「神の光の中を歩む」第一ヨハネ1:5~10、2:1~2
- 4月19日
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説教者:ラルフ・スミス牧師
第一ヨハネ1:5~10、2:1~2
私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。
ヨハネの福音書8:12
イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
⚫️私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。(1:5)
ヨハネは福音書1章で次のように言う。
【ヨハネ1:5】光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
ヨハネは神は光であると宣言する。神は光であり、そこには闇が一つもない。
第一ヨハネの手紙は、光と闇、真理と偽り、愛と憎しみといったものをはっきりと対比している。つまりこの手紙には「グレーゾーン」のような曖昧なところは何一つない。そのことを覚えてこのヨハネの手紙を一緒に学びたいと思う。
ヨハネはこの手紙の中で「今は終わりの時です。(第一ヨハネ2:18)」と言う。英語では「last hour」である。
第一ヨハネの手紙も他の新約聖書に書かれているすべての書物も、イエス様が十字架に行く前のオリーブ山の説教を元にしている。マタイ24~25章、マルコ14章、ルカの21章の三福音書にオリーブ山の説教について書いてある。ヨハネの福音書にはオリーブ山の説教はないが、その代わりに黙示録で違う形で伝えている。
オリーブ山の説教の中で、イエス様はエルサレムのさばきを預言された。それが「終わりの時」である。
そしてそのさばきの前には、迫害があったり、偽預言者が出てきたり、飢饉や地震、戦争が起こり、大変な暗闇の時代が来ると言われた。そしてこれらのことはこの世代が終わる前にすべて成就する。この世代とは、エジプトから出た荒野のイスラエルが四十年荒野を歩いたことから一つの世代は四十年と考えられる。イエス様がAD30年頃にこの説教をしたので、エルサレムがさばかれるのはAD70年頃ということになる。
オリーブ山の説教で、イエス様は預言したことはAD70年までにすべて成就すると言われた。その話はパウロ、ヨハネ、ペテロなど、すべての使徒たちの心に残っている。使徒たちもその時代の教会も、イエス様の預言通りになることはわかっていた。
ヨハネがこの手紙を書いていた時は、オリーブ山の説教でイエス様が語られた反キリストなどのしるしにより、エルサレムのさばきが近づいていた。それによってこれが「終わりの時(last hour)」であることがわかる。
(ヘブル1:2では「last days」となっている。)
ヨハネの黙示録の最初(1:1)と最後(22:6)にも、エルサレムのさばきはすぐに起きると書いてある。AD30年から70年の世代の人たちは、オリーブ山の説教で語られたような厳しい時代を経験していて、特に7年間の患難も経験していた。光なる神様が、闇の中に落ちてしまったエルサレムに契約のさばきを与えていたのである。
⚫️もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。(1:6)
神は光であり、光は真理につながる。つまり真理によって世界が照らされるのである。そして神の栄光の光のことも考える。
神様が世界を創造されたとき、地は何もなくて、光は一切なく、闇が広がっていた(創世記1:2)。
神様の一番最初の命令は「光、あれ(1:3)」であった。しかしそれは太陽の話ではない。太陽は四日目になって与えられるからだ。最初の光は神ご自身の栄光の輝きである。そのあとでずっと神様の真理の光が与えられ続けていく。その真理がどんどん光を照らすが、イエス様がこの世に来られたとき、世の光として真理を明白に示し、復活によってその栄光を表され、天に昇って神の右に座して、今も人類の歴史を導いてくださっている。
イエス様の再臨の時に、私たちは復活のからだを与えられ、光の子としてイエス様に似た者となっていく。
新しいエルサレムは永遠の光の町である。太陽も月もない。神様ご自身の栄光の輝きがすべてを照らすからである。私たちは光なる神様とともに永遠に住み、その栄光の光を与えられて共に楽しむ。だから光なる神様を信じる者は闇を憎み、光を愛し、光を求め、毎日の生活において光の中を歩む者となるのである。
⚫️もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(1:7)
光の中を歩むとは、非常に簡単なレベルで言うなら、モーセの十戒に従って歩むことである。そしてそれは、イエス様が教えてくださった最も大切な戒めに従うことである。
【マタイ22:36~40】「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
