「聖霊と火によるバプテスマと聖餐式の感謝」使徒2:1~21
- 5月24日
- 読了時間: 13分
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
使徒2:1~21
五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。
今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。
これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の名を呼び求める者はみな救われる。』
今日の説教はいつもと少し違うパターンです。
まず初めにペンテコステに関する短い説教をします。その説教は今日の洗礼式に向けた説教です。
そして洗礼式を行います。
洗礼式を行った後で、今度は聖餐式のやり方が変わったことについて短く話します。私たちが聖餐式で第一コリント11:27~32を読まなくなったことと、その代わりに感謝の祈りをささげることになった理由を説明します。
⚫️ペンテコステ
今日はペンテコステです。イエスが復活して昇天し、天にある王座から御霊を地上に送った日です。それはこの教会を火によって洗礼を授けるためでした。私たちは今日、赤ちゃんにバプテスマを授けます。その時に私たちには水のバプテスマしか目に写りませんが、じつは同時にイエスは彼女に水と火をもって洗礼を授けます。このペンテコステで教会に降ってきたその御霊が、彼女にも降って来るのです。
バプテスマのヨハネが預言した通りです。
【マタイ3:11】私は、あなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。
実際にペンテコステで何が起きたのか、先ほどの朗読で聞いたばかりです。【使徒の働き2:3】また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
そして、この舌が降ってきた時に、すぐに全員が語り始めました。色々な言語で語ることがとても強調されますが、実際にそれは驚くべきところです。でもそれ以前に、まず語っているのです。御霊が来たら人は喋り出すのです。
では、何について語っていたのでしょうか。もちろんみんな同じ一つのことについて語っていました。それはイエス・キリストについての証しです。言い換えると、主の御名を呼び求めていました。これもイエスが預言したことばでした。
【ヨハネ15:26】わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。
聖霊は、イエスについて証しするお方なのです。
また、今日読んだ箇所でパウロがこう言います。
【第一コリント12:3b】聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。
そういう意味で、イエスについてのまことの証しは聖霊の証しなのです。
だから、この頭の上に降りてきた炎の舌は、弟子たちがイエスについて語るように促しました。だから彼らは炎のような民となって、炎のような言葉を語りました。御霊が降ると、私たちは炎の民になります。
御霊が降りて来た時に、私たちはみことばを語ります。そのみことばは、世界に聖霊の火を燃え広がらせます。
皆さんは覚えていると思いますが、神様はノアの洪水の時に一度、全世界に洗礼を授けました。そして、神様は二度とこのようなことはしないと約束されました。しかし世はまだきよめられていなかったので、次は火できよめられるということなのです。
聖書のあちこちに出て来るのですが、特に第二ペテロにこれがはっきり書かれています。
【第二ペテロ3:5b~7】天は大昔からあり、地は神のみことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。
ノアの洪水の時のように、今度は御霊の火、みことばによる火が天から降りてきて、地上だけではなく、今度は天と地のどちらも焼かれて練られるのです。
その時、きよくないものはすべて燃え尽くされます。そして、聖なるものが生きて残ります。これはモーセが見た燃える柴のように、生きたまま燃えています。そして練られた金のように神の栄光で輝きます。
今日、赤ちゃんが洗礼を受ける時に、イエスの洗礼の時に降りてきたその同じ聖霊が降りてきます。その聖霊によって、イエスがなしたこと、語ったこと、すべてを行う力がイエスに与えられました。
また、ペンテコステの日に使徒たちに与えられたのと同じ御霊がこの赤ちゃんに降ります。
