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「七つの大罪シリーズ:傲慢、虚栄」

更新日:2023年6月30日

説教者:ベン・ゼデク牧師


「七つの大罪シリーズ:傲慢、虚栄」

あと数日で灰の水曜日です。灰の水曜日はレント(四旬節)の始まりです。この40日間、私たちはイエスが来るための心の準備をします。自分の罪を悔い改める時期です。昔からこのレントの時期に七つの大罪について瞑想する習慣がありました。その習慣は、自分の心の中をよく見て、罪を捨てて、もっと清く生きるための訓練になります。

それを今日からやっていきたいと思います。

レントの間に七つすべてをカバーすることはできないので、イースターが終わってから、また戻りたいと思います。

参考にしたのは DeYoungs' Glittering Vices という本です。

七つの大罪を聞いたことのない人はいないと思います。ぼくは10代の頃、ブラットピットの「セブン」という映画で知ったのですが、先日ノンクリスチャンの友人とその話しをしていたら、マンガの話だと思われていました。「七つの大罪」という題のマンガがあるそうです。



さて、以下は伝統的な七つの大罪のリストです。

七つの大罪

傲慢

(傲慢から全てが生まれるのです。)

虚栄(傲慢とよく一緒にされる)

嫉妬

怠惰

強欲(物欲)

憤怒(怒り)

貪食

色欲



じつはこれよりもっとひどい罪もあります。殺人や盗みはなぜ入っていないのでしょうか。日本語では大罪と表現しますが、そもそも七つの大罪は人が犯す最も重い罪という意味ではありません。悪徳、悪癖など、心にある悪い習慣のことを指しています。いつも心にある悪い習慣が他の罪につながるからです。英語ではCapital(頭)Vices(悪徳)と呼びます。Sin(罪)ではなくVice(悪徳)なのです。それが頭から流れ出ます。

一つのたとえですが、木の根が傲慢で、その木から七つの大罪が枝分かれして、それぞれがさらに枝分かれしてもっと色々な罪になるのです。例えば殺人は傲慢から始まります。自分は人より優れている、あるいは優れた者になりたいと思っていると、それが嫉妬につながるかもしれません。兄弟が自分より勝っていて面白くないと思えば、それが憎しみに変わるかもしれません。自分に勝っている兄弟が、憎らしい、破壊したいと思ってそれが殺人という行為につながっていく。このような流れがあるのです。



ではこの七つの大罪のリストはどこから来たのでしょうか。すべて聖書の中に書かれていますが、1つのセットとしては出てきません。このリストは4世紀にエジプトの砂漠にいた修道士エヴァグリオス・ポンティコスが書いて、そのあとグレゴリウスが整理して、アキナスがそれを深めて、1600年ほどの歴史の中で、キリスト教の信徒がより清い生活を送るために使われています。



このリストの中で、自分に当てはまるのはどれでしょうか。全てです。この罪が自分の中のどこかにあります。なぜ時間をかけて七つの大罪を見ていきたいかというと、これが罪なのだとわかるためです。それを捨てて自分を変えるためです。



今日は、元の罪である傲慢から始めて、傲慢と姉妹のような罪である虚栄について話したいと思います。



●傲慢

現代の西洋では、「自信を持ちなさい。」と言って、プライドを持つことが良いことにされています。最近の東京でもプライドパレードが行われているし、そのパレードが集中する月をプライドマンスと呼んでいます。21世紀の病気は自己愛性パーソナリティ障害ではないかと思うのです。特に西洋から始まって広がっていくのではないでしょうか。恥を感じること、罪悪感を感じること、自分には能力が足りないと思うこと、それに対する薬はもっと自尊心を持つことになっているのです。

「恥を感じるならもっといい人間になりなさい。」「罪悪感を感じるなら罪を告白して善を行いなさい。」このように自分を変えようとするのではなく、自分はこのままでいいのだと信じ切ることが、現代に増えてきている価値観なのです。



聖書の中で傲慢は罪です。箴言をみてみると、傲慢がどれだけ破壊的なのかがわかります。

【箴言16:18】高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。

聖書の中に傲慢に関する例を探してみると、たくさん出てきます。1つの説教で出しきれないくらいの例がありますが、その中で目立つものをいくつかあげてみます。

・ニムロデ

ニムロデはバベルの塔で人類を導きました。

【創世記11:4a】「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。…」

ここから彼らの罪が始まっています。

・ネブカドネツァル

【ダニエル4:29~30】十二か月たって、バビロンにある王の宮殿の屋上を歩きながら、王はこう言っていた。「この大バビロンは王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか。」

