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「神がデザインされた家庭」家庭に関する主題説教シリーズ01

  • 6月7日
  • 読了時間: 12分

更新日:6月11日

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


三位一体節に入っています。私のストールが緑色になっていることからも、それがわかると思います。

緑というのは何を象徴する色だと思いますか。おそらく、皆さんは同じような答えを出すでしょう。つまり、いのちや成長など、生きていて育つもののことです。

実際、この三位一体節の間、私たちが読む聖書日課の焦点は、イエスの人生の中の出来事から、イエスの教えの方へと移っていきます。私たちはイエスがどのように生きたのかを学び、そこから私たちがどのように生きるべきかを学ぶことができます。この時期は、努めてイエスのように生き、イエスにあって成長することを求める時期、そこに集中する時期だと思ってください。

そうは言っても、今日は聖書日課からの説教ではありません。今日の朗読箇所は本当に大好きな箇所ばかりで、日課ではない箇所から説教するのは心苦しいのですが、私たちの成長を考えた時に、この時期に二つの説教シリーズを計画しました。

まずは家庭に関するシリーズです。なぜなら、家庭というものは神の似姿として生きるために欠かせないものであり、御国を築くためにも不可欠なものだからです。その後はテトスへの手紙を一緒に見ていきます。11月から開拓教会が始まるので、どちらの教会も健全な地域教会として機能することができるように、教会のあり方を一緒に考えたいと思っています。

今日の説教は、まず家庭に関する導入だと思ってください。神様は創造を通して、どのように家庭をデザインしたのか。そこを見てみたいと思います。来週からは、結婚における権威や、一体になること、そして親子関係などを見ていく予定です。また、独身として生きる意味についても考えたいと思います。


5月の教会キャンプでもお話ししたように、悪魔がこの世の中で一番憎み、一番攻撃するものは家族、家庭だと言っても間違いではないと思います。悪魔は常に、最初から、家庭を攻撃しています。悪魔の最初の攻撃は創世記3章のエデンの園でのアダムとエバに対するものでした。夫婦仲を壊し、不和を生み出す攻撃だったのです。もちろん様々な要素が含まれていましたが、その時から夫婦関係に呪いがかかり、それ以来ずっと、夫婦の間に不和という問題が現れています。

創世記4章を見てみると、次の攻撃は兄弟関係です。カインは自分の弟を憎んで殺してしまいます。それ以来、兄弟の争いや内戦は止みません。同じ4章を読み進めると、今度はレメクという人物が現れます。彼には二人の妻がいました。彼は妻たちに「私は人を殺した。それほど暴力的な人間なのだ。私を恐れよ。」と言い、妻たちが夫を恐れるように脅迫します。実際に、歴史はそれ以来、一夫多妻や不倫、そして家庭内の虐待や暴力に満ちています。

さらに創世記6章を見ると、悪霊たちが不品行を通して、人間が自分たちを礼拝するように教えています。聖書を見ると、それ以来、偶像礼拝には必ず不品行が伴っており、不品行を求める人は正しい神の礼拝から離れるというパターンが現れます。

現代の家庭を見ると、それとは少し形が変わった、変化した攻撃を見ることができます。21世紀になって、教会は世界の多くの国々で一夫多妻に対してはおおむね勝利を得ています。だから今度は悪魔は、すぐに離婚をすることや、前の関係が解消された後で次々と続く形で人と付き合ったり結婚したりする「シリアル・モノガミー(serial monogamy)」を社会の中で普通になるよう押し進めています。神様が定めた「生涯一人」というものが、「一度に一人づつ」という考え方に変わってきているのです。

また、教会は「結婚関係は愛の関係である」と世界に教えてきました。その結果、悪魔は愛そのものを攻撃し、その概念を変えようとしています。もはや愛は「自己犠牲」ではなく「自己満足」や「自己実現」を求めることになってしまいました。個人主義が進み、二人の個人がお互いを愛していると主張すれば、その二人が結婚する権利があると思う時代になっています。男と女が一つの家庭を築くのと同じように、同性同士でも愛し合っていれば家庭を築くことができると考える人が増えています。

