top of page

「待ち望みと悔い改めの季節」ローマ15:4~13

  • 2025年12月7日
  • 読了時間: 14分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


「待ち望みと悔い改めの季節」

ローマ15:4~13

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。「それゆえ、私は異邦人の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います」と書いてあるとおりです。また、こう言われています。「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」さらに、こうあります。「すべての異邦人よ、主をほめよ。すべての国民が、主をたたえるように。」さらにまたイザヤは、「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く」と言っています。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

先週から待降節が始まりました。待降節は待つ季節です。

今日は、どういう意味で待つのか、なぜ待つのか、待降節の意味を話したいと思います。

この季節になると、私たちの周りにはクリスマスツリーが飾られたり、イルミネーションが点灯したり、クリスマスの音楽が流れたり、クリスマスらしい食べ物が売られたり(カラフルなドーナツなど)しています。町はハロウィンからクリスマスに移っています。

しかしその中で教会は「止まれ」「待て」と言います。まだ祝うなと言うのです。

今日は待降節の第二主日です。日曜日はあと二回来ます。まだ十八日待たないとクリスマスになりません。私たちの教会は来週がクリスマス祝会で、その次の日曜日がクリスマス礼拝になっているので、待降節は短く感じられるかもしれませんが、本来はそうではないのです。残念なことに、日本ではクリスマスイブもクリスマス当日も祝日にはなっていないので、みんながその日にクリスマスを祝うのは難しいのですが、本来、この待降節というのは待つ季節で、それも長く待っていると感じる季節なのです。もう待ちきれない、早くクリスマスになってほしい、というように思わせる時期なのです。

皆さんは、アドベントの時間を感じさせるためのアドベントキャンドルを知っていますか。四つのろうそくがあって、それぞれが希望、平和、喜び、愛を表します。それを一週間に一つづつ灯していくのです。これらは、私たちが一緒に待つためのものです。

アドベントカレンダーを知っていますか。その日の場所にある小さな箱を毎日一つづつ開けるのです。中にはレゴが入っていたり、聖書箇所が書かれたものが入っていたり、チョコレートが入っていたりします。このように一日一日期待を高める遊びをしながら、クリスマスまでのカウントダウンを一緒に行います。このようにするとクリスマスまでは当然長く感じられるはずなのです。

私たちはなぜこのように毎年クリスマスを待ち望むことをわざわざやるのでしょうか。待降節を長引かせる意味は何でしょうか。

旧約聖書を見ますとほとんどが歴史です。その歴史の中で人々は待っています。旧約聖書だけではなく、歴史全体も、自分の人生においても、待つことは多いです。

旧約聖書では「女の子孫」が生まれることを何千年もずっと待っていました。新約時代になると、何もしないわけではありませんがイエスが帰ってくることを待っています。「主よ、早く来てください」と祈りながら人生を送ります。

待つことはいつから始まったのでしょうか。この「女の子孫」が生まれるという約束が与えられたのは、創世記3:15です。

【創世記3:15】わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

創世記の最初から人類は待ち始めていたのです、この「女の子孫」は蛇の頭を打ってその民を救ってくださるお方です。そして人間が再び神との聖なる交わりに加わることができるようにしてくださるのです。それで、エデンの時からずっと人類はこの子孫を待っています。エバはその希望をもって子を産み、サラもずっと待たされて、その希望をもって子を産みました。このパターンはずっと続きます。ハンナもそうでした。

この旧約聖書の間、人々はずっと苦しみながら待っていました。

エジプトで奴隷だったイスラエルは何百年も待ち、やっと八十歳のモーセが現れても、さらに四十年間荒野で待たされます。約束の地に入るまで、ずっと待たされるのです。旧約聖書ではこのテーマがずっと続きます。

しかし、待たされている間に新しい預言が与えられました。どんな方が来るのか、どんな時代が来るのか、それがどんどん明らかにされていきます。例えば、この子孫は「エバの子孫」というだけではなくて、アブラハムの子孫、イサク、ヤコブ、ユダの子孫、そしてさらにエッサイの根から新芽が出るとか、ダビデの子であるというところまで示されます。

