妻にコントロールされる夫は妻に去勢されます。去勢された夫を、妻は喜ばずにさらに見下すようになります。その中で自分の自尊心を保って、支配されないようにする夫はそこから遠ざかる以外にないのです。
【箴言21:19】争い好きで、苛立つ女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。
妻に見下された夫は遠くまで逃げなければならないのです。
夫をどのように直せばいいのでしょうか。ペテロは次のように言います。
【第一ペテロ3:1~2】同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。
たとえみことばに従わない夫であっても、信仰がない夫であっても、夫を変える力がほしければ、敬うことなのです。妻が静かにして行いを通して変えることが大切なのです。
3、妻が夫の愛に反応する時、受け入れて応えるときに、妻として振る舞うことができます。愛は夫から始まるものなのです。妻の方が先に夫を好きになって結婚する場合もありますが、結婚の土台は夫の愛であり、妻はその愛を受け入れ、応える役割を持っています。教会がキリストの愛に答えるのと同じです。
【第一ヨハネ4:19】私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
妻は夫を持った時に、体のすべてで夫の愛に応えます。手で仕え、耳で聞き、口で夫を励ます言葉を与えます。体によって彼を癒して喜びを与えます。
【箴言5:18~19】あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若いときからの妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、麗しいかもしか。彼女の乳房がいつもあなたを潤すように。あなたはいつも彼女の愛に酔うがよい。
妻たちは与えられた大きな力を、夫を建て上げるために使っているでしょうか。具体的に、あなたはこういうところが良いと思います、と言って彼を励まし、褒めたのはいつですか。最後に夫にハグして具体的に感謝を表したのはいつですか。自分の子どもを愛する時に、計画的によく考えて愛を与えるのと同じように、夫を愛することも、計画的に夫によく考えて愛を与える必要があります。
4、 妻が夫に耳を傾けることによって夫に従います。 統計的に、だいたいの妻は夫よりもよくしゃべりますが、時には黙って夫の言葉を聞く必要があります。たとえしゃべらない夫であったとしても、従うために使う器は、まず耳です。良い質問をしたり、彼の答えを待つ必要があります。だれかに従う時、まずその人の言葉を聞かなければなりません。キリストはよく「耳のある者は聞きなさい」と言われました。言葉には力があります。キリストは神のみことばです。聞くこと自体が従うことにもなります。敵がいる時、敵の言葉を検閲したり、話せないようにしたりするのです。妻も夫に従うつもりがあるなら、その言葉を聞く必要があるのです。妻は夫に、私の話を聞いてほしい、と要求するだけではなくて、お互いに従い合う関係が必要です。よく忘れられるのは、妻の方も夫の言葉を聞く必要があるということです。
5、妻が夫を助けるために、夫よりもまず神に従う必要があります。これが最も大切です。妻が夫を助けるために、夫より先に神に従うのです。罪人を夫に持つことは、とんでもなく辛いことです。創世記3章にあるように、結婚関係には呪いがかかっているからです。
【創世記3:16b】あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することとになる。
罪深い夫と共に暮らさなければならない妻たちは、よく夫を恨みます。許すことができません。妻はどうすれば恨まないでいられるでしょうか。
まず、すべてにおいて感謝することです。欠けのある夫も神からの賜物です。だから神に対しても夫に対しても実際に感謝を表現する必要があります。
もう一つは、妻でなくても教会にいるすべての人のかしらはキリストであることを覚えることです。だから妻が最終的に信頼してついていくのは、夫ではなく神でなければ、その結婚はうまくいきません。夫にも妻にも与えられているお互いに対する責任は、お互いを罪から引き戻すことなのです。だから妻も夫が罪を犯さないように助けなければなりません。これが彼女の妻としての大切な役割です。それをしなかった有名な夫婦はアナニヤとサッピラです。二人は神に呪われました(使徒の働き5章)。
人間の権威は本当の権威です。神に与えられているからです。同時にすべての権威は神の権威なのです。神の権威が先です。だから使徒たちはユダヤ人の支配者たちにこのように言いました。
【使徒の働き5:29】しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。…」
妻が妻としての働きを受け入れた時、じつはそれを神から受けて妻の役割を果たすのです。神が見えなくなると、夫を敬うことはできなくなります。神様が女性たちを女性としてお造りになり、妻たちに夫と結び合わせました。だから妻が夫に従う時に神に従っているのです。神が望んでいるように、妻は自分に与えられた力を夫を祝福するために、子どもたちを祝福するために、そしてこの闇に満ちた世界がキリストの光で輝くように、そのような家庭を築くために用います。
従うということを、今の時代は辛く、苦しく、醜い奴隷状態と関連付けます。しかし、正しい見方はダンスです。良い夫が良い妻と共に神に従って生きる時、それは美しいペアダンスのような姿になるはずです。夫がリードし、妻はそのリードについていって、彼女の良さが最大限に輝きます。それはキリストと教会の関係の反映です。ペアダンスを見ると見とれます。それが良い夫と妻の関係です。それはキリストと教会の関係です。
御父は御子に世界を救うという働きを与えました。でも世界を救うために、イエスに教会を妻(助け手)として与えました。この妻なしではイエスは世界を救おうとしません。
イエスは妻である教会にこのように言います。
【マタイ28:19~20】あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
これがイエス・キリストの働きです。イエスはこの働きを教会に与えています。そしてもちろんイエスもこの働きに欠かせないものです。だから世の終わりまでともにいてくださると約束してくださっています。このキリストと教会の踊りを通して、世界は救われるのです。
このことを上手く表現したのが3世紀のカルタゴの司教、聖キプリアヌスです。彼は「教会を母としない者は、もはや神を父とすることはできません。もしノアの方舟の外にいても救いにあずかる者がいるなら、教会の外にいる者もまた救いにあずかることができるでしょう。」と言いました。つまり、キリストが人を救うときに、必ず教会を通して救うのです。教会がこの働きに欠かせないからです。
カルヴァンもこのキプリアヌスの言葉を強調して、目に見える母なる教会についてこのように言いました。
「母なる教会がその胎内に私たちを宿し、産み出し、その乳房で私たちを養い、そしてついにはこの死すべき肉体を脱ぎ捨てて御使いたちのようになるまで、その保護と統治のもとで私たちを守り導いてくださらない限り、いのちに入る道は他にない。」
つまり母なる教会が私たちを守り導かない限り、私たちがいのちに入る道はないということです。
カルヴァンの言葉には続きがあります。
「また、教会の外では、罪の赦しも救いもない。」
これはイエスがマタイ28章で言われたことばに基づいています。母なる教会を通して神様がご自分の民に洗礼を授け、教え導いて、守ります。これだけ妻というものは夫の働きに欠かせないものなのです。これが神様のご計画なのです。
教会がキリストに従った時、かしらとしてついて行った時、私たちはイエスのからだとして、イエスの手足となって、世を救います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
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