また教会は、独身の状態も祝福されており、実を結ぶことができる状態だ、と主張してきましたが、現代では独身がまるで標準のような考え方になり、結婚生活はそんなに楽しくないから結婚を遅らせて、独身生活を長引かせようと考える人もたくさんいます。

もはや家庭は、代々人が愛に満ちた中で生まれてくる場所ではなくなり、代々続くものでもなくなっています。子ども自体が選択肢とされ、子どもが与えられてもいらなければ生まれる前に捨てればいいという価値観にさえなっています。

こうした家庭に対する現在の攻撃の根底にあるものは、無神論の進化論です。つまり、私たちは猿から進化して、その猿もアメーバから来て、そのアメーバは結局、星の屑から偶然できた意味のない存在だという考えです。ルールや基準がないのであれば、社会の仕組みは権力者が自分たちの利益のために作り出したルールに過ぎず、善悪の問題ではないということになります。

その結果、人類は自由になったつもりでさまよっています。それで現代の家庭はどんどん実を結ばないものになり、絆が弱っていくものになっています。


しかし、良い知らせがあります。神様が私たちに基準を与えておられるということです。だから私たちはさまよう必要はありません。家庭というのは、決して自然が偶然に生み出したものでも、社会が構築したものでもありません。家庭は神が人間を創造した時から始まっているのです,。

【創世記1:27】神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

神様はご自身の似姿として、人間を男と女に造られました。そしてそれは家庭でもあります。


【創世記2:18】また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」

最初にアダムが創造された時、アダムは一人でした。なぜ彼が一人でいるのは良くなかったのでしょうか。何をするために助けが必要だったのでしょうか。ひとことで言えば、アダムが神の御姿として存在するために助けが必要だったということです。

三位一体である神を、アダム一人で表すことはできません。神は愛です。なぜなら、神様は父・子・聖霊という三位一体だからです。これに関しては、先週の三位一体主日の説教で一緒に考えました。父は愛するお方、子は愛されるお方、聖霊は父が子に与える愛そのものです。これはイエスの洗礼の時に見ることができる光景です。

しかし、アダムは一人ではこの愛である神を表すことができません。愛する相手、愛される相手が必要です。そこで神様は、助け手としてエバを与えられました。

【創世記2:21】神である主は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。

アダムは死人のような深い眠りに陥ります。このあと手術が始まるからです。アダムは一度脇が裂かれて、そこからあばらを引っ張り出されて血だらけになります。アダムの脇から血が流れます。

【創世記2:22~23】神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」

じつはこれはヘブル語の詩です。アダムはエバを見た時、人類初の一目惚れをしました。いや、その前に神様が世界を見て「良い」と宣言されているので、それが先かもしれませんが、人間同士ではこれが最初の一目惚れでした。アダムはすぐに恋に落ち、歌い出したのです。これでアダムは他者を愛し、他者に愛されることができるようになりました。そして二人の愛を通して実が結ばれ、世界が愛で満たされます。これが神様の求めている姿です。アダムはエバとともに、愛なる神の御姿として生きることができるのです。

これは人類がどのように始まったかという事実であると同時に、私たちが何者であり、どのように生きるべきかを示す、真実の物語でもあります。それが次の節で明らかになります。

【創世記2:24】それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

ここで急に物語から離れて、原則が語られています。このように神様が人間を造られたからこそ、結婚には基準があるのです。この歴史が私たちに基準を与えるのです。

イエスも離婚について質問された際、この箇所を引用して答えられました。【マタイ19:4~6】イエスは答えられた。あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から、『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」

イエスが言っておられるのは、神様は意図的にアダムとエバをこの形で創造されたということです。そこから私たちが知るべきことの一つは、結婚は生涯、相手が死ぬまで続くものであるということです。それは神の永遠の愛を表すためです。

また、そこには「一人の男と一人の女」がいるということも見えます。アダムに妻が何人もいたわけでも、男二人だったわけでもありません。さらに、二人が肉体において「一体となること」も必要です。例えば、いわゆる遠距離結婚のまま、肉体的な交わりがない状態というのは、本来ありえないことです。

それ以外にも色々な意味があると思います。自分の妻と他のものと一体になってはならないという意味も含まれます。

この一体となる関係を通して、神様ご自身が二人を結び合わせておられるのです。結婚とは聖なるものです。そこには深い意味があり、私たちは神様が定められた結婚に従って生きる必要があります。なぜなら、地上での結婚は影にすぎず、より偉大なるものを指し示す約束にすぎないからです。

