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「臆病の罪」

  • 3月15日
  • 読了時間: 12分

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


今日は、ある罪とその反対にある善についてお話しします。その罪は人間関係において強い力を持っています。

前回このシリーズで話したのは陰口の罪についてでした。今回話すのは世界中によくある罪で、すべての人間社会において破壊的な力を持っているある罪についてです。特に日本の文化を考えた時に、日本特有の罪でもあると思思います。個人によって犯す傾向のある罪がちがうのと同じように、社会にも文化にもその傾向のちがいがあります。

日本の文化の中で特に多くの人が犯す傾向のある罪とは何でしょうか。例えば偶像礼拝。実際に偶像を礼拝しますし、象徴的な偶像礼拝も行います。象徴的な偶像礼拝とは、物質的なものに依存するあまり働きすぎてしまうことなどが挙げられます。

今日お話ししたいのは「臆病の罪」です。臆病の罪とは人を恐れる罪です。

皆さんが日本を考えるときに色々な連想があると思いますが、臆病とはそんなにひどい罪なのでしょうか。はい、聖書では本当に大きな罪なのです。ヨハネの黙示録21章に地獄に送られる人たちのリストがありますが、その中で一番最初に出てくるのが臆病です。

【黙示録21:8】しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、 人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。

現代の私たちは、臆病をあまり罪と思わず、ピンとこないかもしれませんが、ひと昔前に時代を戻すと、社会では許されないことでした。

でも現代は臆病をあまり罪とは思わず、それを許すどころか当たり前とする面があります。「どうして彼はあの時に訴えなかったのか」と思っても、「だってそんなことすれば、村八分にされるじゃないか」とか、「彼の評判はどうなるのか」などいろいろなことが頭に浮かびます。もしその人が勇気を出して訴えていたら、会社をクビになっていたかもしれないし、牢に入れられていたかもしれません。そう思うと、私たちはすぐに「だったらしょうがないね」と理解するのです。

なぜなら、私たちは静かで安定した心地いい生活を送りたいからです。それを失わないために妥協することが習慣になっています。

私たちは犠牲を払わずに、いい人でいたいと思っています。みんなに親切にすればみんなも親切にしてくれる。敵を作る必要がなく、犠牲やリスクを払わずに人生を送ることができる。それが私たちの理想なのです。

しかし、これが臆病者の正体です。敵を作らなければ何も守ることができません。自分が愛するものを守る決心があるなら、敵を作る覚悟も必要です。真理を語る決心があれば、それによって犠牲を払う覚悟も必要です。

イエス様に従っていくということは、十字架を負わなければならないということです。


しかし臆病者は御国をもたらすためには役に立ちません。なぜなら、いい人は世の中が許す範囲でしか善を行うことができないからです。他の人が受け入れないことを受け入れられないからです。つまり、自分の周りよりも善人でいることができないのです。そうなると、この世界を変える力も勇気も持てません。だから臆病者は信頼に値しません。危機や危険があった時、彼らは自分を守るために行動します。彼らは不忠実です。友のために立ち上がることもしないし、友が間違いを犯している時にもそれを指摘しません。このような臆病は罪であり、言い訳はできません。


ここで一つはっきりさせたいのは、恐怖を感じることは悪いことではないということです。心の中で恐怖を感じて怖がることは罪ではないのです。恐怖を感じないではいられない場合もあります。怖がることが正しい反応であるという場合もあります。

では罪はどこにあるのでしょうか。その恐怖によって自分が操られ、コントロールされることにあります。つまり恐怖に動かされて行動する時、必ず間違いを犯します。

勇気というのは「善を行うために犠牲を払う決心」です。キリストのために、キリストの真理のために苦しむ決心です。それを一言でいうなら、「人よりも、神を恐れること」です。

【マタイ10:28】からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

神様を恐れることが「自由」なのです。この神様を恐れることによって、世は何も怖くなくなります。恐怖から解放されるのです。

この勇気は欠かせないものです。勇気がないと何も善を行うことができません。心の中に善を行いたいという思いがあっても、結局肝心な時に行動に移すことができません。善を行うには勇気が必要なのです。

【ヨハネ9:21~22】彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。 すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。そのために彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言ったのである。

1世紀のエルサレムは善を行いやすい社会ではありませんでした。世の中が許す範囲でしか善を行わないのであれば、なかなか善を行うのが難しい社会でした。ユダヤ人のコミュニティでは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、正式に会堂(シナゴーグ)から追放すると決まっていました。それは建物に入れなくなるということだけではなく、ユダヤ人のコミュニティの中心から切り離され、社会から切り離されることを意味しました。会堂(シナゴーグ)は人々が集まって礼拝する場であり、祈る場であり、教育を受ける場であり、地域の集会所でもありました。そこに参加もできず、発言もできず、それだけでなく、すれ違っても挨拶されず、ビジネスにおいても同じ同胞として兄弟のようには扱われなくなります。これがどれほど大きな不利益であるか、当時の文脈を理解すればわかります。

息子は生まれた時から盲目でした。その人の両親は息子がイエスに癒やされたことで、パリサイ人たちに対して恐怖を感じていました。彼らはシナゴーグに呼び出されて尋問され、怯えていました。もし「イエスが息子を癒した」とその場で認めるならば、彼らは追放されるからです。それで彼らは、真理を語らず、逃げて敵を作らないことを決めました。その結果、自分たちの息子を守らず、息子とともに立つこともせず、イエスに感謝も表さず、イエスを裏切ってイエスとともに立つこともしなかったのです。彼らは臆病者でした。当時のユダヤの社会を変えることができず、無力でした。神よりも人を恐れたからです。


