「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」出エジプト記17:1~7
- 3月8日
- 読了時間: 12分
更新日:6月9日
説教者:ギャリー・ヴァンダーヴィーン牧師(カナダ・CREC改革福音教会団フス地区会副監督牧師)
出エジプト記17:1~7
イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。
民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。
民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」
そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」
主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。
それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。
こんにちは。私はカナダのバンクーバーにあるCRECのキリスト契約教会の牧師、ゲリー・ヴァンダービーンです。
日本とカナダは大きな海で隔てられていますが、私たちは一つの体として御霊によって一つの交わりを持つことができています。
私を兄弟として家族の一員として迎え入れてくださって感謝します。前にも言ったと思いますが、私の教会も皆さんのことを思って愛しています。
ラルフ牧師とベン牧師のこともすごく喜んでいます。
私たちは皆さんをいつも祈りで覚えていて、御父が皆さんに必要なものをすべて与えてくださることを祈っています。
今日のみことばの取り次ぎが皆さんの上に恵みとなりますように。
祈りましょう。
すべての万物の主よ、どうか霊によってあなたのみことばを私たちに教えてください。あなたの声を聞くことによって、私たちに信仰を与えてください。私たちが喜びと感謝をもって、主を信じてついて行くことができるようにしてください。
恵み深い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
今日の箇所は先ほど朗読した出エジプト記17章です。
ここは水について話している箇所で、水がないことによって何が起きたのかを話しています。この状況はサバイバルではなくて契約の問題でした。
「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」(出エ17:7)
これが神様に取り扱われている問題です。これはすべての世代に投げかけられている質問です。日本では、神に従うことは安全な道ではなく、日本の国が目指している夢でもありません。とても難しい道、茨の道です。
イスラエルは長く荒野を旅してきました。エジプトから救い出されて、砂漠を歩き紅海を渡りました。彼らの後ろではすべての敵が海に飲み込まれ、イスラエルは紅海のこちら側で勝利の歌を歌いました。そして荒野に入り、飢えを経験しましたが、主は彼らに食べ物を与えてくださいました。彼らは苦い水も経験しましたが、神様はその水を甘くしてくださいました。
すべての困難の時に神様は確かに彼らを救い出してくださったのです。主が常にそばにいてくださったので、神の力強さを彼らは見ました。主が必要なものを満たしてくださるということを、彼らは目の当たりにしました。
ところが、出エジプト記17章のレフィディムのストーリーにたどり着きます。私たちはここで非常に悲しいパターンを見ることになります。レフィディムで彼らは再び、生きていくのに必要な水がないという状況に直面します。荒野がイスラエルの信仰の弱さをあらわにしたのです。
⚫️イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。(17:1)
彼らは神の命令に従ってこのレフィディムまで来たことがわかります。だから偶然何か思いがけないことが起きたということではありません。レフィディムにいることは間違いではありません。契約の神がこの場所にイスラエルを導いたのです。ここで起きていることが神の御心の外にあるという状況ではなく、神があえてイスラエルをこの場所に導いたのです。
私たちも受け入れ難い状況を経験をしたことがあると思います。
私たちは、もし自分たちが主に従うのなら、目にみえる祝福が与えられるはずだと勘違いしてしまいます。
イスラエルはものすごい大金を求めているわけではありませんでしたが、水がないという状況は考えていませんでした。イスラエルの信仰が彼らを水がないという問題に直面させて、従うことや従順であることが彼らを荒野に導きました。
そこで彼らは誘惑を受けることになります。何を間違えたのだろうか、自分たちの信仰が足りなかったのか、神様が何か間違えたのか、神様は自分たちを愛していないのではないか、自分たちを気にかけていないのではないか、と。
出エジプト記17章でイスラエルは神に祈りをささげて助けを求めるのではなく、神が自分たちを裏切ったのではないかと叫びました。
彼らがどのように神を告発するのかを見てほしいです。
⚫️民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。(17:2)
民はモーセと争ったと書いてあります。ここはかなり法的な要素があるような言葉遣いになっています。神様に直接「水がない」と訴えるのではなく、モーセに「水をよこせ」と言っているのです。
彼らは、あたかもモーセがこの状況に対して責任があるかのように責めています。モーセはそれをすぐに見ぬいて、「なぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言います。彼らは神への怒りを隠して、神に油注がれたモーセに直接ぶつけることを通して神に怒っていました。
これを皆さんは覚える必要があります。人生について嘆くとき、それは単に苦情を言っているのではなく、神に文句を言っていることになります。神を試みるということは、神から助けを求めるのではなく、神が私を愛しているなら証拠を見せろと言っているのです。私たちの法廷に神様を呼び出して、イスラエルに忠実であることを証明しなさい、と言っているようなものです。私たちの時間軸に従って神様を呼び出しているようなものです。そして私たちの要求が満たされるような形で神様を告発していることになります。この渇きを通して「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」というイスラエルの不信仰が浮き彫りにされます。打ち砕かれた心で神に助けを求めている話ではありません。かたくなな心が神を試している状況です。「神のやり方はこういう形でないといけないのではないか」と、私たちの方から定義してしまうような姿勢です。「神が私たちとともにいるならこんな状況になるはずがない」と言っているようなものです。
