「試練を喜びとし、成熟に向かう」ヤコブ1:1~4
- 2025年12月28日
- 読了時間: 8分
説教者:ラルフ・スミス牧師
ヤコブ1:1~4
神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります。
私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。
今日は今年の最後の日曜日である。皆さんはこの一年のことを色々考えると思うが、個人的なことや家族のことなどで試練もあったと思う。
ウクライナのように一年間ずっと戦争の中にいる人たちも、アフリカの教会のようにイスラム教に迫害されて厳しい試練にあっている人たちもいる。
世界の中で様々な厳しい大変な状況の中にあって、私たちはここで神様に仕える働きが与えられたことを感謝する。
私たちの教会の中で試練にあっている人もいる。その試練は戦争など世界の他の人たちがあっている試練と比べたら小さく見えるかもしれないが、試練に直面している人にとっては大きな苦しみである。そして神様は、私たちの試練を小さいものだと思って突き放したりはなさらない。私たちが試練にあう時に、神様は私たちを心配して愛してくださって祈りを聞いてくださる。だから、様々な試練にあう時に、神様に信頼して、神様を求めて、神様により頼むのである。
⚫️ヤコブとはだれか。
このヤコブのみことばを心から感謝する。
この箇所のギリシャ語の最初のことばは「ヤコブ」。それが難しい問題である。なぜならヤコブという人は聖書にたくさんいるからである。イエス様の十二弟子の中にヤコブは二人いたし、イエス様の弟にもヤコブがいた。イエス様の弟ヤコブは、後にエルサレム教会のリーダーになった。
十二弟子の中の一人目のヤコブはヨハネの兄弟で、教会のリーダーで、イエス様が何か特別なことをやる時にはいつもペテロとヤコブとヨハネを連れて行った。聖書に出てくる名前の順番もこの通りである。ヤコブはヨハネの前にいつもくる。(一回だけ例外があるが)
この手紙を書いたのはどのヤコブかを考えるとき、この手紙全体の深い意味がわかるし、私たちにとってどれほど大きな励ましになるかと思う。
十二弟子の中のもう一人のヤコブは小ヤコブと呼ばれる人である。一般的に、この小ヤコブがヤコブ書を書いた可能性はないと思われている。そして今の時点ではイエス様の弟ヤコブが書いたというのが一般的である。しかし私は十二弟子のヨハネの兄弟ヤコブが書いたのではないかと思っている。このヤコブは使徒たちの中で一番最初の殉教者である。ヤコブはAD44年頃にヘロデ・アンティパスによって処刑された。
キリスト教における最初の殉教者は使徒ではなくてステパノである(使徒の働き7章)。ステパノが殺された後で、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こった。この手紙はそれらの大きな苦しみの中にある教会に対して書かたのではないかと思う。それはなぜかというと、「離散している(ギリシャ語で『ディアスポラ』)」という表現は、ステパノの殉教後に教会が激しい迫害を受け、人々がエルサレムから各地に散らされた状態を指していると考えられるからである。
徒の働きによると、ステパノが殺された後でパウロがリーダーのようになって教会を迫害し、使徒たち以外はみんなエルサレムから散らされてあちこちに逃げなければならなかった。その時イエス様の弟ヤコブはまだエルサレムのリーダーではなかった。ヨハネの兄弟ヤコブが殺されて、イエス様の弟ヤコブがエルサレムのリーダーになったのはAD44年頃で、ペテロがエルサレムから出なければならなくなってからのことである。
しかし、このヤコブ書が書かれたのは、イエス様が十字架にかかられたのと同じAD30年頃、つまり使徒の働き8章から9章にかけての、迫害によって信徒が散らされた時期ではないかと思う。パウロが救われたのも同じAD30年である。だから手紙を書いたのは、おそらくヨハネの兄弟ヤコブだと思う。このヤコブはエルサレム教会の牧師のような働きをしていたと推測される。ペテロは使徒たちの中で一番偉い教師でリーダーだった。この手紙は各地に逃げなければならなかったユダヤ人クリスチャンたちを励まし、慰めて信仰を堅く守るためにヤコブが書いたと思う。
⚫️離散している十二部族(ヤコブ1:1)
AD30~40年頃のクリスチャンはほとんどがユダヤ人であった。使徒の働きにはっきり書かれているわけではないが、ペテロがコルネリオに伝道して彼がバプテスマを受けた時から異邦人が教会に入った。だからヤコブはユダヤ人のクリスチャンにこの手紙を書いた。新約聖書の中で「離散、あるいは離散した(ディアスポラ)」ということばは三回しか使われていない。動詞としても三回しか使われていない。その動詞が使われているのが使徒の働き8章の教会から人々が散らされた箇所である。ヤコブ書にはコロサイ書やエペソ書のような場所の名前は出てこないが、信仰、試練、成長などの色々なテーマが目立つ。試練や苦しみが非常に強調されているのは、ユダヤ人クリスチャンたちが家を追われ、仕事を失い、家族がバラバラになり、これからどう生きていけばいいのか分からない不安の中にいたからである。
