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「みことばと聖礼典を通して働く御霊」

  • 5月31日
  • 読了時間: 13分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


今日は聖霊降臨後第一主日、三位一体主日です。

三位一体というのはものすごく大きなテーマです。これに関してラルフ牧師も複数の本を書いています。

今日はその範囲を狭めて、三位一体の中で今の時代に一番誤解されている「御霊」を取り上げたいと思います。

じつはこの1~2週間で何人かの人に「御霊とはだれですか」「何をするお方ですか」と聞かれました。今日も複数の教会学校が御霊の話をするようなので、御霊の導きを感じています。

ある意味で、御霊のことがピンとこないというのは当然です。御父や御子については、自分の周りには父も子もたくさんいて、なんとなくわかる気がします。「あ、そういうことか」と。でも御霊には、明らかに相当するものがありません。まるで掴みどころがない風のようです。

しかしじつは、私たちに一番近いのが御霊なのです。風が吹いて私たちの環境を作るように、御霊はいます。そして息のように私たちの中で動いて、私たちにいのちを与えているのも御霊なのです。神様が何をするにしても、御霊が働きます。これは三位一体のどの位格に関してもそうなのです。(位格とは御父、御子、御霊のことです)

一つの位格が何をするときも、三つの位格が協力してそれぞれの役割を通して一緒に働いています。その意味で、三位一体はまさに調和と一致の姿なのです。


御霊が聖書で最初に出てくるところはどこでしょう。 創世記1章です。今日の朗読もここから始まりました。

創造の働きにおいて、三位一体はそれぞれの役割を果たして、世界を一緒に創造しているのです。簡単な見方は、「御父が語り、その語られたことばは御子であり、御霊はそのみことばを力を持って運び出す息」です。じつは三位一体の中で、御霊は御子よりも先に出て来ます。

【創世記1:1~2】はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

この何ら秩序のない状態の上を御霊が動いているのです。そして次の数日をかけて、御霊はこの世界に秩序と構造を与えます。そしてその形の中に息を吹き込んで、この世界を秩序といのちで満たします。秩序はいのちのために必要なものです。


アダムの創造の時も同じパターンが見られます。まず神様はかたち(からだ)を作って、その中に息を吹き込みます。その息は御霊です。だから御霊のことをいのちの主(ぬし)であっていのちを与えるお方であると言います。英語だと "The Lord, the Giver of Life" です。いのちがあれば、それは御霊が与えているものなのです。

現代の多くのクリスチャンが御霊について大きく誤解しているところは、無計画とか衝動的なものと連想してしまうことです。ペンテコステ派はこのように主張しますし、福音派もこれを信じていたりします。彼らにとって御霊によって導かれるということは、祈る時に書き出さないで祈ること、同じ言葉を繰り返さないで祈ること、行動する時には徹底した計画よりも信仰を持って未完成な計画に基づいて動くことだ、と思い込んでしまうことなどです。これらが御霊に委ねることだと思ってしまうのです。そして形式や構造は、御霊を縛るものとして見てしまいます。例えば、礼拝におけるリタジーや書き出されている祈りは、御霊がより少ない祈りや礼拝だと見えてしまうのです。でもその考えは間違っています。

御霊は何を通して働くかというと、おもに二つのものを通して働きます。それはみことばと聖礼典です。もちろんすべてを通して働かれますが、ここが中心なのです。



⚫️みことばを通して働く御霊

例えば、ダビデは詩編をよく考えて書きました。そしてその詩篇は何千年も繰り返し読まれています。ダビデは御霊に満たされた者としてこれらを書いているのです。ダビデは死ぬ前にこのように語っています。

【第二サムエル23:2】主の霊は私を通して語り、そのことばは私の舌の上にある。

これは聖書全体にも言えることです。書かれたみことばを通して語るのが御霊なのです。だから御霊の声を聞きたければ、まずは目を閉じないこと、夢を見ないこと、目を開けて聖書を読むことから始めることが大切です。それが第一歩です。私たちは、御霊が働くと混乱が生じるとか、計画性がなくなるという連想があるかもしれませんが、じつはそれは人間の霊が動く時なのです。人間の霊が人を支配していて、特にお酒で満たされている時にカオスになります。その反対が御霊です。お酒に振り回される人間の反対が、御霊に満たされている状態なのです。

