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「神を恐れ、神の命令を守れ」伝道者の書

  • 3月22日
  • 読了時間: 9分

更新日:6月9日

説教者:ラルフ・スミス牧師


【伝道者12:13】結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

これがソロモンが悟った結論である。 ここでソロモンは二つのことを言う。

一つは「神を恐れよ」

もう一つは「神の命令を守れ」

今日はこのことばについて一緒に考えたいと思う。


⚫️神を恐れよ

「神を恐れよ」という時、この神とはだれで、ソロモンは神のことをどのように考えているのだろうか。

ここでソロモンは「神」ということばについて特別な言い方をしている。

「神」ということばは聖書にたくさん出てくるし、ヘブル語で「エローヒーム」であることを知っている人も多いと思う。

エロヒームは旧約聖書で1700回以上出てくる。ここでもソロモンはエロヒームということばを使っているが、ここでは定冠詞がついていて、The God のようになっている。つまり、ザ・エロヒームである。エロヒームは旧約聖書で1500回以上出てくるが、この定冠詞のついた言い方は旧約聖書の中で193回しか出てこない。ソロモンはなぜこの言い方を使っているのだろうか。そしてそれはどういう意味なのだろうか。そのことを少し一緒に考えたいと思う。


その秘密の一つは12章の最初のところにある。

【伝道者12:1】あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。

The God、ザ・エロヒームは唯一の神で創造主である。

【伝道者12:14】神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。

正しいさばき主なる神は創造主である。そのことを話すときにソロモンが ザ・エロヒームということばを使っているのである。なぜなのか、と不思議に感じるかもしれないが、伝道者の書以外でこの ザ・エロヒームという表現をたくさん使っているのは歴代誌である。

(第一・第二歴代誌は一つの書物であるが、巻物として二つになっているのでこのように分けている。)

歴代誌はこの表現を103回使っている。旧約聖書全体でこの表現を使っているのが193回なので、半分以上が歴代誌で使われていることになる。


ソロモンは伝道者の中で32回使っている。創世記や詩篇よりもこの短い12章の書物の中でこれだけ使われているのである。

ソロモンはなぜ創造主であり、さばき主である神をこの表現を使って表しているのだろうか。

その質問に答えるためにソロモンの時代を思い出していただきたい。

イスラエル全体の王は三人しかいなかった。サウル、ダビデ、ソロモンである。この三人の王の時代に一つだった王国が、ソロモンの後で南と北の二つに分かれてしまった。

ソロモンの王国について、次のように書いてある。

【第一列王記4:21】ソロモンは、あの大河(ユーフラテス川)からペリシテ人の地、さらにエジプトの国境に至る、すべての王国を支配した。これらの王国は、ソロモンの一生の間、貢ぎ物を持って来て彼に仕えた。

ユーフラテス川からエジプトまでソロモンが支配していたので、王国というよりも帝国のようであった。周辺諸国や諸部族はソロモンに税金を払って彼の支配を認めていたので、自分たちの娘をソロモンに贈り、そのため彼には妻が七百人もいた。結婚によってイスラエルと条約を結ぶことができたのである。広い国土を持ち、国際的な時代の国際的な王がソロモンだった。


歴代誌はペルシャ帝国の時代である。バビロンに捕囚されたイスラエルがペルシャの王キュロスに救い出されたが、すべてのイスラエルがエルサレムに戻ったのではなく、ペルシャ帝国のあちこちにも住んでいて特別な証を持っていた。

つまり、創造主であり、さばき主である神様が、イスラエルだけでなく全世界を支配しておられるということを伝える時に使われているのが ザ・エローヒームだったのである。


⚫️神の命令を守れ

先ほど話していた「神を恐れよ」という言い方は、旧約聖書の中でよく出てくるが、それは恐怖ではなく、尊敬、信頼、敬う心、つまり親子関係のようなものだと考えてよいと思う。小さい子どもにとって、父親の存在は大きくて恐れを抱くものだが、それは愛に基づいた畏敬の念である。

では「神の命令を守れ」は具体的にどういうことなのだろうか。

それは毎日の生活において、神に対する恐れ、信頼、尊敬を表すことである。

旧約時代、ソロモンの時代には特にモーセの十戒があった。私たちも毎週十戒を告白しているし、これを守ることはクリスチャンとして神に対する恐れを表すことである。

伝道者の書が書かれたのは紀元前千年頃であるが、その後も啓示は続き、キリストの時代まで神様は預言者を通して私たちにみことばを与えてくださった。

イエス様はこう言われた。

【マタイ5:17】わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

つまり、モーセを通して私たちに与えられた啓示は、私たちの時代にも適用され、学ぶべき知恵があるということである。神様の命令を守って歩むということは、新しい契約の時代において、より深く大きな意味を持つようになった。

