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「神と兄弟を愛して光の中を歩む」第一ヨハネ2:1~9

  • 5月3日
  • 読了時間: 12分

説教者:ラルフ・スミス牧師


第一ヨハネ2:1~9

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。



ヨハネの手紙、そして他の新約聖書の背景として、主イエス・キリストのオリーブ山の説教がある。オリーブ山の説教はイエス様が十字架に行く前の最後の説教である。(ヨハネの福音書12章から17章までは説教とは言われていない)

オリーブ山の説教で、イエス様はAD30年からAD70年までの歴史がどうなるかを預言している。そしてその預言の中で「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」と言われた。ヨハネがこの手紙を書いている時代がまさにそのような時代であった。

ヨハネは第一、第二、第三の手紙の中で、神は光であり、神のうちには暗いところが少しもない、と宣言している。光なる、絶対なる神のことをヨハネが教えている。


⚫️私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス·キリストがおられます。(2:1)

光なる神様を信じて、その光に従って生きる者は、罪の中に留まり続けることはできないとヨハネははっきり言う。

でも、もし失敗して罪を犯してしまっても、私たちを弁護してくださる方がおられる。それが主イエス・キリストである。

旧約聖書のヨブ記にあるように、かつてサタンは神様に近づき、人々を告発して彼らがさばかれるように訴える者だった。しかし、黙示録に書いてあるように、イエス様が復活して神の右の座にすわられたことで、サタンは天から追い出され、もはや御使いとして神に近づくことができなくなり、私たちを訴えることはできなくなった。それどころか、パウロがローマ8章で語っているように、イエス様は大祭司として、常に私たちのためにとりなし、弁護してくださっているのである。

ヨハネはこの手紙で、パウロがローマ8章で言っていることを別の言い方で言っているのである。

イエス様が私たちのために弁護してくださるのは、イエス様ご自身が正しいお方だからである。なぜイエス様が正しい者となり得るかというと、十字架上で、私たちの代わりに神様の怒りを受け、宥めの供え物となって、神様の怒りを私たちから取り除いてくださったからである。イエス様は神の怒りのさかずきを最後の一滴まで飲んでくださった。


⚫️この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。(2:2)

イエス様は私たちクリスチャンのためだけでなく、世のすべての人々のための宥めのささげ物となってくださった。神様は第二のアダムとして、アダムに属する全ての人類の罪の代表として神の怒りのさかずきを飲んでくださった。それで神様はクリスチャンではない人にも恵みを注ぎ出して、招いてくださっている。イエス様が私たちを弁護されるとき、妥協して罪を軽く見ることは決してなさらない。だから私たちの代わりに死んでくださって、とりなしてくださったのである。それで私たちは罪を犯しても失敗しても、神の恵みのうちに神様が愛してくださることを確信して、常にとりなしてくださるイエス様を喜ぶことができるのだ。


⚫️もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることがわかります。(2:3)

この中に翻訳が難しいところがある。原語を直訳すると、「自分たちは神を知っていることを知っています」となる。「神を知っていることがわかります」と訳したのは、その方が日本語では自然だからだと思う。「知る」ということばを聖書の中で使うときに、単に神についての知識の話にとどまらず、神様との親しい人格的な関係、契約の関係を持っているという意味で使われている。

そのことについて、イエス様はヨハネ福音書14章でこのように言う。

【ヨハネ14:21】わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。

戒めを守るというのは、単に「殺人をしない」とか「盗まない」といった浅いレベルのルールを守ることではなく、心から神を愛して神の命令を守る姿のことである。イエス様はそれを私たちに見せてくださった。イエス様は常に神様を喜ばせることを行なっている。神さまの命令を愛によって与えられたと信じて、その愛に応えて命令を守るのが本当の意味で神様の命令を守ることになる。そうすれば神様の命令は「道の光」となる。神様の命令を守ることによって、神様との本当の生きている深い契約関係を持っていることがわかる。そのような交わりを持って喜んで感謝して神様の命令を守る。そのように命令を守る人は神様に愛されて、神様もご自分をその人に表す。愛の交わりにおいて成長することになる。もっともっと大人になることを神様は約束している。


⚫️神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。(2:4)

ヨハネの手紙の中で「神を知る」ということばは、第一ヨハネから第三ヨハネまで合計26回繰り返し使われるが、それは表面的な話ではない。本当の意味で神を知るということがどういうことか、ヨハネは私たちに教えている。神の命令を守ることも守らないことも表面的な話ではない。日本人の多くは人を殺さないし、姦淫する人も少ないかもしれない。盗むこと、人を殺すこと、姦淫することはほとんどのクリスチャンではない日本人でもしていない。しかしそれで神の命令を守っていると言えるのだろうか。ある意味で表面的に守っているかもしれないが、それは第一ヨハネで語られていることとは違う。神を愛し、神の教えを感謝して、尊いものとして受け入れることが神の命令を守ることである。


⚫️ しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。(2:5)

神を信じているからみことばを守っている。その人のうちには確かに神の愛が全うされるのである。主イエス・キリストの戒めを守る人は御父に愛されて成長し、祝福される。その人は神の愛を表す器として用いられる。それによって神のうちにいることがわかる。


⚫️神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。(2:6)

これはイエス様のような奇跡を行わなければならないという意味でもないし、みんなが説教しなければならないという意味でもないし、みんなが特別なわざを行わなければならないというわけでもない。