【イザヤ11:1~5】エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。

その上に主の霊が留まり、正義をもって弱い者をさばく方として現れます。その正義とともに、このメシアは偉大なる完全なる平和をもたらします。

【詩篇72:7】彼の代に正しい者が栄え  月がなくなるときまでも豊かな平和がありますように。

【イザヤ11:6~9】狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。

どれだけ素晴らしい方が来て、どれだけ素晴らしい救いを与えてくださるでしょうか。これが旧約聖書の中でどんどん発展されて、どんどん啓示されていくのです。だから苦しみながらではありますが、期待もどんどん増していきました。そしてこの子孫はイスラエルを救うお方でありますが、それ以上に全世界を救うお方でもあります。ローマ15章で強調されていることです。

【ローマ15:8~9a】私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。

メシアが来た時に、全世界が神の栄光に満たされます。

【イザヤ11:9b】主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。

【詩篇72:19】とこしえにほむべきかな. その栄光の御名。その栄光が全地に満ちあふれますように。アーメン、アーメン。

今日の礼拝の朗読でこの「アーメン、アーメン。」を喜んで言ってくれた子どもたちがいましたが、そうであるべきなのです。このアーメンは喜びと希望と信仰に満ちたアーメンなのです。ちなみに英語では、このアーメンにびっくりマーク(!)がついています。これは叫ぶ「アーメン」なのです。なぜなら私たちは希望に満ちて興奮しているからです。私たちがメシアについて学ぶときに、もっともっと慕い求めるべきなのです。待つ時間が長ければ長いほど、私たちにどれほどメシアが必要なのかも深く感じます。そのためにも神様は待つ時間を与えてくださるのです。

私たちが死んだ後も、復活を待っています。このタイミングは神のみこころです。


少し横道ですが、じつは一番待っているのは神様なのです。神様が一番忍耐深く、ご自分の計画通りに私たちのために時間をかけて待ってくださっています。


この世界は何千年も闇のうちにいて光を待っています。メシアを待ち望んでいます。アダムとエバからバプテスマのヨハネまでずっと待っていたのです。

【マタイ3:2】「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

バプテスマのヨハネのことばです。

天の御国が近づいているのです。もうすぐ来ます。もう時です。どれほど素晴らしいことなのでしょう。世界の始まりからあれだけ待っていた、あの素晴らしい出来事、メシアがもうすぐ来るのです。この王は正しいさばき司です。見た目でさばく方ではなくて、真理と公正をもってさばきます。彼が現れた時に、苦しむ者や貧しい者を救ってくださいます。そして虐げる者を打ち砕きます。これは良いニュースで、素晴らしいことで、嬉しいことですよね。

それなのに最初のことばは「悔い改めなさい」です。

つまりこれは悔い改めていない人にとって良い知らせではありません。もしあなたが人を虐げている人だとすれば、これはうれしい話ではありません。あなたが苦しんでいる人や貧しい人を無視しているのであれば、メシアが来ることは決してうれしい知らせではありません。あなたがうそを自分の土台にして生きているなら、この真実を実行するさばき主が来るのは決してうれしいことではないのです。

自分だけを満たそうとして生きている人たちにとって、この貧しい人を救う王様が来ることは、決して良い知らせではありません。イエス・キリスト、正しい王、さばき主がもうすぐ来るならば、私たちは大変です。私たちは困ります。

早く悔い改めなければ大変な目に遭います。イエスが来る前に、早く悔い改めて洗礼を受けて、清められなければなりません。それは、私たちがこの世と共に罪に定められることがないためです。

私たちはみんな洗礼を受けているから大丈夫です、いつも悔い改めています、毎週教会に行っています、クリスチャンです、私たちにとってキリストが来ることは本当に素晴らしいことです、と自分に自信を持っている人たちに対して、バプテスマのヨハネは何と言いますか。

【マタイ3:7~8】ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

悔い改めにふさわしい実を結びなさい、とヨハネは言います。

私たちが悔い改めるときは本音で悔い改めるし、自分がやったことは申し訳ない、良くなかったと思って 悔い改めています。しかしその程度では全然足りないとヨハネは言うのです。 自分が悔い改めの祈りをした時、どれだけ申し訳ない気持ちだったかであなたの悔い改めをはかってはいけません。 それにふさわしい行いをしているかどうか、神様はそこを要求しているのです。あなた悔い改めた者として生きていますか。 あなた変わりましたか。あるいは変わろうとしていますか。 あなたの生き方を清めていますか。


