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「メシアのシャローム」コロサイ3:9〜15

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ3:9〜15

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。 そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

今日は15節を一緒に学ぼうと思う。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。(コロサイ3:15a)

パウロの手紙の大切な箇所だが、日本語の翻訳の問題がある。

「平和」と訳されていることばは、ギリシャ語で「エイレーネ」、ヘブル語で「シャローム」である。英語では「アイリーン」という名前になる。同じ言葉がコロサイの手紙の最初に使われている。

【コロサイ1:2b】私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたにありますように。

この「平安」がエイレーネである。平和と平安のニュアンスはちがうし、翻訳も難しいので、日本語の問題を避けるために「シャローム」を使うことにする。

パウロは「メシアのシャローム」があなたがたの心を支配するようにしなさい、と言っている。キリストもギリシャ語で、そのヘブライ語はメシアである。

今日はシャロームについて一緒に考えたいと思う。

シャロームは日本語の平和、平安より広い意味を持つ言葉である。そのニュアンスを理解するために、旧約のシャロームの預言者イザヤのいくつかの箇所を一緒に見たい。

【イザヤ9:6〜7】ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

イザヤのメシアについての預言であるが、シャロームという言葉が二回使われている。シャロームの君はメシアなるイエス様。イエス様がメシアとして全世界を治めている状態がシャロームの状態である。正しさがなければシャロームがない。メシアが正義を与えてダビデの王座についてその王国を治めることが全世界のシャロームの状態である。

ただし、今の世の中を見ると、シャロームの状態とは言えない。戦争があったり、教会への迫害があちこちにある。イエス様はすでに昇天して神の右の座について全てを治めているが、御国は成長している途中なので、まだシャロームの状態にはなっていないが、必ずそうなることをイザヤは預言している。どのようにしてシャロームの状態になるのかというと、シャロームの福音が全世界に広まって、人々がシャロームの君であるイエス様を信じることによってである。私たちはシャロームのために戦っている神の軍勢としてこの東京に置かれている。

【イザヤ26:3】志(こころざし)の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

シャロームは明らかに主観的であることをイザヤは強調している。神様は神様を信頼する者に平和、平安、シャロームを約束する。

私たちの礼拝では、初めに罪の告白をして、罪が赦された後で一緒に祈りをささげるが、その祈りは平和の祈りである。全世界に平和が与えられるように、そして私たちに平和が与えられるように祈る。日本語の平和より意味が広い祈りなのでシャロームの祈りと呼んだ方がいいかもしれない。

そして礼拝の最後に我らにシャロームを与えてくださいと歌う。我らとは、ここに集まっている人たちだけではなく、すべてのクリスチャンにシャロームが与えられるように祈っている。戦争や迫害がなくなるのもそうだが、人々がイエス様を信じて心の中にシャロームがあれば人々の間もシャロームの状態になるのである。

【イザヤ52:7】良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。

シャロームを告げ知らせることは、幸いな良い知らせを伝えることと救いを告げ知らせることと同じである。シャロームは救いを表す言葉の一つなのである。祝福もシャロームも幸いも、いろいろな観点から救いそのものを表す言葉である。

そして「あなたの神は王であられる」というのがシャロームの宣言である。イエス様は昇天して神の右の座にすわった主でありメシアである。これがシャロームの宣言の一番大切なところである。イエス様が王なので、私たちにシャロームが与えられる。それは心の平安も世界の平和の状態も含まれるが、福音を伝えることはシャロームのために戦っていることだとイザヤは預言している。

【イザヤ53:5】しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。

イザヤ52:13〜53章の終わりまではすべて、メシアなるイエス様が罪人のために十字架上で死んでくださることについての預言である。ユダヤ人はこの箇所が分かりにくい。だれについてかいてあるのか、どういう意味なのか、彼らにはわからない。

イザヤは主のしもべイエス様のことを書いている。イエス様が十字架上で私たちが受けるべきさばきを受けてくださったので、私たちはイエス様を信じることによって罪が赦され、シャロームが与えられ、私たちは癒される。イエス様が私たちのシャロームなのである。そしてイエス様の十字架は、イザヤが宣言したシャロームのメッセージの一番大切なところだと言えるかもしれない。

イエス様は王である。シャロームの君が神様から私たちに与えられている。そのシャロームの君が王であるという宣言は、福音の宣言である。正しさはその福音の宣言の中心にあるが、それを何よりも深く表すのが十字架である。正しい神が私たちの罪をさばく。シャロームの君は私たちの罪のために十字架上で死んでくださって、私たちが受けるべきさばきを私たちの代わりに受けてくださった。それがシャロームの土台である。平和、平安、調和などはすべてシャロームの君なるイエス様から与えられる。このイザヤ書の背景は、よくパウロが「恵みとシャロームがあなたがたとともにあるように」などのように手紙の挨拶として使っている。パウロの挨拶の深い意味はイザヤ書の中に表れていると思う。このような深い広い意味を土台としている。


