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「家庭において男性は頭(かしら)としてどのように歩むべきか」家庭に関する主題説教シリーズ03

  • 6 日前
  • 読了時間: 13分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師



今日の説教は家庭シリーズの続きです。男性は頭(かしら)としてどのように歩むべきか、というトピックで話したいと思います。なるべく具体的に見ていきたいと思います。

私たちの時代は、あらゆる領域で権威というものを否定する時代です。私たちは王様をなくして、その代わりに公職者を選挙で選びます。彼らは理論上は民意に従う人たちで、彼らには権威はありません。

私たちは親の権威も信じなくなっています。子どもたちはどんどん生意気になっています。

宗教もただ個人の選択と思われています。まことの神がいないと思われているからです。自分がついて行きたい神がいれば、どの神にでもついていきますし、いなければどの神にもついて行く必要はありません。

結婚にも品位はありません。男性と女性は単なる平等で、どちらも相手に対して権威がないという結婚観になります。結局、私たちは「愛があるなら権威はないはずだ」と思ってしまいます。

しかし、クリスチャンは世界を創造した神を信じています。この創造主である神は私たちを造り、善と悪の区別を教え、人生における目的と存在意義を与えています。この創造主からすべての権威が流れ出ています。すべての権威は上から降りてくるのです。神ご自身は三位一体の神であり、御子なる神は御父に従います。だから結婚も含めて当然すべての領域で秩序があるはずなのです。

【第一コリント11:3】しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

結婚における権威には二種類があります。

一つ目の権威は今日お話しする「男は頭(かしら)であり、女はからだである」ということです。(女性に関する話はまた来週にします。)

二つ目の権威は、お互いに対する権威です。男性が女性に対して持つ権威、女性が男性に対して持つ権威です。

私たちは結婚式に出るたびに「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる(創世記2:24)」ということばを聞きます。この一体という関係性は、縦の半分ずつではありません。右半分が男性、左半分が女性という「一体」ではないのです。「頭と体」という一体です。それはエペソ5章でパウロがはっきりと教えています。

【エペソ5:22~23、28】妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。…

同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。

つまり、結婚において男性が頭(かしら)であることは避けられない事実なのです。夫は妻のかしらになるべきです、という言い方ではなく、夫は妻のかしらである、とはっきり書かれています。ですから、男性が結婚した時に「私はそういう夫にはなりたくない」と思っても、実際に彼はかしらなのです。夫婦がそれを信じていなくても、神の世界の事実を彼らの信じていることで変えることはできません。ですから男性は、良いかしらとして一生懸命働いて妻に仕えるか、かしらとして失敗するか、その二つしかないのです。かしらであることに変わりはありません。

かしらとして失敗する場合、いろいろな形があります。その一つは独裁的になってしまうことです。イエスが言うような異邦人の指導者のことで、自分の権威をただ主張します。歴史的にも、つい最近まで男性が妻を殴ったり蹴ったりしても社会的に問題にならなかった時代が長く続きました。

しかし同時に、自分の責任を放棄する夫もたくさんいます。これは現代にどんどん増えている姿だと思います。「自分には何の権威もない。責任もない。すべて五分五分だ。彼女にも収入があるし。」と言って妻の世話をしない男性が増えていたりします。あるいは、妻のことを恐れている男性もたくさんいます。

独裁的な夫に関して言えば、彼は自分に与えられている権威を、自分の思い通りにすべてが進むように使います。つまり、神のみこころがなるようにではなく、自分の思い通りになるように、神から与えられた権威を神が定めたように使わずに、自分勝手に悪用するのです。こういう男性は、基本的に霊的に怠惰です。仕事では一生懸命働くかもしれませんが、家に戻ってきた時に、ソファに座りながら「ビールを持ってこい」「お茶を持ってこい」と言って、自分から妻に仕えるという大変な働きをしたがりません。

聖書の中で「権威」という言葉を聞くとき、それは仕えることである。それを忘れないでください。受肉したイエスがそれを表しています。イエスはマタイ20章でこう言われました。

【マタイ20:25~28】そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

これはすべての権威に適用されますが、特にいのちを捨てるというのは、夫の権威の正しい使い方です。一方で、責任を放棄する夫は、権威を持ちたくない、責任を持ちたくないと思っています。家庭の中で一生懸命働いているように見えても、導くことはしません。妻の言う通りにあれこれ動くけれど、自分の妻や家庭全体に本当に何が必要なのかを考えないのです。