人間の家族関係はすべて、神と永遠のものを指し示しています。父は御父を、母は教会を指しています。花婿はイエスを指していて、花嫁は一つの教会となった私たちを指しています。また私たち信者を個人として見た時、イエスは私たちのお兄さんであり、お互いは兄弟姉妹なのです。

だから私たちがある程度、家庭というものを経験していないと、そして機能している家庭を自分自身で経験するか、あるいはどこかで目にしなければ、なかなかこの神様と自分たちとの関係性を理解することが難しくなります。私たちが神様を理解し、自分と神様の関係を理解し、お互いの関係性をより深く理解するために、家庭というものが与えられているのです。そして、良い家庭となって、この世の光となりなさい、と神様は命じておられます。

家庭はすべての人にとって大切なものです。それは独身の人にとっても同じです。なぜなら、私たちは洗礼を通して、神の永遠の家庭に養子として入れられているからです。


具体的な点を見てみましょう。エバがアダムから出てきたことには意味があります。それは私たちの関係性に形を与える事実です。

【第一コリント11:3】しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

私たちはこのような契約関係の中に作られているのです,。

アダムの父は神様です。アダムが神から出てきたからです。エバはアダムから出てきたので、アダムとエバの間にもそのような関係があります。


【第一コリント11:7~9】男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。

また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。

男も女も別の栄光、別の権威を持っていることがわかります。これはまさに父・子・聖霊の関係と同じです。三位一体の位格はどれも等しく神であり、存在において平等です。しかし、子は父から出て、聖霊は父からも子からも出ます。お互いは権威において平等ではないし、それぞれの役割があるのです。

【第一コリント11:11~12】とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。

最初の女は男から出ましたが、その後の男はみんな女から生まれます。役割は違っても、相互関係なのです。単なる縦線ではなく、お互いの要素が強い、三位一体のような関係を表しています。夫と妻は、家庭内での役割は違っても、どちらも神の子であり、神の相続人として平等なのです。


さらに、エバがアダムの脇腹から出てきたことについて、マシュー・ヘンリーという人が、アウグスティヌスやその他の教父たちの教えに基づいて、このように教えています。「女はアダムの脇腹のあばら骨から作られた。彼を支配するために彼の頭から作られたのではなく、彼に踏みつけられるために彼の足から作られたのでもない。彼の脇から作られたのは、彼と等しいものとなるためであり、彼の腕の下で守られ、彼の心の近くで愛されるためである。」


では、イエスはこの創造で定められた結婚の基準に従って、どのように結婚の意味を成就されたのでしょうか。

エバにいのちが与えられた時、アダムは死んだように眠り、その脇腹からは血が流れていました。そこから、すべての生きる者の母となるエバが生まれました。

そこから数千年後、イスラエルの民が荒野でさまよい、水がなくて苦しんでいた時、神様はモーセにこう言われました。

【出エジプト17:6】「さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」この岩の上に立っておられる神をモーセが杖で打つと、岩にひびが入り、その傷から水が流れ出ました。

【第一コリント10:4b】その岩とはキリストです。

パウロの手紙によれば、この岩はキリストです。そこから霊の飲み物が与えられたのです。


さらに千何百年が経ち、この創造のパターンの意味が成就される光景が見えます。新しいアダムであるイエスが十字架にかかっておられます。そしてやりで突かれ、脇腹から水と血が流れました。これは、花嫁である教会に罪の赦しといのちを与えるために、霊の飲み物を与えるために流されたものです。こうして教会は、永遠に生きる者すべての母となりました。

創造を通しても、十字架を通しても、キリストは神様がどれほど私たちを愛してくださるのかを示し、私たちもどのように愛すべきかを示してくださいました。

これから私たちは、そのイエスの愛を記念し、感謝のいけにえをささげます。そして、イエスの脇腹から流れ出た霊の飲み物を一緒に飲みます。それは、私たちが神の家族の一員としてどのように生き、愛すべきかを学び、そのための力が与えられるためです。

父と子と聖霊の御名によって。アーメン。



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