⚫️様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。(ヤコブ1:2)
マタイの福音書はAD30年に書かれた書物であるが、じつはヤコブ書の中にマタイの福音書を指す箇所がたくさんあることに気づく。ヤコブはイエス様に近い三人の弟子の一人として、マタイの福音書にあるような教えをイエス様から直接受けていたし、マタイの福音書を自分で読んでいたと思う。ユダヤ人クリスチャンのためのマタイの福音書と、散らされたユダヤ人クリスチャンのためのヤコブ書は、苦しみと試練を非常に強調する。
ヤコブ書1章には「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」と書いてあるが、イエス様の山上の説教でも同じことを言っている。
【マタイ5:11~12】 わたしのために、人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。
私たちも様々な試練にあうが、それが大きな試練ではなくても、どのような試練であっても、それを神様から与えられた成長の機会として受け止め、感謝して喜ぶことが大切である。試練を正しく受けるならば、それは祝福となり、成長につながるからである。
⚫️信仰が試されると忍耐が生まれます。(ヤコブ1:3)
パウロもローマ書で同じことを言っている。
【ローマ5:3~4】苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
ヤコブ書の忍耐という翻訳は、それがベストなのかどうか、じつはわからない。積極的に神様に従って、忠実で、感謝して成長を求める姿勢、という意味での忍耐である。ただただじっと耐えるだけの姿勢ではないのである。
⚫️その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。(ヤコブ1:4)
そのようにして、私たちは大人として成熟した完全な者へと導かれ、用いられる者になる。ここでいう「完全」とは罪がないという意味ではなく、「完成した(英語のcomplete)という意味である。
試練にあわなければ成長もない。ヘブル人への手紙にも同じようなことが書いてある。
【ヘブル5:8~9】キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、…
イエス様ご自身も苦しみを通して従順を学ばれたと記されている。
【ヘブル12:2】 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに、十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
イエス様でさえ苦しみを通して学ばれたのであれば、私たち人間が試練によって成長しなければならないのは当然のことと言える。
私たちが神様から与えられた試練を成長のための祝福として受けるとき、私たちはその試練から学んでクリスチャンとして成長することができる。忠実にイエス様に従って御国を求めるなら、地域教会として成長するし、家族として成長するし、個人一人一人も成長する。イエス様のように素直な心を持って、神様を信じて、すべてが神から与えられたものとして受ける。そして喜んで御国を求める。
散らされたエルサレムの人々は、逃げた先々で何をしただろうか。彼らはどこへ行っても福音を伝えた。最初はユダヤ人だけに話していて、異邦人に福音を伝えるという発想はなかった。しかしその働きが広がり、アンティオキアから異邦人に福音を伝える働きが広がり、教会が試練にあって散らされてエルサレムの教会が死んだようになった時に教会が成長して、福音を伝えて、異邦人に福音が伝えられ、異邦人の教会が生まれてきた。エルサレムの教会の死によって異邦人の教会が生まれたのである。試練にあうことは、神様から与えられた成長の機会である。私たちも地域教会としてこの日本で福音を伝える使命が与えられている。クリスチャンの少ない日本で、地域教会として、私たちが試練に遭うとき、それがどんなに小さくてもそれを神様から与えられた機会として受け止める。熱心に福音を伝え、神に忠実に従って、神の御国と神の義を第一に求める個人、家庭、地域教会は必ず成長し、実を結ぶ。
一年の終わりに、今年の祝福を思い出して感謝するとともに、来年も忠実にキリストに従って身を結ぶことがで切るように祈り求める。
試練を神様の恵みとして受けるとき、私たちは成熟した大人になる。そして何一つ欠けたところのない者として実を結ぶことができる。エルサレムの教会はものすごい実を結んだ。私たちも喜びをもって主に従うときに実を結ぶはずだ。
これまでこの小さな地域教会は恵まれて守られて非常に祝福されてきた。これからももっと成長してもっと祝福されてもっと神様に用いられるように。来年も心から喜んで感謝して、主イエス・キリストに忠実に仕えたいと思う。
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