ネブカドネツァル王は、自分が作った町を塔の上から見下ろして、このように言ったとたん、神にさばかれて、国が取り去られてしまいました。

・ヘロデ

【使徒の働き12:21~23】定められた日に、ヘロデは王服をまとって王座に着き、彼らに向かって演説をした。集まった会衆は、「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けた。すると、即座に主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に食われて、息絶えた。

このように、傲慢の根本、傲慢の本質は、神の王座に自分が座ることなのです。神の栄光を自分のものにする。これがエデンの園の罪なのです。サタンが「この実を食べれば神のようなものになれる」と約束したことが誘惑でした。なにしろこの誘惑を与えているのはサタンなのです。

・サタン

サタンの罪は何でしょうか。

【イザヤ14:12~15】明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』

他にもこのような例えはたくさんありますが、人々は栄誉を手に入れた時に罪を犯すのです。

ダビデも、自分が建てた町の塔から見下ろした時に罪を犯しました。

ソロモンも世界で一番栄光のある王となった時に罪を犯しました。

弟子たちも、御国が近いと思ったときに、だれが一番偉くなるかでお互いにけんかしました。

【第一ペテロ5:5b】神は高ぶる者には敵対し、へりくだったものには恵みを与えられる。

神はこのような傲慢を忌み嫌い、世界をひっくり返します。

これはハンナの歌にもマリアの歌にも出てきます。

【ルカ1:51~52】主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。

すべての罪の元になる傲慢は、神の座を奪い、神の栄光を自分のものにし、神の上にのぼろうとすることです。なぜそうしたいのかというと、私たちは神の似姿に創造されたからです。神は栄光に満ちて、偉大なお方です。それは素晴らしいことなのです。私たちも神を見たときにそうなりたいと思うのです。その栄光を神から受けるのではなくて、自分の手段で取ろうとする。それで神はそのような者を破壊するのです。

【イザヤ42:8】わたしは主、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。初めのことは、見よ、すでに起こった。

歴史を見ると、人間の傲慢がどれほどの力をもつのかがわかります。偉大になりたいリーダーが戦争を起こします。今でもそのような戦争があります。戦争がなくても、国づくりの中で、どれだけの人々が苦しんで働いて重い税金を払って抑圧されているのでしょうか。



●虚栄

虚栄は傲慢から出て来る罪で、傲慢に似ている罪です。

これはかなり自分たちに近いものになると思います。まず皆さんに言いたいのは、説教で罪の話をするときは、だれかを指摘するためではなく、話している私の罪のことでもあるということです。実際に七つの大罪の説教の準備をしているときには、自分を鏡で見ているようでした。だから皆さんもまずは自分の目の中にある梁(はり)を取ることに集中しましょう。

虚栄は傲慢に近いものです。しかし違いがあります。

ある能力があるとします。自分がほしい能力です。この能力があれば人より優れた者になれる能力です。

ある人はその能力を持っているが、そのことをだれも知りません。

ある人はその能力はないけれどみんなは自分がその能力を持っていると思っています。

実際に持っているけれどそのことをだれも知らない状態か、持っていないのにみんなが持っていると勘違いする状態か。あなたはそのどちらを選びますか。

実際に持っているけれどだれも知らない状態を選ぶのは傲慢の方です。実際に自分が人より優れた者になりたいと思っています。

後者を選ぶのは虚栄の方です。持っていても持っていなくても関係なく、人の目に何が映るのかを一番大事にしています。

今の時代ほど自分のイメージを作り上げることができる時代はありません。インスタグラム、フェイスブック、ティックトック、リンクトイン、ユーチューブを見ると、人が何を見ているのか、自分がどのように映っているのかを見ることができるし、それを操作することもできます。人が自分を見たときに、幸せで、成功している。そんな自分を見せたい。気づかれたい。好かれたい。良く評価されたい。これだけでは罪ではありません。すべての罪は良いものを曲げたものですが、正しい人から正しく評価を求めたり、愛を求めるのは悪いことではありません。子どもは親に注目してほしいし、私たちも神の子どもとして神に正しく評価されたいのです。ダビデも次のように神に祈っています。

【詩篇26:2~3】主よ 私を調べ 試みてください。私の心の深みまで精錬してください。あなたの恵みは 私の目の前にあり あなたの真理のうちを 私は歩み続けました。



ではこれがいつ虚栄になるのでしょうか。行き過ぎたときです。ほしいという思いが強すぎたり、間違ったところから栄誉を求めようとするときです。この罪は、自分でも気づかないうちに、ものすごく小さいところから入って来たりすることがあります。よく、自分より先に他人が気づきます。自分がどれだけがんばったのか。どれだけ徹夜したのか。だれもやりたくない仕事をやった。そのようなちょっとしたアピールをしたい。私たちが成功のストーリーを話すときも、だいたい自分が少しよく見えるようにします。おおげさに話したり、うそをついたりして自分が良く見えるように話します。場合によっては、注目がほしくて自分を悪く見せることもあります。賢くなくても賢く見られるようにテストでずるをしたり、ゲームでずるをしたりします。

