top of page

「降誕と再臨の間に生きる」ルカ2:1~20

  • 2025年12月21日
  • 読了時間: 11分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


ルカ2:1~20

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。

ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。

ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」

そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。

しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

今日は待降節の四週間目で、待降節の最後の日曜日です。まだ窓に置いてあるネイティビティ(降誕場面のジオラマ)にイエスはいません。

しかし皆さんは気づいたと思いますが、今日朗読したのはクリスマスの箇所でした。そしてぼくのストールは白です。つまり私たちの教会にとっては今日がクリスマス礼拝です。メリークリスマス!

クリスマスではイエスの誕生を祝います。先週のクリスマス祝会で、日曜学校の子どもたちが一生懸命練習してきたイエスの降誕劇を一緒に楽しみました。なぜなら、これは歴史の中で最も大切な出来事の一つだからです。旧約聖書のすべての歴史はこの時に向かって進んでいました。


しかし、ルカの福音書2章でのイエス誕生の語り口はとてもシンプルで淡々としています。

イエス誕生のストーリーは、まず住民登録のために、ヨセフと身重のマリアがベツレヘムに行きます。

【ルカ2:1、4~5】そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。…

ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。

そしてイエスの誕生は本当に一言だけです。

【ルカ2:6~7】マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

ある意味で少し変わったことが起きていましたが、超自然的なことは何もありませんでした。周りの人たちが見ても、これが神の受肉だ、と思わせるようなものは何もなかったのです。恐らくマリアを助けた助産婦でさえこれがどれほど大きな出来事なのか、全く気づいていなかったと思います。

ですから天使たちが現れてこの告げ知らせをしてくれなければ気づかないことでした。マリアからイエスが産まれたことが少し変わったことだったのですが、マリア、ヨセフ、羊飼いに御使いが現れたストーリーがなければ、私たちはこの誕生の意味を知ることができませんでした。これが一つの真実です。神の啓示であるみことばがない限り、私たちは自分の生きている世界を理解することはできません。私たちの周りで起きていることも正しく解釈することはできないのです。それで神様はこの御使いたちを送ってくださいました。

ルカの福音書は淡々とした物語ですが、いくつか詳細を伝えてくれています。

一つはイエスを布に包んだこと、もう一つはイエスを飼い葉桶に寝かせたことでした。なぜなら宿屋には場所がなかったからです。詳細はこれしかありませんでした。

【ルカ2:19しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

マリアはこのことをよく覚えていて、そして記録できるようにわざわざルカに伝えています。でもルカはなぜこの詳細を記録しているのでしょうか。マリアが体験した色々なことや、マリアが覚えていたことは他にもあったはずなのに、ルカはこのことだけを記録しているのです。

じつは、この後の箇所を見ると、なぜこの二つが大切なのかがわかります。御使いが羊飼いに現れて救い主が生まれたことを伝えたときに、このように告げました。

【ルカ2:9~11】すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

余談ですが、今日の箇所を英語で読むと、ぼくの頭の中でヘンデルのメサイヤが流れます。

「For unto us a Child is born」(世に御子をばたもう聖子{みこ}はあれましぬ)

「Glory to God in the highest」(御栄光は高き主にあれや)


話を元に戻しましょう。

御使いたちが注目するものが二つありました。

【ルカ2:12】あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどり子を見つけます。それがあなたがたのためのしるしです。

「布」と「飼い葉桶」のしるしを見つけたら、この子こそがキリストです。実際に羊飼いたちはこのしるしを探しに行きました。そしてちゃんとしるしを見たのです。

【ルカ2:16】そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。

つまり三回もこのしるしについて出てくるのです。(正確には二回半:布二回、飼い葉桶三回)

じつはこの二つのしるしは、ただのしるしではありませんでした。その程度の話ではなかったのです。このしるしはイエスがどのようなお方なのか、イエスはだれでどのように私たちを救うのか、そこまで語っているものでした。


ではまず布について考えてみましょう。

この白い布はイエス様が葬られた時の布に似ています。ルカは特にこのことを強調しています。

【ルカ23:53】(アリマタヤのヨセフ)はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。

ペテロもイエスの墓の中でその布を見たことを強調しています。

【ルカ24:12】 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。

つまりイエスの話は布で始まり布で終わるのです。イエスが世に来た目的は、すべての人の贖いの代価としてご自分を与えてくださるためでした。それが誕生の時にすでに預言されているのです。


次に、飼い葉桶について考えます。

なぜ飼い葉桶に寝ているのかというと、宿に場所がなかったからです。イエスは最初からのけ者にされ、追い出されていました。天から神の子が来たのに、ご自分をここまで低くしてくださいました。生まれた瞬間からのけ者でした。