イエス様は律法学者に質問されて、まず申命記6:4から『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』と答える。次の答えはそれに似ているが、レビ記19:18から『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』答える。この二つの戒めに、律法と預言者の全体がかかっている。旧約聖書の律法には細かい命令があるが、それはすべて、神を愛することと隣人を愛することを教えられて、愛の道を歩むように導かれている。
ヨハネはイエス様の最も親しい弟子だった。最後の晩餐ではイエス様の隣に座っていた。ヨハネはイエス様の教えを心に留めていて、この手紙の中で兄弟愛を非常に強調している。兄弟を愛さない者は光の中を歩んでいない。愛なる神様を信じるならば、愛の道を歩まなければならない。兄弟のためにいのちをささげるべきであるとヨハネは強調している。イエス様の教えは愛によって成就されるのである。
ヨハネは手紙の中で私たちに真理の中を歩むように教えているが、具体的には兄弟を愛し、兄弟の祝福を積極的に求める生き方のことなのである。
⚫️もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。(1:8)
ヨハネの時代には偽預言者がたくさんいたが、私たちの時代も同じである。モルモン教やエホバの証人は、昔のヨハネの時代のようにキリストを否定し、キリストについて偽りを教える。三位一体の神を信じない異端である。
イスラム教や仏教も三位一体なる神様を信じていない。光の神、愛なる神を信じない。
神様を信じると言いながら、その神を愛して光を求めなければその信仰はどうなるのだろうか。光に向かって歩み、最後にその光の中で私たちは生きる。今、私たちはすでに神の光を求めることができる。光であるみことばを心に留めて、パウロがコロサイ書で言うようにキリストのことばを心に住まわせなさい(コロサイ3:16)。
ヨハネも違う言い方で私たちに教えている。自分がイエス様を信じると言うなら、イエス様のように歩まなければならない。
その逆の例はカインである。カインは兄弟アベルを憎んでいた。アベルの行いが自分よりも正しかったからだ。アベルの光はカインにとって耐えられなかった。それでカインはアベルを殺す。パリサイ人たちは光であるイエス様に耐えられなかった。だからカインのようにイエス様を憎んで殺した。イエス様のように光の中を歩むのは、神を愛して兄弟を愛することである。
ヨハネは私たちが神様の光の中を歩んでいるなら、互いに交わりがあると言う。御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださる。
光の中を歩むなら、繰り返しきよめられて、罪が赦されて、神様が私たちに契約の祝福を与えてくださる。
⚫️もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(1:9)
アダムとエバのように、神様の光が近づいてきたときに恐れて隠れるのではなく、むしろ光を喜び、神様に近づいて自分の罪を告白する。そうすれば、私たちは繰り返しきよめられ、赦される。
礼拝において私たちが罪を告白するのは、光なる神様に近づき、光の中で成長するためなのである。
パウロが書いたローマ書は、ある意味で若いクリスチャンのためのものである。確かに深くて神学的な教えは非常に面白いが、古代教会の中でヨハネは「一番優れた神学者」と言われていた。パウロも素晴らしい神学者であることは誰も否定しないが、古代教会ではそのように言われていたのである。このヨハネがヨハネの福音書、第一·第二·第三ヨハネの手紙と黙示録を書いた。ヨハネが光なる神様を深く理解して教えてくれる。それは私たちが光に近づくことができるためである。
礼拝でこの光なる神様に近づいて、自分の罪を告白して、みことばを求めて、兄弟と交わり、一緒に祈る。光と闇の区別は成長すれば成長するほど明白になる。曖昧な考え方ではなく、明白な区別である。その光を求めて成長できるように歩む。毎週の礼拝はそれを励ますためのものである。
毎週の礼拝に私たちは罪を告白するが、聖餐をいただくときも自分の罪を告白して、光を求めて近づく。そして光なる神様を礼拝して、交わりを持つなら、私たちも光を照らさなければならない。この世は闇に覆われて、苦しんで迷っている。光は私たちだけで楽しむためのものではない。パウロが言うように、私たちは「光の子」である。 闇の中で迷い、苦しんでいる世の人々に、この光を熱心に伝える使命がある。自分も光を信じて喜んでいるならそれができるのである。
特にこの日本において、クリスチャンの人口は非常に少ないのが現状である。イスラム教の国でさえ、クリスチャンの割合は日本より多い。しかし、私たちが光なる神様を信じているならば、自らが光を放つ生き方をし、福音を伝える機会を求めていかなければならない。 私たちの生き方を通して、イエス様の光が闇の中にいる人たちに届けられるように祈る。日本も神様の光の中を歩む日が来るように祈る。
イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)
この永遠のいのちの光は、イエス様を信じ、イエス様に従って歩む者に与えられる。それを覚えて一緒に聖餐をいただきたいと思う。
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