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「家庭における権威」家庭に関する主題説教シリーズ02

  • 7 日前
  • 読了時間: 14分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


今日は、先週から始まった家庭シリーズの続きです。先週は、神様は家庭をデザインしていることについて話しました。創造の時から、神様は家庭というものをデザインしていました。

今日のトピックは、私たちが常に間違えて捉えがちなこと、「家庭における権威」について話します。


まず、家庭における三つのパターンを説明します。

一つ目のパターンは、男性が「自分は妻の頭(かしら)だ」と主張して、自分が気になるところは全部一方的に自分勝手に決めてしまうことです。彼は、自分が頭だからすべてを決断する権利があると考え、自分が決断したいところは自分で決断し、決断したくないところは妻に任せます。そして妻には「キリストに従うように黙って夫に静かに従いなさい」と言います。これは決してふさわしい状態だとだれも感じないと思います。しかし同時に、なぜこれが聖書的ではないのかを言語化して説明するのは、思っているよりも難しいかもしれません。

二つ目のパターンは、これがひっくり返った状態です。つまり、男性の方が柔和で受け身的です。女性の方にエネルギーがあって、家庭内の決断はすべて妻が思うようにします。その結果、妻は自分の夫を見下してしまうのです。自分よりも弱い夫は尊敬しづらいものです。そして、夫がリーダーシップを取ってくれないということで、結局夫を恨んでしまいます。夫の方も、彼女から逃げないと自分のことを男だと感じることすらできません。これは言うまでもなく聖書に反したパターンですし、神様が創造の時から作った自然な秩序にも反しています。

三つ目のパターンは、半々、完全な平等です。権威がどうしても悪用されて、扱うのが難しすぎてそこから罪が出てくるのであれば、権威自体をなくして、家庭の中に権威を置かないというパターンです。実際に、現在では男性と女性が平等を目指して一緒に暮らすことがよく目に付きます。どちらも、自分も50%、相手も50%と考え、相手に利用されないように、自分が損しないように頑張って押し返すのです。でも、それだと結局どちらも「自分の方が負担が多い」「自分の方がもっと譲っている」と思ってしまうことが多く、綱引き状態になります。一致がない状態です。なぜなら自分の利益を求めることを通してバランスを取ろうとするからです。その姿を見ていると、そもそもどうして結婚したのだろうと思ってしまいます。

しかし、聖書的な状態は、明らかにこれらのどれでもありません。では、聖書的な関係はどういうものなのかというと、キーワードは「幾重にも重なる逆説」です。今日からそのことに関して話します。

第一ペテロ2章を読みます。前後関係がわかるように、13節から始めます。

【第一ペテロ2:13~15】人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。

人が立てた権威に従うべきであること、ここでは特に政府・国家の話から始まりますが、私たちが国家の権威に従うのは神のみこころなのです。

次にペテロはしもべたちに話しかけます。

【第一ペテロ2:18】しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。

社会全体を見ていくということです。

なぜそうすべきなのかという説明が21節から始まります。

【第一ペテロ2:21】このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。

イエスの生き方、死に方、それが私たちの模範なのです。だから私たちはこのように従うのだ、という流れです。

そして3章にたどり着くと、このように書いてあります。

【第二ペテロ3:1~2】同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。

同じように、というのはキリストが従ったのと同じように、という意味です。

しもべたちに、「意地悪な主人にも従いなさい」というところと、妻たちに「自分の夫に従いなさい。たとえみことばに従わない夫であっても、」というところが並行しています。

キリストの生き方、苦しみ方、従い方は女性にとっても模範なのです。

【第二ペテロ2:3~6】あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。

かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。

サラがアブラハムを主と呼びましたが、この「主」ということばは旧約聖書では「アドナイ」です。新約聖書では「主よ」は「キリエ」、「主」というのは「クリオス」です。これはとても強い表現です。神のことを呼ぶ時と同じことばで、君主を呼ぶ時も同じことばです。

そして、女性が自分を飾るのは、心の中の隠れた人、つまり神にしか見えないものです。神様はその柔和で穏やかな霊を見て尊いものとして喜んでくださいます。これが原則です。

しかし原則を聞いても、みんなそれぞれの思い込みで実現しようとすることが多いと思います。それがどういう形なのか模範があれば助かります。例えばフィギュアスケートに興味があっても、それを見たことがない人が、絵や写真のない本を読んだだけでやろうとしても絶対にうまくいかないと思います。色々な勘違いがあるはずです。しかし感謝なことに、聖書はこのような女性の模範を与えてくれています。聖書の中にはストーリーがたくさんあるし、人物もたくさんいます。特にアブラハムとサラの関係は模範的な関係として与えられています。