エデンの園のアダムは、そのような夫でもあったのです。彼はかしらであったのに、かしらのように振る舞いませんでした。エバを導くはずだったのに、エバの声に聞き従いました。

【創世記3:17】 あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。

じつはアブラハムも、ハガルをそばめとしてめとった時に、同じように自分の妻の言葉に聞き従いました。従うべきでなかったのに従ったのです。(2週間前に一緒にみた通り、サラの言うことを聞かなければならない時もありましたが…)

アダムもアブラハムも、妻の言う通りにしているはずなのに、結局、妻を喜ばせず、困らせていました。そして関係性もそれで崩れました。

責任を放棄する夫は、家庭の将来のために計画を立てません。家庭がどのようなミッションを持っているのか、長期的な方向性を示さないのです。たいてい、このような夫はいわゆる優しい人で、対立を避ける人だったりします。しかし、自分の家庭のために何が善で何が悪なのかを示さないのです。「そこに行ってはならない」「こっちの方へ進みましょう」という指示を出しません。人を正し、成長を促すために言わなければならない「耳の痛い真理」を言いたがりません。その結果、家庭の中には平和も一致もなくなります。その代わりに妻は不安になり、夫に対して不満だらけになってしまいます。家族のみんなもバラバラになり、協力して生きることができなくなります。頭が機能していないと手足の調整ができないのと同じです。頭が機能しないと、一致もないし、一つの方向に協力しながら進むこともありません。

ですから、権威を正しく使うことは、祝福のために仕えるということなのです。権威は祝福のために欠かせないものなのです。

キリスト教では、導く者は必ずしもべとして仕えます。王が羊を緑の牧場に連れて行くように自分の民に仕え、また親が子どもに仕えて何もお返しを求めないように、リーダーははっきりとリードする者でありながら、同時に仕える者なのです。このような「サーバント・リーダー」は、神様から私たちの祝福のために与えられている賜物です。父親や牧師や王や指導者がいない状況は、非常に悲しく、辛いものです。

【マタイ9:36】また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

夫がかしらであり妻がからだであるなら、妻と一体になっていない男は不完全であり、夫と一体になっていない妻も不完全です。聖書の中で妻はよく園に例えられます。神様が女性に夫を与えたのは、その園を耕し、守る者を与えるためでした。神様は夫に、この園を守り、たくさんの実を結ぶようにしなさい、というミッションを与えています。

少し具体的に考えましょう。具体的な話をするときに注意すべきなのは、すべてがすべての人に適用されるわけではないということです。ですから、ぼくは一般的なお話をします。


夫がリーダーとして働くのは大変な働きです。ですから、したくない、あるいはできないという人がたくさんいます。言い換えれば、すべての男性はこの点において失敗します。本当に大きな、大変な働きだからです。

大変なことの一つ目は、妻のことをよく学んで理解しなければならないということです。

【第一ペテロ3:7】同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。

これを少し翻訳を直して読みます。「夫たちよ、理解をもって妻とともに暮らしなさい。自分より弱い器として尊びながら暮らしなさい。」


男性はよく妻に対して「理性的ではない」とか「論理的ではない」とか「感情の意味がわからない」と文句を言うことがありますが、そうであればなおさら、妻を理解するために努力しなさいということです。自分の職業のために集中して熱心に勉強するように、妻をよく観察し、そのパターンを見つけてください。妻は仕事よりも長期的に、一生死ぬまで続くあなたの責任なのです。だからどのように妻を慰め、励まし、導くことができるかを勉強して知る必要があります。彼女がより弱い器で、繊細な器であることを尊ぶとはどういうことかを学び、時間を割いて優しく接し、彼女が多くの実を結ぶように導く必要があるのです。

【コロサイ3:19】夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。

男性たちは、努力しなければいつまでも妻を理解することはできません。考えていることも思っていることも、肉体的なことも理解しなければなりません。男性が妻を理解するようになれば、妻が自分自身を理解する助けにもなるのです。妻も自制心のある理性的な行いをする人になっていきます。彼の愛に彼女が答えるならそうなります。このことについてはまた来週話します。


大変なことの二つ目は、夫は妻と家庭を恐怖や害から守る責任があるということです。生活の困窮から守るために一生懸命働き、日用の糧が与えられるために稼ぎます。自分の家族の必要を優先し、自分のために使うお金を減らすことも大切です。また、妻、子ども、さらに孫の代まで世話ができるような長期的な経済計画を立てる必要もあります。もちろん、家族をいじめる者や狙う者から身体的・心理的な安全を守り、行動することも夫の務めです。良い父親は家族を安全な場所に導きます。それは武器を集めるよりも効果的です。イエスの父ヨセフが、ヘロデから家族を守るためにエジプトに連れて行き、エジプトから出た時に今度はヘロデの息子から守るためにユダヤを避けてナザレへ導きました。