もし私たちが同じような状況になったらどうするでしょうか。

自分の臆病さは、日常の中で出てきます。例えば、公のところで同僚と一緒に食事をする前に、その場で祈ることができるでしょうか。自分が教会に行っていること、イエス・キリストを信じていること、進化論ではなく天地創造の神を信じていることを、人の前で認めることに気が引けますか。怖いですか。最後にだれかに福音を伝えたのはいつですか。教会に招いたのはいつですか。

また私たちは、自分の罪を認めることも恐れます。特に人前で認めることを恐れます。しかしヤコブはそれを命令します。

【ヤコブ5:16】ですから、 あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。

でも私たちはメンツを失うこと、摩擦や衝突を恐れます。そのせいで、自分の周りの人、特に配偶者に対して本当のことを言わない。相手が聞かなければならないことでも、それを言わないと相手の目が開かれないで聖化されないとわかっていることでも、黙ってしまうことはないでしょうか。

私たちは人の目を恐れ、批判されることや目立つことを恐れて、周囲に溶け込もうと頑張ります。ルールをすべて守って、周りの人たちを観察してその真似をします。そして人が聞きたいだろうと思うことを一生懸命言い、失敗を見られるのを恐れて、挑戦しなくなります。

罪を犯している兄弟に直接話すことを恐れ、恨んで陰口を叩いたりします。目の前で虐待が行われていても、黙って目を逸らします。意地悪な人や扱いにくい人には丁寧に礼儀正しく接する一方で、弱者には冷たく振る舞ったり威張ります。自分に関する真実、自分を鏡に映すことを恐れます。自分のたましいの奥に何があるのかを知りたくない。それで自分に本当のことを言う友だちはいらない。その代わりに、自分にへつらってくれる人、聞きたい言葉を言ってくれる人を求めます。私たちは人生の苦しみから逃れ、変化を恐れて、いつまでも自分の頭の中の偽りの中にいられることができれば安心できると思っています。このような臆病は、この人生における苦しみを次の世における苦しみよりも恐れていることになります。永遠の場所で何が起きるかということよりも、今ここで何が起きるかを心配します。神から切り離されることよりも、人から切り離されることの方を恐れます。

人の恐れは私たちを罪の奴隷にしてしまいます。


しかし、神を恐れることは私たちを自由にします。それで私たちは善を行うことができるようになるのです。

盲目だった息子は、両親とは違いました。彼は誰も否定できない真実を大胆に語りました。彼の言葉にはまったく恐怖を感じません。

【ヨハネ9:27】彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

息子は、ユダヤ人たちを相手にあまり礼儀正しく答えていません。そしてさらに息子はこのように答えます。

【ヨハネ9:30】その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。 盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」

相手は律法学者で、一番議論に強い専門家です。その人たちに彼は自分の知っている真実を語り、当然のことを言いました。このあと自分がどうなるかもわかっていました。

あなたも当然のことを言う勇気がありますか。

「神様は男と女をお造りになりました。その男と女が愛し合ってそこから子どもが生まれます。これが正しい社会の姿です。」と言う勇気はありますか。

「キリストはこの世の救い主で、この世の王である。」それをいつでもどこでも語ることができますか。


実際に、この盲目だった人は追放されました。

彼はこの世での居場所を失いましたが、イエス・キリストを得ました。

【ルカ9:23~26】イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。

イエスに従うためには勇気が必要です。イエスこそが勇敢な方であり、イエスが向かっている先は十字架だからです。イエスを信じるということは、自分の十字架を負ってゴルゴタに向かうということなのです。悪魔は私たちが恐怖で身動きが取れなくなることを望んでいます。私たちが十字架に向かうことができないようにするためです。臆病者こそ簡単に操ることができるのです。政治家たちはこのことをよくわかっています。

恐怖を感じている人は考えることをやめます。そして自分を守るために衝動的に行動します。

しかし神様がご自分で、あるいは御使いを通して何度も言った言葉は何ですか。イエスも弟子たちに繰り返し言われた言葉は何でしょうか。それは「恐れてはならない」です。聖書の中で百回以上出てくる有名な言葉です。

有名な場面は、例えばヨシュアが約束の地に入る時にも、「強くあれ、雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。(ヨシュア1:9)」と言われました。神様は恐れないでいい理由もちゃんと伝えてくださいます。「わたしがあなたとともにいる」からです。

【ルカ1:30】 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。

イエスが湖の上を歩いているのを弟子たちが見た時におびえて叫んでいましたが、イエスはこのように言いました。

【マタイ14:27】 しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。

イエスが私たちとともにいてくださるから、私たちは恐れる必要がないのです。

このことを人間の中で一番よくわかっていたのはおそらくダビデだと思います。

【詩篇23:4】たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから。

信仰は恐怖に勝ちます。

【第二テモテ1:7~8】神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

ここに対比があります。臆病の霊の反対は、キリストやパウロとともに福音のために苦しむことです。

私たちは福音の証人となることを恐れてはなりません。愛をもって真理を語ることを恐れてはなりません。人ではなく、神を恐れましょう。そうでないと、私たちにはこの日本を変える力はありません。御国をもたらす力はありません。


これからいただくパンとぶどう酒はイエス様の犠牲を表します。このパンはイエスのからだでぶどう酒はイエスの血です。イエスは私たちのために、勇敢にご自分のいのちをささげてくださいました。私たちがこれをいただく時にキリストと一つになります。

聖餐を受けながらも臆病者として生き続けることはとんでもない偽善です。私たちが聖餐にあずかる時、イエスとともに勇気をもって自分のいのちを神にささげることを誓っています。ですから、恐れずに、勇敢にキリストとともに歩み、キリストのために苦しみましょう。それは、神の善が私たちを通して行われるためです。



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