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「キリストにあって歩みなさい」コロサイ2:6〜10

更新日:2023年2月11日

「キリストにあって歩みなさい」

コロサイ2:6〜10

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

コロサイの手紙を通してずっと考えてきたことであるが、今日は霊的なたたかい、世界観のたたかいについて続けて考えていこうと思う。


あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。

パウロはコロサイの教会に警告を与えている。

コロサイの教会に異端者が入って彼らが多大な影響を与えていたわけではない。ガラテヤの教会はすでに大きな問題になっていたが、コロサイの教会はまだ異端者が影響を与えようとしている段階であった。だからパウロは気を付けるように手紙を書く必要があったのだ。

パウロの警告、霊的なたたかい(世界観のたたかい)について、三つのことを一緒に考えたいと思う。


1、キリストにあって歩む

パウロの警告と、9・11の事件は霊的なたたかいと関係がある。20年前の9月11日に、イスラム過激派アルカイダが飛行機四機をハイジャックして、そのうち二機が世界貿易センタービルに突入し、一機はアメリカ国防総省本庁舎ペンタゴンに墜落し、残りの一機はワシントンD.Cを目指していたが、ペンシルべニア州の野原に墜落した。野原に墜落した飛行機の乗員乗客たちは、ハイジャックの目的が自爆テロであると認識し、ハイジャッカーたちに反撃してテロを止めたのだ。乗客のリーダーの名はトッド・ビーマーで、反撃の合図「Let's Roll.(さあやろうぜ)」は有名になったが、その前の言葉はあまり知られていない。それを言う前に彼は主の祈りをささげて、たとえ死の影の谷を歩むとも…というみことばが含まれている詩篇23篇を唱えて、イエス様が救い出して下さるように祈ってから、「Let's Roll.」と言ってテロリストとたたかった。

イスラム教は世界の25%、仏教は7~8%、ヒンズー教は15%、キリスト教は33%である。

イスラム教はどうして世界貿易センタービルに突っ込んだのかというと、西洋の政治と経済の力の象徴的な建物だからである。

テロリストに対して過激派ということばを使うが、イスラム教徒の中で最初にテロを行ったのはモハメッドである。彼は610年にメッカでガブリエルに会ったと言う。そこでいろいろなことを教わり、記録に残したりしてから、622年にメディナに行き、メッカからのキャラバン隊から略奪して、繰り返し盗みを働き、殺人を犯し、当時のメディナにあった内戦も終わらせた。このようにテロはモハメッドから始まっている。

イスラム教の思想では全世界を二つの家に分けている。信仰の家との戦争の家である。キリスト教やユダヤ教に対しても敵意を持っているが、比較的軽い。しかし偶像礼拝をする者への敵意は非常に強い。モハメッドの人生そのものがイスラム教にとって理想的な人生である。モハメッドと同じことができればすばらしいとされている。だからテロを行うのは、イスラム教にとっては過激派ではなく正統派になる。

イスラム教は戦争で北アフリカのビザンチン帝国を取って大きなオスマン帝国に成長したが、暴力、戦争で成長した。それがイスラム教の霊的なたたかいの考え方である。戦争の家に対しては、暴力を使って良い。盗んで良い。人を殺して良い。たたかって良い。これは昔からの原則で、モハメッドの人生はイスラム教にとって理想的な人生である。


私たちにとっての理想的な人生はイエス様ご自身である。だからパウロはここで「キリストにあって歩みなさい。」と言う。

【マルコ8:32~33】するとペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ペテロは、メシアが十字架に行くはずはないと思っていた。メシアは、まるでモハメッドのように、たたかってローマ帝国を倒して、イスラエルを新しい力ある王国にするというのが当時のユダヤ人の考え方だった。嘘をついたり略奪して良いという意味はないが、ダビデ、ヨシュア、ギデオンのように、たたかってローマ帝国を倒すのがメシアだと思っていた。それなのに、メシアと思っていたイエスはローマ帝国に殺されて、負けた。これは弟子たちにとってとんでもない話である。

ペテロはイエス様をメシアと告白したばかりだったのに、そのメシアを叱る。なんとも微笑ましい間違いをしたが、それに対してイエス様は厳しく叱る。自分が十字架を負って神に従っていくだけではなく、弟子たちも自分の十字架を負ってイエス様に従っていかなくてはならない。暴力や軍事力などではなく、十字架を負って真理を語るのが、反対する者とのたたかい方である。みことばでたたかう。イエス様にあって歩むことによってたたかう。良い行いを行うことによってたたかう。愛をもってたたかう。というようにイエス様は弟子たちに教えて下さった。


20年前の9月11日に、ある人たちは「世界は変わった」と言う。イスラム教がどういう宗教なのかが明白になったという意味ではそれまでと変わったが、根本的には何も変わりはない。いつ世界が変わったかというと、二千年前に主イエス・キリストが十字架で死んで、よみがえって、昇天して、御霊を与えて下さったときにはじめて世界は根本的に変わった。これが歴史の中心である。