そして、使徒たちを力づけて、彼らが行ったすべてのわざを行う力を与えたのと同じ聖霊が彼女にも与えられます。
私たちは、その聖霊がこの赤ちゃんに与えられたことの証人となります。それによって、彼女も使徒たちと同じように、イエスがなさったことよりも大きなこと、偉大なことができるようになるのです。何しろ、この御霊というのは、世界を創造した御霊だからです。
そして、彼女は生きて語るイエス・キリストの証人となります。この世の中で、炎となって神の聖なる火を広めます。
じつは、洗礼を受けた私たちは、みんなその役割、その使命が与えられています。そして、親たちもみんな、子どもたちがそのような者となるように教えて訓練する使命があります。
このみことばを通して、火が広がっていくように。そのためにも、私たちは神の家に集まって、そのみことばを聞いて、そしてまた語ります。
実際、礼拝の式次第の中で、「どうしてこんなにたくさん喋らなければいけないのか」と思うかもしれません。皆さんが話すセリフはたくさんあります。それはなぜかというと、礼拝によって御霊に満ちた民は、ただみことばを聞くだけではなく、みことばを語る者でなければなりません。私たちも礼拝の中で喋ったり、あるいは歌を通しても、この御霊に満ちた神の証し人となっているのです。礼拝の中で私たちはイエスのみわざを告白します。歴史の中で神が何を行ったか、特に受肉してその生涯と死において何をしたかを告白します。
【第一ヨハネ4:2】神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。
それで、私たちは「イエスは受肉した」と毎週告白しています。そしてもちろん、イエスが苦しんで死に、また三日目によみがえったこと、そして再び来られることも、私たちは告白して、また賛美して感謝します。このすべてのみわざのために、神に感謝します。
その頂点が聖餐式なのです。これについては後でもう少し詳しく話します。私たちはこのように礼拝の中で神のことばを聞いて語ることを練習して、行います。そしてここから出て行き、それをやり続けます。聖霊の火を世の中に広めていきます。全世界がこの聖なる火で燃えるように働くのです。
・・・・・[洗礼式]・・・・・
⚫️聖餐式の感謝について
これから聖餐式の部分に入ります。今日から新しい式次第になります。
私たちはこれまで、毎週第一コリントの11:27~32までを読んでいましたが、今後は11:23~26の「制定文」のところだけを読むことにします。
どれほど長く同じことを続けてきたとしても、伝統というものは決して変わってはならないものだと思ってほしくありません。私たちは、今までやってきたことを変えるべき良い理由があれば、変えるべきなのです。では、この部分を変える良い理由あるのですか。はい、あります。それを今から説明します。
もちろん、第一コリント11:27からの箇所(ふさわしくないままで食べてはならないという戒め)が、何か問題のある箇所だとか、良くない箇所だというわけではありません。これもすべて、神の正しいみことばです。そして、私たちが聖餐式の大事な一面を理解するためにも欠かせない箇所です。しかし、どこで問題になるかというと、前後の文脈や説明なしに毎週そこを読む時に、誤解が生じてしまうのです。
文脈なしでこの箇所を読むと、私たちはどういう反応に導かれがちでしょうか。まずその箇所を聞き、私たちはしばらく静かに座って黙祷します。聖餐式を受ける度に待っているのです。すると、「ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だから一人一人が自分を吟味して、その上で食べなさい」ということばが聞こえてきます。
そうすると、「これからパンを食べ杯を飲むのだから、今は一人一人が自分を吟味する時間なのだ」と思ってしまいます。聖餐の直前の時間は、椅子に一人で座って自分を吟味する時間だ、と自然と考えてしまうのです。そして、その飲み食いが自分へのさばきになると思う時、「この時間を正しく持たなければならない。ここでちゃんと罪を悔い改めて、感謝していることを確認しないと罰が来る。あと一分くらいでパンとさかずきが回ってくるから、一生懸命祈って準備をしなければならない」と焦ってしまいます。
形にはメッセージがあるので、実際には別の場所で「そうではない」と教えられていても、毎週この形を通して同じメッセージが与えられてしまうのです。