サラが従う妻の模範なので、少し時間をかけて、アブラハムとの関係を見ていきたいと思います。

まず、神様はアブラハムを彼の父の家から呼び出します。その時にサラはアブラハムと共にカナンに行くのです。つまりサラはアブラハムのミッションに加わっています。アブラハムとの契約は、サラとの契約でもあるのです。アブラハムのミッションの中心にあるのは、たくさんの子どもを産むことです。アブラハムという名前は「大いなる国民の父」という意味ですが、そうするとサラの役割は「多くの国民の母」となるはずです。それなのに、サラは不妊で子どもを産めませんでした。じつはその時代、権力者の妻が不妊でもまったく問題ありませんでした。そばめが息子を産めばいいのです。たくさん息子を産めば、その王朝は続きます。それなのに、アブラハムには妻が一人しかいませんでした。彼女が不妊のまま七十歳の時点で子どもはいませんでした。

しかしアブラハムは他の妻をめとってこの問題を解決しようとしませんでした。それでサラの方から自分から解決策を持ち出したのです。

サラはアブラハムに、自分の女奴隷ハガルを差し出し、彼女をそばめにして子どもを求めましょうと提案しました。アブラハムは彼女の言うことに聞き従って、そうしてしまいました。じつはこれはアブラハムの過ちでした。しかし同時に、サラは決して弱くて無口な女性ではありませんでした。アブラハムにただ奴隷として仕えていたわけでもありません。もし彼女がただの奴隷だったら、アブラハムはそばめたちを求めていたでしょう。奴隷を増やすのは、当時は喜ばしいことだったからです。

しかしサラはアブラハムに一方的に命じられて、「主よ、主よ、はい、はい」と従っているような女性ではありませんでした。彼女だけが彼の愛する妻であり、アブラハムはサラを愛し、彼女に仕えていていました。彼女を利用していないのです。そして同時にサラも考えて行動を起こして、アブラハムも彼女の提案に対して心が開いていたのです。

その一番良いたとえは、ハガルが妊娠した時です。ハガルは妊娠して、サラを見下すようになりました。その時サラがアブラハムにどう言ったかを見てみましょう。

【創世記16:5~6a】サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」アブラムはサライに言った。「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」

サラはアブラハムのことを恐れていませんでした。そして同時に従っている妻には見えないかもしれません。でももう少し見ていきますと、サラはアブラハムにこの決断の責任があることを認めています。つまり、サラが提案したものであっても、アブラハムが拒否せずに自分の権威によって決断したのだから、これを正す責任もアブラハムにあるということを、彼女が認めているのです。あなたは家長なのだからあなたの責任です、と言っています。

また、彼女はアブラハムが許可を与えるまでハガルを排除しませんでした。彼女は待って、アブラハムに訴え、彼の許可をもらってから行動を起こしたのです。

では、彼女は一体どこでアブラハムに主という言葉を使うのでしょうか。

それは創世記18章で自分が母親になると神様が約束されているのを聞いた時です。

【創世記18:12】サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに人も年寄りで。

彼女は他人の前で「私の主人」と言って敬意を払っているわけでも、二人の時に口に出して「主よ」と呼んでいるわけでもありません。そうではなくて、彼女の心の中で思う時に、自分の夫のことを「私の主」と考えているのです。これこそがペテロが言っていた「心の中の隠れた人の飾り」なのです。だれも聞いていないところでも、彼女は自分の夫を自分の主と本心で思っているのです。

サラは明らかに気が強い女性です。それなのにアブラハムも、サラの言いなりにはなりません。

【創世記21:10~11】それで、アブラハムに言った。「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」このことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。

実際、彼女が「ハガルとイシュマエルを追い出しなさい」と要求した時、アブラハムはすぐにはそうしませんでした。

【創世記21:11~12】神はアブラハムに仰られた。「その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。…」

神様が、サラの言うことを聞き入れなさい、と言うまでは、アブラハムはやらなかったのです。

興味深いことに、アブラハムが命令をたくさん出している姿は聖書にありません。アブラハムが「これをしてくれ」と頼んだのは、エジプトやゲラルの領土に行った時に、身を守るために自分の妹だと言ってくれとサラに頼んだ時と、三人の人が尋ねてきた時の2回だけです。その三人の人を接待するために、アブラハムはサラにパンを作るように頼みました(創世記18:6)。でもその時にアブラハムも走り回って子牛を取りに行ったりしていました。アブラハムは亭主関白でもなければ、尻に敷かれている夫でもありませんでした。サラがアブラハムに従う時も、アブラハムが出したたくさんの命令に黙って従うという形ではありませんでした。健全な結婚は、そのような命令が飛び交うような関係ではないのです。(これに関してはまた来週お話しします。)