ではイエス様が歩まれた歩みとは何なのだろうか。

福音書の中でイエス様が示された歩みとは、最後の晩餐で弟子たちの足を洗われた姿にある。当時、足をあらうのは奴隷の仕事で、ユダヤ人はやらなかった。イエス様ご自身は主なのに、弟子たちの足を洗ったのである。

【ヨハネ13:8~10】イエスはペテロに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」シモン·ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」

ペテロの熱心さとイエス様への愛を見ることができる箇所である。

この後、イエス様はこのように言った。

【ヨハネ13:15】わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

これは誤解される箇所でもある。昔から、教団によって、あるいはグループによって、足を洗う儀式を行なっているところがある。教団にもよるが、例えば一年に一回特別な儀式としてお互いの足を洗ったりする。しかしそのような教団の中で、足を洗う必要のある人は一人もいないはずである。みんな足を十分に綺麗にして儀式に臨んでいるからだ。だからイエス様は、儀式を行なって足を洗う必要のない人がお互いの足を洗うことについて話しているのではない。足を洗う真似をするという意味ではないのである。弟子たちが実際に集まった時に、足を洗う必要があったが、奴隷がいなかったのでイエス様がその必要に応じて奴隷のように行なってくださったのである。それがイエス様が私たちに示してくださった模範である。お互いの必要に応じて助け合う。神様に従ってお互いを祝福し合い、イエス様の真似をする。それは兄弟愛なのである。イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちもお互いに愛し合って助け合う。そのような兄弟愛を持つことがイエス様の模範に従って歩むことである。


そしてもちろんイエス様が弟子たちの足を洗うときに、御父を喜ばせる心を持って、弟子たちの足を洗う。そのことも私たちに模範として与えられている。


⚫️愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。(2:7)

ヨハネはイエス様の教えを指して話していると思う。

マタイ福音書の中で、律法の専門家が、律法の中でどの戒めが一番重要か、と聞いたときに、イエス様はこのように答えられた。

【マタイ22:37~40】イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。

『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

第一の戒めは申命記6:4から、第二の命令はレビ記19:18からイエス様が引用している。神を愛し、隣人を愛することは、すべての律法の土台である。律法の全てはこの二つの命令にかかっているとイエス様は言う。

これらは昔からの古い教えである。


⚫️私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。(2:8)

しかし同時に、それは新しい命令でもある。

【ヨハネ13:34】わたしはあなたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

弟子たちはその新しい命令を聞いたときに、その意味の深さはわからなかったが、イエス様が十字架と復活を通して、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という愛の深さを実際に示されたのである。

ペンテコステの日に御霊が与えられて、弟子たちは初めてこのイエス様の愛の本当の意味を理解することができた。

使徒の働きに書いてあるが、教会の中で互いに助け合い仕え合う兄弟愛のストーリーがこの時から始まったのである。

エルサレムは破壊されるというイエス様の預言をみんな覚えている。ものが足りなくなる。やもめがたくさんいる。そのときにお互いの必要を与え合うことによってイエス様を信じていることがわかる。兄弟愛をもって、それを実際の生活に表して、お互いのために祈り合う。お互いに交わりを持ち、お互いに仕え合う。兄弟愛は、主イエス・キリストの真似をして、主イエス・キリストのうちにとどまって、神様の恵みと愛を表すことである。

すでに聞いている新しい命令は、イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちはお互いを愛し合うべきである。


⚫️光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。(2:9)

イエス様がオリーブ山の説教で預言された通り、ヨハネの時代に不法がはびこり愛が冷えるという問題が起きた。教会の中でも、お互いを裏切り兄弟を憎むという問題が実際に出てきた。それについては、黙示録2~3章にあるキリストが教会に送った手紙の中で見ることができる。

実際に兄弟を憎むという問題は今もある。自分はクリスチャンだと言ってそれ以上何も言わなければみんなフレンドリーかもしれないが、聖書を信じているとはっきり言うと、場所によっては憎まれたりする。聖書を信じて、ノアの洪水を信じていると言うと、かえって馬鹿にされたり見下されたりする。キリストを信じて、みことばを信じて歩むときに、兄弟に憎まれることがある。しかし、兄弟を憎む者は闇の中にいて、真理はその人のうちにはない。闇の中にいる人は目が見えないので、自分がどこへ向かっているのか、何につまずいているのかさえ分からなくなってしまう。

【箴言4:18〜19】正しい人の進む道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。悪き者の道は暗闇のよう。彼らは何につまずくかを知らない。

ヨハネが教えるのは、この光と闇のはっきりとした区別である。そこには曖昧なグレーゾーンは一切ない。光の中を歩む者は神の恵みを受けて御国を求めて成長する。闇の中を歩む者はどんどんわからなくなって行って暗闇になってしまう。小さい子どもの場合は、親にやって良いと言われたことをやり、ダメと言われることはやらない。キリストを愛し、キリストに特別に愛されている成長したヨハネは、善と悪、光と闇について全てを明白にしている。

光の中を歩んで罪を犯さないようにこの手紙を書いている。罪を犯して闇の中を歩まないように、ヨハネはこの手紙を書いている。光の中を歩むとは、愛のうちを歩むことである。神様を愛して、その命令を祝福として受け、兄弟愛を持って喜んで歩むことである。

私たちは毎週の礼拝において、自分を神様にささげる誓いをあらたにしている。

「私は光の中を歩みます。その光をまだ主イエス・キリストを知らない人々に照らします。福音を伝えます。キリストの模範に従って生きます。」

この誓いを覚え、一緒に聖餐をいただきたいと思う。



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