2、空しい哲学とのたたかい

パウロがたたかっている空しい哲学とは、旧約聖書の初歩的な教えをクリスチャンに適用しようとすることだ。割礼や安息日の教え、食べ物の教えなど、旧約聖書のイスラエルの律法を異邦人も守らなければだめだとか、場合によってはイスラエルの律法を守らなければ救われないと教えていた。それが空しい哲学である。それに人間の言い伝えや当時のユダヤ人の教えにはみことばから離れている部分も含まれていた。

【使徒行伝11:2~3】そこで、ペテロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちが、彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした」と言った。

異邦人が本当の神を恐れるなら、ペンテコステや仮庵の祭りには参加できるが、割礼を受けていないなら過ぎ越しの祭りには参加できない。しかしだからといって異邦人と一緒に食べたりすることを禁じる教えは、モーセの律法の中にはないのである。パリサイ人がいろいろ付け加えたのでパウロは人間の言い伝えという言い方をする。安息日の律法もパリサイ人がたくさん付け加えた。ユダヤ人が異邦人に対して律法を守るように圧力をかけるのは、アダムとエバの時代に基づいている。ここでも竜である蛇の子孫とエバの子孫との霊的なたたかいがずっと続いているのだ。時代によって場所によってたたかいの形は変わるが、そのたたかいは今の私たちの中にも続いている。サウロについて、あの人はあまりにもひどいから絶対に救われないと思っていた人はたくさんいたと思う。サウルは教会を敵視して迫害していたが、イエス様を信じてパウロになった。私たちに敵対している人でも、私たちを無視している人でも、たたかい方は主イエス・キリストにあって歩むということなのだ。

イエス様が昇天する前に、このように弟子たちに教えた。

【マタイ28:19~20a】ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

祈って、正しく歩んで、敵を敵として愛して、福音を伝えて、神の御国のために実を結ぶ。これが私たちのたたかい方なのだ。


3、私たちの敵

私たちの時代には、安息日、割礼、食べ物の律法についての敵はいない。私たちの時代の敵はある意味で啓蒙運動の思想である。啓蒙運動がすべて悪かったという意味ではない。啓蒙運動の前の時代に戻って歯医者に行きたいとは思わない。科学は神様の賜物で、私たちにたくさんの恩恵をもたらした。啓蒙運動は、人間の理性や経験ですべてを決めることができるので、聖書はいらないし神もいらない、という思想である。今では唯物論の思想において表現される。唯物論は、物質以外は何もないという思想で、神はいないし、人間のたましいはないし、御使いもいない。

昔はフレッド・ホイルという有名な物理学者によって提唱された定常宇宙論が定説だったが、今はビッグバンの定説が基礎として用いられている。

ビッグバンという呼び方は1949年に始まったが、定説になったのは1964年頃である。だいたい140億年前に爆発があってそこから宇宙がどんどん拡大していった。ビッグバンの始まりは偶然で、その後の進化も偶然で、今に至るまですべて偶然に支配されている。そしてあと200億年後に太陽が大きくなりすぎて、地球は燃えて消える。その後何百億年後に宇宙もすべて消える。ビッグバン理論によれば、歴史には始まりがあって終わりもあるが、その始まりにも終わりにも意味はない。その世界観は進化論において普通の学校で教えられていて、子どもたちは小さいときから聞かされている。テレビ番組にも音楽にも映画にも出て来る。私たちの周りの世界観は聖書の創造主なる神はいないという唯物論的な世界観である。パウロは、歴史がどんなに大切なのかを教えるために、イエス様は創造主であり、すべてのものはイエス様にあって創造され、イエス様のために創造されたと言う(コロサイ1:16)。

世界に始まりがあり、御父、御子、御霊なる神が愛をもって世界を創造されて、私たちは神の似姿で、そこには永遠の意味がある。私たちにとって、啓蒙運動が歴史の中心ではなく、イエス様の十字架と復活が歴史の中心である。私たちはそれを常に覚えてニケア信条を唱える。ニケア信条を唱えることによって毎週の礼拝は歴史を思い出すときとなる。創造、受肉、十字架、復活、そして歴史の終わりにイエス様がこの世に戻って歴史をさばく。そのことを毎週告白し、創造主なる神を信じる告白をあらたにして、神は歴史を作り、支配し、導いてくださることを告白する。全ての被造物は神がお造りになり、そこには意味がある。神の栄光を表している。その世界観を毎週告白して新たにする。

しかし、簡単に周りの社会の見えない圧力に負けそうになってしまう危険性もある。だから私たちは、毎週の礼拝で、心をあらたにし、信仰を新たにし、罪を告白して神様の赦しを求めて、聖餐式をいただくことによって誓いをあらたにする。その誓いは、私はイエス様にあって歩みます、という誓いである。十字架を負ってイエス様に従い、イエス様に教えられたすべての命令を守ることを求める誓いである。

その誓いをあらたにして、今の時代の霊的な圧力や、クリスチャンではない世界観や生き方に、キリストにあって歩むことによって抵抗できる。そして勝利を得ることができる。この国が主イエス・キリストを信じる国になるように祈るべきだし、イスラム教徒や共産党に迫害されているクリスチャンのためにいつも祈って、イエス様の十字架の勝利が全世界に広がって、神の御国が来るように祈るべきである。

聖餐式のときに、歴史の中心にもどって神に誓いをささげる。




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