それよりも、サラは人生を通してアブラハムについて行き、ハランを共に出て行き、カナンをさまよってアブラハムと共に主である神に仕えました。彼女はアブラハムの妻であり、友であり、助言者であり、彼の子どもの母親でした。彼のボスでもなければ、彼の奴隷でもありません。サラはアブラハムを恐れていないし、アブラハムもサラを恐れていません。


もう一つ、アブラハムの人生の中で一番辛い、難しい決断を見てみましょう。

【創世記22:2~3】神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。

これがアブラハムの人生の中で一番辛い決断でした。この時に彼はサラに相談しませんでした。彼女の助言や許可なく決断して出発したのです。だからこれは「アブラハムの信仰」と言われます。


神様はこのように、アブラハムとサラの関係性を、一つの健全で敬虔な夫婦の模範として私たちに与えています。この二人は決して完璧ではありませんし、人間ですから過ちもあります。彼らの過ちを知恵と区別する必要はありますが、同時にサラは従う女性の模範として与えられているので、私たちは彼らの真似をするべきなのです。ぜひ皆さん、夫婦で創世記を読み直して、話し合いながら一緒に考えてみてください。

【第一ペテロ3:6】たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。

ペテロは「女性たちはサラの娘となれるように頑張りましょう。なぜなら従うことは女性の役割だからです」と書いていません。

サラの娘と書いてないし、文脈からわかるように「あなたがた」とは女性たちだけを指しているのではなく、この手紙を読んでいるみんなのことだからです。つまり男性も女性もみんなサラの子になるべきです。サラの子とはだれでしょうか。イサクです。私たちはみんな契約の子、イサクのようにならなければなりません。つまり、キリストの飾りを身につけること、へりくだった栄光を身につけることです。お金がかかる洋服やジュエリーではなく、男性も女性も、そのようなものを追い求めるのではなく、どんなことも恐れないで善を行うことが大切なのです。

つまり、従うことは女性の役割に限られていません。文脈を見てみると、最初は「すべての人が王に従う」という話から始まりました。男性も含めてです。「しもべたち」と言った時も、男性も含まれます。そしてじつは次の7節を見てみますと、「同じように、夫たちよ」という言葉から始まります。つまり、夫たちも同じように、このへりくだったキリストの模範に従って、妻と暮らさなければならない。私たちはみんなサラのようにならなければならないということです。それはなぜなのかというと、これが神の御前で価値あるものだからです。ただ夫を喜ばせるためではなく、私たちは神を喜ばせるのです。妻がそのように夫に従う時、教会はそれを見て私たちも皆どのようにキリストに従うべきなのか、キリストがどのように御父に従ったのかを学ぶことができます。

そして私たちが王や主人や夫に従う時、私たちは神に従い、神を喜ばせるのです。

ペテロは「どんなことをも恐れないで」と言います。恐れている限り、臆病者である限り、善を行うことができません。どんなに善意を持っていても、恐れがあれば関係なくなってしまいます。だから私たちは神だけを恐れて生きていかなければなりません。そうすれば、私たちは神に従って、この世の中で善を行うことができます。そして是非、夫たち、妻たち、お互いにとってそれをやりやすくするために、仕え合ってください。お互いを恐れず、脅したり怖がらせたりしないで、一人ひとりがへりくだって、敬意を持って接するべきです。


来週は夫の役割と、夫婦関係の権威について続けて話しますが、妻の権威についての話もします。この説教はシリーズなので、全体的にバランスの良い視野をもっていたいと思います。


そもそも、私たちはなぜ従うのでしょうか。

【第一ペテロ2:21~25】このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。


私たちはこれから、パンをいただき、杯もいただきます。キリストが自ら十字架の上で私たちの罪をその身に負われたことを記念します。キリストの最もへりくだった姿、私たちはそれに加わります。私たちは聖餐式を受けるときに、自分を低くしたキリストとともにいます。そして毎週、私たちの牧者であり監督者であるキリストの元に戻って、またイエスに従うこと、イエスのように生きること、御父に従順であることを改めて約束します。



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