パウロは、霊的な礼拝がどういうものかを教えています。

【第一コリント14:40】ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。

御霊の実を考えたときに、自分の思いもからだも制御することが欠かせません。だから情熱だけで働くものではないのです。

【第二テモテ1:7】神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。

この「慎み」ということばは自制心 (英語で self-control) と訳されることばです。これもまさに酒に酔っているのと反対の状態を表しています。

そしてもちろん、ガラテヤ5章の御霊の実のリストの中にも自制が入っています。御霊は私たちに、自分の情熱や衝動を制御する力を与えてくださるお方なのです。

しかし確かに御霊がいるからといって、私たちがすべてを計画してその通りになるようにコントロールする必要はありません。御霊に任せるという姿勢は場合によって常に必要です。それは、御霊がすべての事柄がみこころ通りになるように導いてくださるからです。でも言い換えれば、御霊こそが究極のプランナー、計画を立てるお方なのです。御霊が究極の計画者であるなら、私たちも御霊に満たされたときに、目的に向かって計画的に考えて動くはずなのです。

もう一つ、三位一体における御霊独特の役割として、一つにするという役割があります。特に、思いを一つにすることです。その一つの思いとは御父の思いです。御父の思いを知っている御霊が私たちのうちにいることで、私たちも御父の思いを知ることができ、それに従って生きることができるのです。もちろん、それを通して御父も私たちの心を知ることができます。

つまり御父の霊は聖霊です。御子の霊も御霊です。御霊は私たちに神の思いを教え、神との交わりのうちに神に従っていくことができるように働いてくださいます。すべての人が御父の思い通りに生きていると、愛があり平和があります。それが今日読んだ第二コリントの箇所にあります。

【第二コリント13:13】主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

ここは特別に三位一体の位格が一緒になっている箇所です。

愛の源が御父であり、それをつなげるもの、交わりを作るものが御霊なのです。

【第二コリント13:11】最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。

この箇所には、御霊が教会のうちに働くとき、教会はどういう姿になるかが書かれています。

【第二コリント13:12】聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。

これは計画的な口づけで、衝動的なものではありません。

御父と御子が愛によって結び合わされていることを私たちは知っていますが、何で結び合わされているかというと、それが御霊なのです。そして人と人を結び合わせるものも御霊なのです。

一致と平和が世界のどこかにあれば、御霊がそこにいて結び合わせているということです。このようにして神殿というものが出来上がっていきます。石と石がお互いにくっついて、要の石にくっついた状態がよく建てられた神殿なのです。その要の石はイエス・キリストです。

私たちはみんな、その神殿の中の生ける石です。そしてこの石が崩れないために何が必要かというと、モルタルです。モルタルは石と石の間にあって、それらを結びつける接着の働きをするものです。それが御霊です。

もし神殿から御霊が出て行ってしまったらどうなるでしょうか。

【マタイ24:2】すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

モルタルが消えて石が崩れ、イエスの預言が成就します。つまり、分裂が起き、戦争が起き、すべてが破壊されるのです。

御霊の働きが何を通して働くのかというと、先ほどの第二コリント13章から聖なる口づけであることがわかります。聖なるということばを聞いたら聖霊を連想してください。御霊が人と人をくっつけるときに、聖なる口づけを通してくっつけます。息が口から出るからです。それで特に口づけは御霊の働きの表れなのです。

もう一つ大きな誤解があります。御霊という霊的なものを考えたときに、からだと関係のない、からだから離れているものと思ってほしくありません。霊というのは、からだを超越したものでも、からだを使わないものでもありません。口づけも、ほかのからだを使った礼拝も、すべて霊的な礼拝なのです。何も映らないように目をつぶる必要はありません。(気が散るなら目を閉じた方がいいかもしれません)

御子はからだがあり、形があります。その御子を満たすのが御霊です。そしてそのからだを動かしてみこころを行うように力となるのが御霊なのです。

だから私たちが霊的なものとなるとき、御霊の炎が私たちの上に降ってきます。それによって、私たちのからだが燃やされて、生きたそなえ物となります。からだが神への生きたそなえ物となるとき、御霊はからだとともに働き、からだを通して、からだのうちから働くのです。


⚫️聖礼典を通して働く御霊

先ほど、御霊の主な手段はみことばと聖礼典だと言いました。聖礼典を見てみると、必ず物質的な要素があります。聖礼典(Sacrament) もそうですし、聖礼典のようなもの (Sacramental) にもその要素があります。例えば御霊はバプテスマの水を通して私たちをキリストと一つにし、結び合わせます。同じように按手礼のときにも、御霊は置かれた手を通して働きます。油注がれるときも、油を通して働きます。聖餐式においても、私たちはパンとぶどう酒を通してキリストのからだとして頭 (かしら) に結びつけられるのです。そこで私たちはキリストにおいて新しいいのちが与えられます。