みことばにおいてこのような態度はよく見られます。教会の中でもよく見られます。私たちが自分たちの心をよく見る時に、この態度があることに気づくはずです。私たちが苦しむとき、これは神様が私とともにおられない証拠だと捉えていないでしょうか。
しかし、荒野のストーリーはイスラエルの渇きだけを見せているわけではありません。神が民と契約的に住まわれることがどういうことなのかを教えてくださっています。
⚫️そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」(17:4)
モーセは、民の怒りと聖なる神の間に立って叫びます。彼は非常に難しい立場に置かれています。彼は民の怒りと嘆きを抱えて、彼らの告発をそのまま神に持っていきます。
⚫️主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。(17:5)
神は非常に怒って民をすべて殺しました。…のではありませんでした。主は恵みと平和の中でモーセに答えてくださいました。
神様はモーセに杖を持って行くように命じます。その杖とは、エジプトの神々を滅ぼした杖、紅海を二つに分けた杖、主のさばきと怒りをすべて表す杖でした。
⚫️さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。(17:6a)
神様は私たちとともにおられるのか、と民は聞きます。それに対して神様は何か議論をしたわけではなく、わたしはここにいます、と答えてくださいました。神様は問題の真っ只中に降りてきてくださいました。
⚫️あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。(17:6b)
神様はご自身がその岩がであることを示してくださいました。
モーセはその岩を打たなければなりません。エジプトの神々をさばいた杖がその岩を打つのです。モーセが岩を打った時、そこから水が流れ出ました。民はそこから水を飲んだのです。打たれた岩からいのちの水が流れました。岩が打たれることによって民が満たされました。さばきの道具がいのちを与える道具になったのです。
ホレブで、エジプトと同じ権威が用いられてさばきが行われました。民が生かされるために、そのさばきが行われているのです。神様がどのようにご自分の民をお救いになるのか、その啓示がここにあります。これが救いのパターンです。ゴルゴタの丘で主が打たれた時と同じパターンがここにあります。
パウロはこの岩はキリストであると教えています。
【第一コリント10:4】みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
主が打たれるために来てくださるということを教えています。彼からいのちの水が注ぎ出されるということを話しています。
⚫️それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。(17:7)
この場所につけられた名前(マサ、メリバ)は、決して良いストーリーであったから付けられたわけではありません。試す、争うという意味の名前です。渇きが問題ではなく、不信仰が問題でした。神がその民を満たされたのは、民の告発が立派だったからではないのです。
この出来事を忘れず、思い出させるためにこの地名がつきました。彼らの地図に傷跡が残るような、警告としての地名です。
【詩篇95:7b~9】今日 もし御声を聞くなら あなたがたの心を頑なにしてはならない。メリバでのように 荒野のマサでの日のように。あなたがたの先祖は そこでわたしを試み わたしを試した。わたしのわざを見ていたのに。
聖書は、この出来事をただの歴史として覚えるのではなく、警告として受け取るように教えています。今日、今日、もし御声を聞くなら、今日、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。詩篇での誘惑が今日も起こると言っています。今日の話をしています。
今日、私たちは神の御名を讃美しています。
今日、私たちは自分の罪を告白しています。
しかし、心をかたくなにする可能性があります。今日、救い主の声を聞くなら心をかたくなにしないでください。
パウロもこのことに触れています。
【ローマ5:1、3~5】こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。…苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
神との平和は、状況が良い中で生まれるものではありません。慰められる状況というより、義認によって、私たちの心に神の愛が注がれることによって、平和が与えられるのです。
私たちは、時に非常に難しい状況に陥りますが、それは神様がいない状況ではありません。神様がおられる中でも、私たちはその苦難と向き合わなければならないということです。御前においては、苦難の中で私たちは練られて忍耐と品性を生み出すと言われています。
神がともにおられるということは、困難がないということではありません。神がそばにいることは、十字架を通して与えられた愛がそこに確実にあるという点において明らかにされます。荒野のストーリーは神の愛が矛盾しているストーリーではなく、深いところまで愛が示されているストーリーなのです。
出エジプト記17章は私たちが困難に遭った時に、神様の臨在をどう感じるかが問われています。平穏な生活をしている時だけ、神様の臨在を感じるものなのでしょうか。それか神様の臨在は契約によるものなのでしょうか。
神様の忠実さは、そんなに弱いものなのでしょうか。
最初から、神は私たちとともにおられるのか、という問いについて話していますが、先進国のような楽な人生を送ることが神様の示している道なのでしょうか。夢が実現されない時、すべての快楽がなくなる時、私たちは「神が離れた」と結論付けてしまいがちです。しかし、神様はご自分の民を荒野に突き放すのではなく、いかに神がご自分の民とともに住まわれるのかを示されます。主は岩の上に立ち、打たれるべきさばきを自ら受け、いのちを注がれます。そしてとてもゆっくりと、時には痛みを伴うやり方で教えてくださいます。信仰とは、単に人生が楽になるためのものではありません。ご自身の契約に対して忠実である神様に対する信頼です。
「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」という質問の確固たる答えはもうそこにあります。私たちの苦しみがなくなるのではなく、救い主が打たれるべきさばきを受けることにおいて、救いが与えられたのです。主を試すことと主を信じることの違いについて、私たちは繰り返し繰り返し教えられます。荒野は続き、苦難と苦しみは常にありますが、神の忠実はそれを超えます。神様は私たちに常に忠実です。キリストを通して、神は私たちに忠実であられます。出エジプト記17章のポイントはここです。キリストを食すること。そうすれば私たちは二度と渇くことはありません。
御父、御子、御霊の名によって、アーメン。
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