例えば、何人かが部屋にいるとする。夜にその部屋の電気をすべて消したら、人の姿は見えないが、人はそこに存在している。再び電気をつければ見えるようになる。同じように、イエス様が世の光として来られたことで、古い契約の時代のものが捨てられたのではなく、はっきりと見えるようになったのである。代々与えられてきた啓示は、イエス様によってより深い意味を持つようになった。

新しい契約が与えられた時、弟子たちは最初はピンときていなかった。ちょうど今日朗読したヨハネ11章のマリアとマルタの話にもあったように、イエス様が「わたしはよみがえりであり、いのちである」と言われた時、マルタは「あなたが世に来られる神の子キリストであると信じています」と答えたが、彼女はその意味を深くは分かっていなかった。,

イエス様が十字架で死なれた後、エマオへ向かう二人の弟子がいた(ルカ24章)。イエス様は彼らに近づかれたが、最初は彼らにはそれがイエス様だと分からなかった。悲しんでいる彼らに、イエス様は「預言者たちが書いたことをどうして信じないのか」と言われ、創世記から始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。それで目が開かれた彼らは、エルサレムに戻り「本当に主はよみがえった」と伝えた。

その時に、弟子たちはイエス様に教えられたいろいろなことの本当の意味を思い出して、新しい契約の戒めが何であるかが分かるようになったのである。

【ヨハネ13:34】わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

最初にそれを聞いた時に、弟子たちはイエス様がどれほど自分たちを愛しておられるか分かっていなかった。十字架の前だったからである。

十字架上でイエス様が弟子たちのために、私たちのためにいのちをささげて、死に打ち勝ってよみがえられた時に、「わたしがあなたがたを愛したように」ということばの本当の意味が分かるようになった。

【ピリピ2:3】何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

自分よりも大切なものと思うのはキリストの愛である。キリストは私たちの方がご自分よりも大切だと思って十字架上でご自身をささげ、私たちが受けるべきさばきを代わりに受けてくださったのである。

「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」というイエス様のことばは、イエス様のように自分を否定し、自分を犠牲にして他の人を祝福する愛を生きるということである。

【ヨハネの福音書15:17】あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

イエス様は繰り返し愛の命令をする。

ソロモンは恐れについて、イエス様は愛について話している。

これは互いの教えに反しているのではなく、その「正しい恐れ」の深い意味をイエス様がもっと教えてくださっているのである。

【第一ヨハネ4:7】愛する者たち、私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。

パウロとヨハネの違いは、パウロがクリスチャンになったばかりの人にクリスチャンは何を信じるべきかを気をつけて教えてくれているのに対し、ヨハネはクリスチャンになった人が成長してさらに深いことを理解できるように教えてくれている。

ヨハネはこの手紙の中で何度も「神は愛である」と教えている。これは三位位一体の神のことである。

神様は唯一の存在であるが、御父、御子、御霊という三つの位格(人格)がある。私たちは神の似姿として造られたので、神様も私たちに似た人格的な表現が使われることがある。神様の似姿として造られた私たちは神様を表している。神様は、永遠の昔から、世界を創造する前から、御父、御子、御霊の神様として互いに愛し合っておられた。自分を否定して相手を祝福し、相手を自分より大切にすることである。その関係こそが契約の本質なのである。その愛で私たちを愛してくださった。聖書以外の宗教にはこの愛はあり得ない。イスラム教の神は永遠に一人なので、話す相手も愛する相手も一緒に喜ぶ相手もいない。完全に一人である。イスラム教の神学書の中で神が愛だとは言わない。

三位一体の神様だけが私たちに愛を与えてくださった。私たちも神の似姿として創造されたので、互いに愛し合うべきなのである。自分よりも相手を大切だと思って祝福する心を持って、毎日の生活をすることに他ならない。

【第一ヨハネ4:12】いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

私たちの信仰は神の愛から始まる。だから神の愛に留まる。そして常に神の愛を求める。最初から最後まで、三位一体の神の愛が中心である。

私たちは毎週の聖餐においてそのことを記念する。イエス様が私たちを愛して、私たちの代わりに十字架で死んでくださって、よみがえった。そのイエス様の十字架の愛が私たちに与えられているので、イエス様に言われた通り、お互いに愛し合うのである。

このイエス様の愛の記念が毎週の礼拝の中心である。永遠の愛なる三位一体なる神様が私たちを愛し、ご自分のいのちをささげてくださった。私たちはそれを記念して、毎週、主イエス・キリストに従っていく約束をあらたにする。



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