この同じパターンは、結婚式にもあります。御霊がこの男と女を、頭とからだとしてくっつけます。それは一つの肉となる夫婦の営みを通してです。またその肉が一つとなることによって、御霊は新しい命を創造します。ですから御霊はからだから遠ざかるものではなく、からだは霊が宿るものだと思ってください。私たちのからだは御霊の神殿です。

旧約時代、神様が天幕を満たす時も、神殿を満たす時も、神殿に住まいを置いた時も、そこは栄光の雲に満ちたものとなりました。それは新約時代でも変わりません。先週のペンテコステの日に、御霊が家に降りました。その家が風でいっぱいになりました。でも、まことの霊の家、神殿というのはキリストのからだです。それで私たちは霊の家として築き上げられます。

【第一ペテロ2:5】あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。


最後に、洗礼のところを見てみましょう。

【マタイ28:19】ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、…

なぜ洗礼を三位一体の名において行うのでしょうか。それは、私たちの洗礼が、イエス・キリストの洗礼と同じようなものとなるためです。イエスの洗礼は、三位一体が現れる洗礼でした。

【マタイ3:16】イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ。天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

ここで三位一体が出てきます。水から上がってくるのは御子イエス・キリスト、天から鳩のように降りてくるのが御霊、そして声を発して御子に対する愛を語っているのが御父です。

このように三位一体の関係性が一つの絵となっています。愛するお方が御父、愛されるお方が御子、そして愛の賜物、愛そのものであるお方が聖霊なのです。このように神は愛なのです。アウグスティヌスも他の人たちも、教会史の中でこのように三位一体の愛を説明しているのです。


ここで、もう一つよくある誤解を避けたいと思います。「御霊は愛です」と言とき、それは御霊が人格性のない力や、あるいは感情だという意味ではありません。御霊は、あくまでも完全なる人格 (厳密に言うと位格ですが)、人格のある独立した意志と感情のあるお方です。意志があるから、ヨハネ16章にあるように、御子と同じように御霊も御父に従って、ご自分の意志を御父のみこころに従わせています。

感情についても、イザヤ書にこのように書いてあります。

【イザヤ63:10】しかし彼らは逆らって、主の聖なる御霊を悲しませたので、主は彼らの敵となり、自ら彼らと戦われた。

荒野のイスラエルが御霊を悲しませたと書いてあります。

また、御霊は特に人を送り出すとき、命令を下します。

【使徒の働き13:2】彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。

聖霊は「わたし」と言ってことばを語るのです。

三位一体を考えるときに、人格のある御父と御子が、人格のない御霊という力でくっつけられていると思わないでください。聖霊は完全な人格を持つお方です。

御霊はいのちを与える水であり、人を、そして世界をきよめる炎でもあります。私たちの罪を焼き尽くし、私たちを一つの栄光に満ちたからだに結び合わせる炎なのです。御霊の働きは、私たちの教会が常に必要としているものです。特に今、必要だと思います。私たちには聖化のための聖火が必要です。私たちをきよめる、聖なる火が必要です。私たちの罪を燃やしたときに初めて、私たちはキリストにあって一つとなることができるのです。

皆さんの洗礼を考えたとき、御父・御子・御霊はどこにいたでしょうか。それは、自分自身のうちにいました。洗礼を通してキリストと一つになるのです。

皆さんは聖なるもの、聖徒となりたいですか。 「はい」と答える前に少し考えたほうがいいです。なぜなら、私たちには主の御名がかかっているからです。主の祈りを祈るたびに「御名が聖とされますように」と祈っています。それは「御名を掲げている私たちをきよめてください」という祈りも含まれています。

しかし、そう祈ってしまうと、御霊が来てあなたの一番好きな罪を燃やします。あなたがこれまで大事にしてきた罪、御霊から隠して守ってきた罪が燃やされ、あなたは自分の偶像を失うことになります。本当にそうしてほしいのか、という問いです。これはとても痛いことです。


でも御霊が私たちの頭の上に注がれた時、もし髭があれば、その髭を流れ落ちるほどの豊かな油が与えられます(詩篇133:2)。その時、御霊は悔い改めと赦し合いをもたらします。赦しはまた和解をもたらします。そして和解があると、調和と一致と平和の香りが放たれて、御霊に満たされた教会となります。

数分後に、私たちは「聖霊よ、来てください」と祈ります。ぜひ聖霊が私たちの上に降ってくださるように心から祈りましょう。

父と子と聖霊の御名によって。

アーメン。



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