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「キリストの働き」ピリピ1:21〜26

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ1:21〜26

私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。

私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。

しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。そうなれば、私は再びあなたがたのもとに行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。

パウロは、再びピリピの教会に行けると言う。

今日はパウロの働きについて、もう一度考えたいと思う。



パウロの働きを考える時に、特に大切な二つの箇所がある。

・【マタイ16:18】そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

この話の前後関係は複雑だが、ここのところだけ強調したい。イエス様がご自分の教会を建てると宣言する。

・【使徒の働き1:1】テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。

前の書とはルカの福音書のことである。ルカはイエス様の働きの始めについて前の書で書いた。使徒の働きはルカの福音書の続きであることをルカは明白にしている。つまり使徒の働きはイエス様の働き第二、あるいはルカの福音書第二であると考えていいと思う。

使徒の働き2章で弟子たちが異言を語り、それを聞いたユダヤ人たちが呆気に取られていると、ペテロが「神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです(使徒の働き2:32)。」と言った。御霊の働きはイエス様から与えられた働きである。

パウロの証しも使徒の働きの中で3回も出て来る。イエス様ご自身がパウロに直接話して、悔い改めるように導いてくださった。そして使徒にしてくださった。イエス様の働き、使徒の働き全体において、御霊によって、そして弟子たちによって、イエス様はご自分の教会を建てる働きをしている。



使徒の働き全体を見ると、1章から12章までがペテロ中心で、13章から終わりまでがパウロ中心に書かれている。パウロもペテロも主イエス・キリストの形にしたがって働いている。福音を伝えて、ユダヤ人に憎まれて、迫害された。

ペテロの場合はヤコブと一緒に逮捕されて牢に入ったがヤコブは殺されてペテロは救い出されて、他の弟子たちのところに行ったが、幽霊だと思われた。イエス様について同じようなことがルカ24章に書いてある。

使徒の働き1章から12章まででペテロを通してイエス様がご自分の教会を建てる働きを見ることができる。

使徒の働き13章からはパウロが中心である。使徒の働き12章でヘロデ王が神様にさばかれて44年に死んでしまうことを見て、パウロとバルナバはアンティオケに戻る。すると、アンティオケの教会がパウロとバルナバをガラテヤに送る。45年から46年のことである。それがパウロの最初の伝道の旅であった(使徒の働き13章から14章)。二人はそこからまたアンティオケに戻って来た。そしてガラテヤでは、異邦人も割礼を受けなければクリスチャンになることはできないと言う人たちがいたので、ガラテヤ人への手紙を書いた。

それからパウロはエルサレムに行って大きな会議を行った(使徒の働き15章)。パウロのほかにペテロもイエス様の兄弟ヤコブもいた。その会議で、異邦人は割礼を受けなくても救われるという結論に達した。

パウロたちはアジアでも伝道しようと思っていたのだが、御霊によって禁じられた。そしてトロアスに行ったときに、マケドニア人が「助けてください」と懇願する幻を見たので、マケドニアに行った(使徒の働き16章)。そしてまずピリピで大きな働きができたが、結局追い出されてテサロニケに行った。テサロニケでも伝道してユダヤ人に追い出された形になり、そこからベレアに行った。べレアでもパウロが伝道して追い出されてしまって、アテネに行ってコリントに行った。コリントに1年半から2年とどまって、そこで大切な働きをした。これが2回目の伝道の旅であった。ピリピ人への手紙と関係ないわけではないが、コリントの町に滞在したのが一番長かった。

パウロたちはアンティオケに戻り、3回目の伝道の旅にでかけてエペソに行った。そしてそこに3年間滞在したので、大きな教会を建てることができた。

パウロがエペソからエルサレムに戻ったときに、大きな問題が起きて逮捕され、最終的にローマに行って2年間裁判を待っている。だいたい60年から62年頃のことである。私たちが学んでいるピリピ人への手紙はエペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙と同じようにローマの獄中で書かれている。ピリピ人への手紙は他の3つの手紙とちがうところがある。そろそろ死ぬかもしれないという雰囲気が繰り返し出て来る。つまりパウロのローマでの2年間の終わりに近い時にこの手紙を書いたことがわかる。