また、夫は妻のからだの疲れやメンタルなストレスからも守る必要があります。安らぎと励ましを与えることで、彼女は力を持って子どもたちや他の人に仕えることができるようになります。

大変なことの三つ目は、夫は家庭の霊的な守り手であるということです。同じ食卓に家族を集めることもその一つです。毎日の食事や、特にお祝いの席に家族を集める姿は、キリストが私たちを養ってくださる姿の反映です。夫は家族と一緒に毎日祈る努力をし、みことばを通して語りかける必要があります。

【申命記6:7】これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。

夫は良い教会を選び、家族を礼拝へと連れて行く責任があり、自らが神に従う模範にならなければなりません。神が夫の上に与えた権威に従う模範です。男らしさと言う時に、従うことは思い浮かべないかもしれませんが、反抗したり逆らったりするのは子どもっぽい行動です。最も男らしい姿とは、軍服を着た男性の姿です。なぜなら、軍服を着て行進する姿は完全に命令に従い、従順な姿だからです。キリスト教でだれが一番男らしいかと言えば、それは殉教者です。死に至るまで神に従った姿、それこそが十字架にかけられたイエス・キリストの姿なのです。イエスは完全に御父に従いました。聖ゲオルギオスという人は軍人で、皇帝にいけにえをささげなかったので殺されました。

さらに、夫には妻の権威を支える働きもあります。夫が子どもの前で妻の悪口を言ったり批判したりするのは良くありません。妻が子どもをしつけるために苦労している時に、それを見て見ぬふりをせず、妻の権威を支えなければなりません。子どもたちが母親を敬い、言うことを聞くように導くのは夫の責任です。実際にソロモンが箴言で夫として「母の教えを捨ててはならない」と息子に教えます。

神様は第五戒で「あなたの父と母を敬え」と命じます。神様もご自分の下にある権威に他の人が従うように支えるということです。


三つの点を挙げましたが、具体的に言えばきりがありません。

このかしらとしての働きは本当に大変なものです。ですから男性が霊的に怠惰になると、この仕事をしたくなくなります。導きたくないから、権威を否定する妻がいる方が都合がいいと思ってしまうのです。しかし、夫が導かなければ妻がついていく姿もありません。それによって妻も妻らしく生きることが難しくなります。

これらをすべて正しく成し遂げられたのは、キリストのみです。詩篇23篇を夫の生き方と思って読むこともできます。

今から詩篇23篇を読みますので夫のことを思って聞いてください。

【詩篇23:1、5】主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。…

私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。

このように夫は豊かに自分の家庭を養い、必要を満たします。

【詩篇23:3】主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。

これは明らかに霊的な導きです。物質的なものだけではなく、家庭がきよめられるように導いています。

【詩篇23:4】たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。

つまり夫は戦ってでも自分の家庭を悪から守ります。

【詩篇23:6】まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。

安らぎのある家を与えるのも良い夫がすることです。家は安全に暮らせる場所となるのです。夫がこの大変な働きをした時に、妻は安全で守られます。彼女が良い妻であるなら、そのような夫を尊敬し、ついて行くことで彼の愛に応えます。

私たちは夫はかしらであるということを頭で理解するだけでは足りません。キリスト教徒でなくても、そのように振る舞っている立派な男性はたくさんいます。逆にクリスチャンは、これを信じていると言いながら「大変すぎるから導きたくない」と逃げてしまうことがあります。あるいは、女性の側も「へりくだるのが嫌だからかしらについて行きたくない」と思うかもしれません。しかし、夫婦が一体であり「頭と体」であるということは、単なる価値観ではなく、私たちの生き方でなければなりません。イエスはみことばを聞いているだけの人には感心しません。みことばに聞き従って行うところに祝福があるのです。

夫の祝福とは、自分自身がキリストのような者になり、妻がいのちを与えるために自ら血を流す(犠牲を払う)ことです。そして妻が家庭をキリストに向けるようになること、それが夫の喜びであり報いです。

【エペソ5:25~26】夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであ(る)。

毎週の礼拝において、特に聖餐式において、キリストは私たちのかしらとして働かれます。それによって私たちを愛し、きよめて、聖なる者としてくださいます。ですから、私たちは感謝をもってこの聖餐の食卓に集まりましょう。

父と子と聖霊の御名によって。アーメン。



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