コロサイ3:15に戻る。

メシアのシャロームが私たちの心を支配するように、とパウロが命令するが、それは神様を信頼する者の心にはシャロームがあるからだ。

【コロサイ3:12~14】ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。

パウロはこのように教えて、そのまとめとしてメシアのシャロームがあなたがたの心を支配するように、と命令する。

パウロはコロサイ人への手紙と同じ時期にピリピ人への手紙を書いた。ピリピ人への手紙の中にも有名なシャロームについての箇所がある。

【ピリピ4:6~7】何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

周りの状態が戦争や迫害であっても、私たちのすべての心配事を神様に祈ってゆだねれば、神のシャロームがあなたの心と思いを守ってくださる。実際にパウロはローマで逮捕された状態でこの手紙を書いた。パウロの客観的な状態も平和とは言えないが、パウロはすべてのことをゆだねているので、神様が心に安らぎを与えてくださっている。


⚫️そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。(3:15b)

シャロームの話が兄弟愛とつながっている。シャロームの心を持っているなら兄弟の間にもシャロームが与えられるのである。彼らが召されて一つになったのは、キリストのシャロームが彼らの心を支配するためである。シャロームが一つのキリストのからだの状態なのである。私たちは地域教会として一つのキリストのからだであり、神の教会全体として一つのからだである。そのことをパウロはエペソ人への手紙とコロサイ人への手紙の中で強調する。

【コロサイ3:11】そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

バベルの塔のときから人類は二つに分かれている。その違いは、アブラハム契約の割礼である。アブラハム契約は古い契約の中に含まれて、人類はアブラハムの子孫とそうでない人たちに分かれた。アブラハムの子孫でなければ救いは与えられないというわけではないが、アブラハムの子孫は神様の祭司で、特別に神様に近い民で、全世界のために祈り、救いが与えられるように求める責任が与えられていた。しかしイエス様が私たちの罪のために死んでよみがえってくださったので、イエス様を信じる者に御霊が与えられて、キリストのからだは一つになった。もはや、ユダヤ人と異邦人の区別はない。割礼の有無も関係なく、イエス様を信じる者がすべて一つのからだとなったので、シャロームを保つように召された。

未開の人もスキタイ人もないというのは、同じことを繰り返し言っているのではないかと思う。スキタイ人は野蛮人の中の野蛮人で、暗い道で会いたくないような人たちである。ユダヤ人はスキタイ人を非常に怖がっていた。歴史の中でスキタイ人にひどい目にあわされたこともあった。そのスキタイ人がイエス様を信じて救われて、同じイエス様のからだの部分となるのである。一つのからだとして召されたというとき、シャロームの君であるイエス様が人々の間にシャロームを与えてくださるので、ユダヤ人とスキタイ人が一つになることができるのである。罪が赦されて、新しい歩みができるようになる。

それでパウロは私たちに、シャロームが心を支配するようにしなさいと命令する。私たちがシャロームの君を信頼し、シャロームが心の中にあれば、福音を伝えることができる。そしてお互いの罪を赦し合って、柔和や寛容を着て、お互いに耐え忍び、お互いを愛することができるのである。ピリピ4章にあったように、すべての心配事を神様にゆだねて、神様の福音を伝えるときに、人々の心の中にシャロームが与えられて、神の恵みの祝福すべてが与えられるように戦う神の軍勢なのである。

シャロームを心の中に保って、シャロームの道を歩むために、パウロは次の言葉を付け加える。


⚫️また、感謝の心を持つ人になりなさい。(コロサイ3:15c)

感謝にあふれるばかりの人は、シャロームの心を持つことができる。逆に言えば、感謝しなければシャロームの心を持つことはできないので、人々を赦すことができなくなってしまう。だから、シャローム、感謝、互いを赦し合うことなどが、この短い箇所に一緒に出てくる。

シャロームの君は私たちの王である。シャロームの君は神の右の座にすわって世界を導いている。私たちはイエス様が与えてくださるシャロームの福音を伝える。福音を伝える人の足は美しいとイザヤが言ったように、私たちは福音を伝える足となって、歩いて行かなければならない。シャロームの君のシャロームの福音を熱心に伝えて、シャロームの栄光が日本にまし加わるように求めたいと思う。




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