本来は飼い葉桶には動物の餌が入っているはずでした。それもイエスが天からのまことのパンであることを示していました。そして彼を信じてイエスの肉を食べる者は永遠のいのちを得るのです。そのことも預言されています。

このように、イエスの死もイエスが与える永遠のいのちもしるしとなっていました。マリアはこのことを覚えて思い巡らしていました。だからルカはこのように書くことができたのです。

【ルカ2:20】羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

羊飼いたちは喜んで神を讃美して出て行きました。


私たちはなぜ神を讃美するのでしょうか。それをパウロと一緒に見ていきましょう。

【テトス2:11~14】実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。

キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。

日本語の翻訳では難しいのですがこのテトスの箇所は一つの文です。

羊飼いの前に現れた御使いが言ったように、イエス・キリストの誕生は救いをもたらす神の恵みが現れたしるしです

ではイエスの誕生が神の恵みの現れであるなら、それは私たちにとってどういう影響があるのでしょうか。

まず、恵みは神からの賜物であり、私たちが努力して手に入れたものではないということです。自分で稼いだものでも買ったものでもないのです。

だからといって、恵みだから何もしなくてもいいのではありません。それを受け取った私たちは受け身的になってはいけないのです。


この恵みは、不敬虔とこの世の欲を捨てさせ、今の世において慎み深く、正しく、経験に生活することを教えてくれます。そのために私たちを訓練してくださるのです。このように生きるようになるためです。

まず恵みがあって、私たちはこの世の欲を捨てます。その代わりに慎み深く敬虔に生活するのです。恵みがあるからこうしないでこうする、と教えられています。


そして大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光ある現れを待ち望んでいます。これは未来の話です。イエスの誕生の話ではなく、イエスの再臨の話です。

私たちがその希望をもっているから、キリストは私たちをすべての不法から贖い出して、善を行うことに熱心な民をご自分のものとしてきよめてくださいます。そのためにイエスはご自分をささげられたのです。

だから私たちは主を喜び、感謝して、御名をあがめます。

なぜなら、この新しい世界はイエスの誕生という恵みから始まって、未来の栄光に向かって進んでいるからです。この過去と未来の間に私たちは生きています。私たちはこの恵みに押されて敬虔に生きることができるのです。これが私たちのやるべきことです。

クリスマスは確かに楽しいのですが、私たちにはやることがあります。クリスマスを祝ったら、日々の生活に戻ってこのように生きる必要があるのです。


ここで、慎み深く、正しく、敬虔という三つのことばに焦点を当ててみましょう。

・慎み深く

これは自分に対してのことばです。

酒に酔っていない状態のことです。 自分自身を制して、酒や金や異性や怒りに支配されず、自分の中に生きて働いているキリストの霊によって治められている状態のことです。朝起きるべき時間に起きて、やるべきことを一日かけてやるのです。

・正しく生活する

これは 他者に対してのことばです。

正義をもって接し、神の国とその義を求めることです。神の義を行うとき、御国が来てそこに平和の都が築かれます。

・敬虔に生きる

これは神に対してのことばです。

神を正しく恐れる生き方をしなさいということです。正しくない恐れは恐怖です。だから御使いは「恐れることはありません」と言うのです。私たちは恐怖を感じる時に神様から逃げます。しかしこの恵みは私たちのうちに正しい恐れを生み出して、神に向かって走らせます。神を仰ぎ見て、神のことばを聞いて、神に語りながら、神の近くに行きたいのです。これが敬虔に生きることです。


今の世(今の時代とも訳せる言葉)とパウロが言うのは次の世が来るからです。次の世でイエスが栄光を帯びて再び来られることを待ち望んでいます。

イエスがすでに恵みをもって来てくださったので、敬虔に生活することができます。

つまり良い行いは恵みを受けることから流れ出るのです。それを受けたものとして感謝して喜んで賛美します。恐怖や怠惰はありません。


私たちがこのクリスマスのストーリーを本当に信じているなら、私たちの生き方は変わります。暗闇に主の栄光が輝いているのが見えているなら、すべての民の救いが現れたことを信じているなら、私たちの生き方は変わります。

礼拝においても、日々の生活においても、マリアのようにみことばをすべて心に納めて深く思い巡らしましょう。

そして御使いのように、神の栄光を賛美し、平和を祈りましょう。天には栄光、地に平和、という頌栄を歌います。そして羊飼いのように、御使いたちから聞いたことばを信じて他の人に伝えましょう。

【ルカ2:20】羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

帰って行って羊を飼います。彼らは自分の働きに戻るのです。この喜びを心に留めて日々の働きに戻るのです


これから聖餐式にあずかりますが、このことを神に感謝し、共に賛美しましょう。



コメント


© 2023 Mitaka Evangelical Church. All rights reserved

bottom of page