「すでに、しかし未だ(Already, not yet)」創世記12:1~4a
- 3月1日
- 読了時間: 9分
説教者:ボグミウ・ヤルムラク牧師(CREC改革福音教会団 フス地区会監督牧師)
創世記12:1~4a
主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。
今日の説教者は、ポーランドからいらしたボグミウ・ヤルムラク牧師です。CRECでは私たちの地区会の監督牧師をしてくださっています。
----------
おはようございます。今日の説教は先ほど朗読していただいた創世記12章からです。
よく知られている箇所なので、皆さんはこのアブラハムの物語をよくご存知だと思います。この12章で起きていることを理解するために、11章を見なければなりません。11章はバベルの塔の話ですが、その最後の方にとても大切なことが書かれています。
【創世記11:28】ハランは父テラに先立って、親族の地であるカルデア人のウルで死んだ。
なぜ大切なのかというと、バベルの塔の後の世界を縮図のように見せているからです。それは父親に先立って息子が死ぬような世界でした。これはただ個人に起きた悲劇ではありません。死が支配する、罪の痛みに満ちている世界で、もはやいのちはありません。
この世界には、美術や工業など、素晴らしい進歩があります。しかし、それは時にクリスチャンにとって大きな誘惑となります。私たちはその進歩に携わりたいと思いますし、成功者や権力者に魅了され、これが御国だと勘違いしてしまいます。そしてこの世界を支配している本質的な問題を忘れてしまいがちです。この世を支配しているのは死なのです。
父に先立って息子が死ぬという問題だけではなく、母の胎も閉じられていました。このような世界からは、蛇の頭を砕く女の子孫(救い主)は生まれてくることができません。バビロンは祝い事をよくしますが、神の食卓でパンを割くことをしません。バビロンのような王国は強くて、権力によって相手を支配しようとします。バビロンは素晴らしい塔を建てましたが、神の食卓でパンを食べることはしませんでした。そこにまことの交わりはないのです。
神様は、このような文明からアブラハムを呼び出しました。使徒の働き7章では、栄光の神ご自身がウルでアブラハムに現れたと言います。アブラハムが思いついたことではありません。神ご自身がアブラハムに現れて、その約束によって、ウルの地を離れました。約束の地に入るためにアブラハムはユーフラテス川を渡る必要がありました。エデンから流れる四つの川の一つです。川とは流れる水のことで、聖書において川を渡るという行為は、非常に象徴的な意味を持ちます。それは、古い自分に死に、向こう側に渡る時に新しいいのちに入ることを意味します。ノアは大洪水の水によって、モーセとイスラエルの民は紅海を渡ったことで、ヨシュアとイスラエルの民はヨルダン川を渡り、イエスも同じヨルダン川で洗礼を受けました。私たちが聖書を読んで解釈するときに、このパターンによって考える必要があります。救いと洗礼です。というのは死に下って、向こう側で復活するという意味があります。これはアブラハムに対するメッセージでもあります。古い創造、古い世界は人間の反乱を通してだめにされました。人間は王国の鍵を悪魔に手渡しました。人は自分を死の支配に従わせましたが、神様はアブラハムを呼び出して、洗礼をさずけました。それによってアブラハムはアダムによる最初の人類に対して死にました。そして神様は新しい家族を創造しました。この家族は食卓の交わりを中心にしています。
興味深いことに、神様は、アブラハムがどこに行くのかを言いませんでした。ただ「わたしが示す地へ行きなさい。(創世記12:1)」とだけ言いました。
神様はアブラハムに、具体的な地図ではなく、約束を与えました。アブラハムは、ヘブル書11章にあるように、バビロンから呼び出されながらも、まだ約束の地の完成には至っていない「すでに、しかし未だ(Already, not yet)」という空間の中で生きました。
【ヘブル11:13】これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
これは私たちの人生を表すものでもあります。私たちが生きるこの空間もまた「すでに、しかし未だ(Already, not yet)」の状態にあるのです。私たちは神の約束に信仰をもって応えます。そして天の故郷を目指す巡礼者として、希望を持ってこの人類の道を歩む必要があるのです。
だから神様はアブラハムに四つの約束を与えてくださいました。
【創世記12:2~3】そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
・大いなる国民(くにたみ)
この約束を理解するために創世記10章を見てみましょう。そこには七十の国民の話が出てきます。そしてその全ての民が神に逆らい、堕落しました。神様はアブラハムを通して、もう一度七十の国民を創造します。この後イスラエルの長老は何人になるか覚えていますか。七十人です。とても象徴的で大切です。七十人の長老は新しい人類の象徴として、神の義を国民に表す役割を与えられました。しかし成功するためには、自分たちの戦車や塔ではなく、神の約束に信頼を置く必要があります。
・あなたの名を大いなるものとする