例えば、人生の中で、辛い時期にいる人たちが「困った。私は十分にきよくない。食べないほうがいいかもしれない。恐ろしいと思うのは、私にきよさが足りないからかもしれない。」と受け取ってしまうこともあります。その結果、教会に来ること、聖餐式にあずかることを一番必要としている時期に、逆に教会を避けてしまうというケースが出てきてしまうのです。
あるいは、自分は辛い時期でないし、聖餐式をいつも喜んで受けています、という人もいるでしょう。でも、一人で静かに目を閉じてみると、頭の中でじつは孤立していて、自分の中を深く探る時間にしてしまうと、それは主のみからだをわきまえる時間ではなくて、自分の心をわきまえる時間になってしまいます。
じつは、聖餐式の直前という時間は、罪を悔い改めたり心を探ったりするのにふさわしい時ではありません。罪の悔い改めの時間は礼拝の初めにありました。私たちは、この悔い改めの時間で罪が赦されたと宣言されて、そこからはずっと赦された者として礼拝に参加しているのです。聖餐式は礼拝の中心と言われますが、それは最初からずっと聖餐式に向かっているということです。聖餐式は自分を生けるいけにえとして神にささげることです。私たちは礼拝の最初から、キリストと一つになった自分を神にささげる準備をしているのです。
旧約のいけにえが、汚い部分を水で洗ってから火に入れて燃やされたように、私たちも自分を洗って最後に燃やします。
ですから、悔い改めはパンが回ってくる一分前に慌ててできるようなものではありません。みことばが朗読され、解き明かされる時も、自分に対しての神のみこころは何なのかを聞き、それに対して信仰を告白することによって応答します。その後の平和の挨拶の時には、意識的にすべての兄弟姉妹と和解をして聖餐式に進みます。
では、聖餐式の直前は何をする時間なのでしょうか。聖餐式は過越の祭りです。過越の祭りの時には、神がどのように彼らをエジプトから救い出したのか、その物語を思い出します,。同じように、主の食卓に集まった時、私たちはイエスの救いの働きを思い起こし、記念します。聖餐式は神が私たちのために何をなしてくださったのかを記念する時なのです。そして、みんな一斉に声を一つにして、大声で神に感謝を表す時です。私たちは自分の心に注目する時ではなく、イエス・キリストに目を留め、イエスの死と復活、そして再び来られることに注目する時なのです。
私たちが同じパンを食べ、同じ杯から飲む時、この行為自体がみからだをわきまえることになります。一緒に食べることによって、私たちはキリストにある一致を表し、新しく一つにされます。
これは契約を新たにする式であり、パウロが第一コリント11章で教会に命じている結論も「 一緒に食べなさい」という命令です(第一コリント11:33)。
旧約聖書のいけにえは、すべての預言がメシアの約束であったように、聖餐式もまた、かつて来られ、天に昇り、再び戻って来られるメシアの約束なのです。イエスが私たちのために命をささげげたこと、そして再び戻って私たちを永遠の天の宴会に招いてくださることを、私たちは約束として受け取ります。したがって、聖餐式は宴会と安息がキーワードになります。だからここに座って、今から大変な頭の働きをしなければならないとか、霊を酷使して働かなければならない時ではありません,。聖餐は、安息と感謝の時です。なぜなら、イエス・キリストが私たちをご自分の食卓に招き、もてなしてくださるからです。
ですから、私たちは一生懸命静かに一人で祈るのではなく、大いなるアーメンをもって聖餐式に向かいます。結婚式でみんなが大声で「乾杯!」というような、あのような喜びの勢いをイメージしてください。もちろん、一人で座っている間に祈ることはできます。何に関しても祈ることができます。罪の赦しを感謝したり、兄弟をゆるして愛する力を求めたり、何を祈ってもかまいません。自分と神様の間のことなので、かまいません。しかし、その中で覚えておいてほしいのは、聖餐式は1世紀からユカリストと呼ばれてきたということです。ユカリストとは感謝を捧げることを意味します。なぜなら、イエスはパンと杯を取って、感謝の祈りをささげてから配られたからです。だから私たちもそのようにします。
今年度の三鷹福音教会のテーマ聖句はマタイ7章からです。
ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。マタイ7:24
イエスが求めているのは、みことばを聞くだけではなく、それを行う者です。リタジーは行う場なのです。ここで座って、おもに考える場や感じる場ではなく、おもに行う場です。感謝について考えるだけでなく、実際に喜びをもって神に感謝し、聖餐にあずかりましょう。
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