【ローマ15:5~6】どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

このように生きていないとだめなのです。

心も声も一つにして、平和に、ともに神をほめたたえて生きていかなければいけません。 ある意味では、自分一人では正しく生きることができないのです。自分の兄弟の前で正しく生きていないと神のみ前では正しくないのです。イエスが来るというのは、ある意味では清い人に対してだけ福音なのです。 言い換えれば、悔い改める者にとってのみ福音なのです。

だから神様は、ご自分が来られる前からずっと時間をかけます。すぐにさばきを下すのではなく、時間をかけて預言者を送り、罪を指摘して、主の日が来る前に、私たちに悔い改める時間を与えてくださっているのです。神様は私たちにたっぷり悔い改める時間を与えてくださっています。神が現れた時に、私たちが呪われないで、救われるためです。

現代の私たちは、みんなの親友で、いつでも優しくて、私たちと共に苦しむイエス・キリストの像を見慣れているかもしれません。

ですが、聖書を見てみると、主の日、イエスが現れる日は恐ろしい日なのです。ヨハネが語った、本来の救い主の姿を忘れてはいけません。

ヨハネはこのように言いました。

【マタイ3:11】私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。

また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

だから待降節は長いのです。王が正義をもたらす前に、悔い改める時間がたっぷりあるためです。

第二ペテロを見てください。本当は3章全体を一緒に読みたいのですが、それだと時間がかかるので、このみことばを一緒に読みたいと思います。

【第二ペテロ3:9、14~15】主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。…ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。

忍耐があるのは神様の方です。

しかし私たちも何もしないで待っているわけではありません。忙しく待っています。

私たちの神の忍耐、つまり来るのが遅いことは救いであると考えなさい。


ペテロがこれを書いている時点では、クリスマスは数十年前に起きていました。イエスはすでに誕生して十字架にかかり、復活して天に昇っています。つまりペテロはイエスが生まれることを書いているのではなくて、これからの待降節、イエスの到来について話しているのです。イエスは復活していますが、イエスはまた来ます。これは私たちが毎週礼拝で告白している真理です。もちろん、イエスは これまでの歴史の中で正義と平和をもたらすためにいろいろな形で何度も現れました。そして私たちの先週からの待降節は、私たちが特別にこれから来ることを覚えて、それに備えるための時期です。

この数週間の間、私たちがしっかり考えなければいけないのは、自分がどのように主の日に備えるのか、どのように悔い改めにふさわしい実を結ぶことができるのか、ということです。これは四旬節のように聞こえます。四旬節も長く待つ時で、自分を備える時なので、実際に似ているし、ぼくのストールも四旬節と同じ紫をつけています。私たちは、教会としても個人としても、これを意図的に考える時間を作らなければ、適当な悔い改め、適当な備えしかしなくなってしまいます。罪の悔い改めの時間が日曜日の朝にあっても、何について悔い改めるのかを普段から考えていなければなりません。そしてだれかに告白しなければならないのです。

では、私たちはどうやって正しく生き、これからの生き方を正すことができるのか、 それも考えて、実行しなければいけません。大丈夫です。待降節はまだ12月24日まであります。


毎週日曜日の礼拝の聖餐式の時に、イエスはまた私たちの心に来てくださいます。聖餐式は毎回の待降節です。イエスが私たちとともにいてくださり、私たちにご自分の平和と永遠のいのちを与えてくださいます。だから、私たちはそのイエスとの出会いのために準備をしなければならないのです。

礼拝の始めに罪の告白と罪の赦しの宣言があるのはそのためです。聖餐式を受ける前に平和の挨拶をかわします。主の平和があなたとともにありますように、と言うのも備えです。私たちはゆるされた者として、お互いをゆるし、和解して、平和のうちにいる兄弟としてイエス・キリストの食卓に来るのです。これによって私たちは主の道を用意しています。主の通られる道をまっすぐにしています。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。アーメン。(ローマ15:13)



コメント


© 2023 Mitaka Evangelical Church. All rights reserved

bottom of page