逮捕される前に、パウロはコリントやマケドニアなど異邦人の町で集めたたくさんの献金をエルサレムの教会に届けた。エルサレムでユダヤ人クリスチャンが苦しんでいた時に、同じキリストのからだである異邦人クリスチャンが助けたのである。言葉だけでなく行動においても助けたのである。57年のことであった。その前にパウロがローマ人への手紙を書いて、献金を届けたら、皆さんに会いにローマに行きたいと書いている。確かにパウロはエルサレムで逮捕されてローマに行くことになるが、それは57年の時点ではわからなかった。

ピリピ人への手紙で、パウロは、自分は死んだ方が益だが、肉にとどまった方が実を結ぶので生き残ることを確信している、というようなことを書く。

ローマ人への手紙では、ピリピに戻るつもりはないと言っていたのに、逮捕された後ではピリピに行きたいと言っている。

以前私たちは、オネシモがローマに来てパウロを訪ねたことを学んだ。そしてパウロがコロサイの教会に行って教会を励まさなければならないと思うようになったので、コロサイの町に行くなら途中でピリピの町にも行こうということになった。ピリピの人々は迫害を受けているし、ユダヤ人との摩擦も経験している。それでもう一度行って励ますことを決めて、ピリピ人への手紙でそのことを説明する。



使徒の働きの中でのパウロの話はご自分の教会を建てる話である。使徒の働きという書物はイエス様の働きと呼んでもよいと思う。イエス様の導き、イエス様の働きは不思議なものである。

ちょうどさきほど、朗読でヨハネ4章を読んだ。弟子たちが買い物に行って、イエス様が井戸のところに座っている。これは偶然ではない。イエス様が疲れていたかもしれないが、その女性に会うことを待っていた。イエス様の話すことを不思議に思う。彼女にはイエス様が次に何を話すのか予想もできないし、目的もわからない。イエス様はサマリア人に福音を伝えるつもりで彼女を井戸のところで待っていた。弟子たちは戻って来てそれを見て驚いている。

弟子たちを導く方法も不思議で、だれもイエス様のことを予測できない。パウロを導く方法も非常に不思議で、神様は何回もパウロの計画を変えた。神の不思議な導きとパウロの苦しみによって、ご自分の教会を建てる働きをしている。

イエス様は今日まで変わらずにご自分の教会を導いている。

イエス様がサマリヤの女性と話すのを弟子たちが不思議に思っていたように、私たちはイエス様の導き方を説明できないこともある。2千年の歴史の中で説明できないこともたくさんあるし、今もなぜイエス様がこのことを許しているのか、何をしているのか、ぴんとこないことが確かにある。後でわかるだろうと思うこともあるが、その途中ではどうしたらよいのだろうか。

それは信仰を持って歩むことである。イエス様の導きが不思議であってもそれは素晴らしい。

【ローマ8:28】神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことをがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

パウロ自身の人生においても神様はそのように導いている。パウロはピリピの教会に、私も同じような苦闘を経験している(ピリピ1:29~30)と言う。そしてピリピの教会にとって大切なのは福音にふさわしい歩みをすることだと言う。

次回から学ぶところであるが、パウロは、ピリピの教会に、自分のために生きるのではなくて、神様を第一にして神様に従って歩みなさいと言う。豊かな教会でなんでもかんでもうまくいっている教会に話しているのではなくて、苦しんで迫害されている教会に話している。

私たち個人一人一人にも悩みや苦しみがある。しかしパウロは、主イエス・キリストにすべてをゆだねて、イエス様を信じて歩むように模範を示している。

ピリピの教会も弟子たちも私たちもこの手紙によって励まされる。




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