なぜ「名」が約束になるのでしょうか。バベルの塔を建てた人々は、自分たちの名を高めようとしました。もちろん神から与えられる名ではなく、自分の力でそれを手に入れようとしました。しかし神様は彼らが手にすることができなかったものをあたなに与えると約束しました。神様はアブラハムに対し、彼らが自力では手にできなかった「名」と「祝福」を授けると約束されました。神の名が額に記されているということは、自分は聖なる場所に入る特権が与えられているということです。神に近づき、感謝をささげるために招かれています。そして神様が与えようとしている祝福を与えようとしています。
・神の守り
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。(創世記12:3)
国々が神の民をどう扱うかによって自分たちの運命が決まります。国々がイスラエルの神の証を受け入れるなら、彼らも神の食卓に招かれます。
・地のすべての部族は、あなたによって祝福される
私たちは祝福や部族ということばに注目しますが、地のすべての部族ということばに意味があります。地はアダマという言葉です。地とはアダムの堕落によって呪われた地のことです。この約束のお陰でパウロはローマ8章を書くことができました。
神様が準備した救いは、その民のためだけではありませんし、すべての国民のものでもありません。被造界すべてのための救いです。全人類、そして宇宙全体を回復させるための神様の壮大なご計画です。
アブラハムは、ハランで手に入れた人たちと一緒に旅に出ました。お金で買った奴隷のことではありません。改心者のことです。約束の地にアブラハムが向かうときに、周りの人たちに証をしています。常に祭司として働いていました。イエスの大宣教命令の前ぶれです。約束が果たされる最初の示唆です。神様が準備してくださった宴会にアブラハムが向かう間も人々を呼び集めています。人が一人でいるのは良くありません。だからアブラハムは妻サラと共に信仰の旅を続けました。しかしサラは子どもを産むことができませんでした。神様は別の女性をアブラハムのために選ぶべきでした、と言えるかもしれません。しかし神様にそのように言ったら、神様は「わたしがサラを選んだ理由はそのうちわかる」と答えるでしょう。神様は間違いを犯したのではなく、何かを教えるためにあえて彼女を選ばれました。ローマ4章を朗読しましたが、アブラハムを呼び出したのは、神が「無から有を造り出し、死人にいのちを与える方」であることを示すためです。子を産めない女を多くの子の母とすることは神にとって難しいことではありません。これは私たちが肉の力に頼るのではなく、神様に信頼を置くことを教えるためのリマインダーなのです。
神様は地のちりで人を形づくり、御霊がいのちを与えました。だから私たちは教会として信仰を告白する必要があるのです。御霊のことを、いのちの与え主と呼ぶのです。御霊は唯一のいのちの与え主である。アブラハムは上っていきます。ユーフラテス川を渡って上り続けました。上に上るのは神に近づくという意味があるからです。新しいアダムが現れるまで上り続けます。
ヘブル11章、12章によると、私たちの状態はアブラハムの時よりもずっと恵まれています。なぜなら、私たちは毎週日曜日の朝、主の日の朝に神の聖なる山に上ることができるからです。私たちは今そこにいます。私たちは低い地に立っているわけではありません。聖なる山の頂上にいます。頂上には主の食卓があります。主イエス・キリストご自身が私たちを招き、主の食卓に連なることができるのです。これは主のからだです。これは主の血です。このように私たちはキリストの尊いいのちを受けるのです。そして私たちがそれに携わることはとても大切です。なぜなら御霊が唯一のいのちの与え主だからです。すべての人は死にます。死は私たちが直面しなければならない現実です。私たちは、何をしようとしても必ず死ぬのです。死ぬか死なないかという問題はありません。色々な方法で私たちはいのちを失います。大事なことは、死んだ後に私たちは上に上るということです。
新しい創造に関わりたいのなら、死よりも強いいのちを受けたいのなら、いのちは死を支配しています。死に支配されていません。いのちを受けたいなら主の招きを受けましょう。
私たちはバプテスマを受けて、みんな洗礼を受けています。まだ洗礼を受けていない人がいたら、今すぐに洗礼を受けましょう。私たちはユーフラテス川を渡り、紅海を渡りました。私たちは神の国の国民です。
神は私たちの父です。キリストは私たちの兄です。御霊はいのちを与えるものです。しかし私たちはアブラハムと同じような状態に生きています。つまり「すでに、しかし未だ(Already, not yet)」という状態に生きています。だからこそ、私たちは最低でも週に一回神の山に上って集まることが大切です。私たちの主の復活した日、主が私たちのために備えている日です。この食卓は私たちを歴史の終わりのために備えていてくださいます。今ここで未来はすでに成就されています。私たちは日曜日に主の食卓に集まるときに、すでに栄光に満ちた未来に参加しています。
私たちはアブラハムの子なのでアブラハムの食卓に着き、アブラハムの子孫たちを待ちます。
しかし、私たちも出ていく必要があることを忘れないでください。あと三十分ほどで、私たちはこの神の山から再び日常へと下っていきます。神が私たちを送り出すのです。そこには嫌な上司がいたり、泣き止まない子がいたりと、様々な現実があります。
私たちが日常に戻るのは、そこで出会う人々に「神の宴会への招待状」を渡すためです。
だから神様の祝福と約束を携えて出て行きましょう。そして一週間後に戻ってくる時に、多くの人々を連れて来て下さい。
父、子、聖霊の名によって、アーメン。
コメント