人と議論するとき、自分の方が正しくて知識があることを見せるために絶対にあきらめない。良い大学、良い会社、立派な職につくのは、もっと御国のために実を結ぶためでもあるかもしれませんが、もしかしたら一生人に自慢するためかもしれません。自分や子どもが良い学校を卒業したら一生自慢できる。場合によっては、虚栄のために目立つ成功を目指して、親が子どもにプレッシャーをかけることもあります。教員として進路指導部で働いていたとき、このようなことは少なくありませんでした。

現代のビジネスを見ると、虚栄を求める人をターゲットにしたマーケティングは多いと思います。例えば表参道を歩くとそれを感じます。服、バッグ、車などを、ただ自慢するためだけに高い値段で売っています。そういう現象が私たちのこの文化にあります。

日本人は虚栄の問題はないと思うかもしれませんが、じつは虚栄には二つの種類があります。一つは傲慢な虚栄。自分の良さをみんなに見せつけたい思い。もう一つは恐れおののく虚栄です。自分の欠点を人に見られるのが怖い。

目立ちたがり屋でなくても、自分のイメージを守るために隠れることはあります。

目立ちたがりは西洋、特にアメリカにありますが、日本は自分を低くする謙遜の良さをとても良く理解している国だと思います。それと同時に、神の栄光をどのように求めるべきなのでしょうか。



教会の中では、成長すること自体が虚栄を求める誘惑になったりします。周りの人が、自分がどんなに謙遜なのかに気づいてほめてくれる。虚栄は良いことがあるとその良いことが誘惑になります。

よく聖書を読んで、よく祈って、自己犠牲的に仕えている。これも虚栄を求める誘惑になったりします。自分が持っている良いものが誘惑の元になります。

では虚栄はそんなに危険なものなのでしょうか。そんなに悪いことなのでしょうか。

1つは、虚栄は習慣で、他の罪につながる恐れがあります。例えば虚栄のせいで、自分に関して、あるいは人に関してうそをつくことになるかもしれません。人前で威張ることを自分で止めることができない。周りの人がうんざりしていてもやめられない。そのうちに人は嫌がって離れていきます。それなのにやり続けるので、人間関係がうまくいかなくなります。

2つ目の問題は、自分について良く言われたいので、お世辞やほめことばが得られる行いに力を入れてしまいがちなことです。本当は必要な働きなのに目立たないと無視します。場合によってこれは臆病にもつながります。人の目を気にして、自分の評判が悪くなることを恐れて、正しいことをやらなくなってしまうのです。

3つ目の問題は、神に栄光を帰さないで自分の栄光を求めることにあります。人の目ばかりに集中すると、神の目が見えなくなって、結果的に神の真理を求めずに自分が偽善者になってしまいます。じつは、パリサイ人やユダヤ人がイエスを信じなかったのは、これが原因だったのです。

【ヨハネ5:40~44】それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。わたしは人からの栄誉は受けません。しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。

虚栄は小さなことではありません。当時のイスラエルを見た時に、悪者はパリサイ人だとはだれも思いませんでした。それなのにイエスはこの罪を非常に厳しくさばいています。

【マタイ6:1~6】人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。

ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。

あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

パリサイ人が虚栄を求めていたからこそ、イエスに評判を落とされたことが許せなかったのです。それでイエスを殺しました。傲慢な人に傲慢を見せるのは危険なことです。私たちも自分の傲慢を見せられたら、どんなを反応するでしょうか。



この罪の誘惑に打ち勝つために、どうすればいいのでしょうか。

自分がどれだけ低いかを見せればいいのでしょうか。もちろんそんなことはありません。

3つのことをお伝えします。

1、静けさ

つまり黙ることです。神に耳を傾けて、周りの人に耳を傾けて、自分が目立つのではなく、自分以外のものに注目します。でもこれは隠れていれば良いというものではありません。神の光が自分の中から出ていなければならないからです。

【マタイ5:16】このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

ここで大事なのは、自分の良い行いを見て、人々が自分をほめるなら何かがおかしいということです。これは間違った結果です。その光が神の光であるなら、人々は天の父をあがめることになるからです。人の目よりも神の目を重く感じて、常に神の御前に自分がいることを覚えましょう。神にどう見られているか、それを意識しましょう。そして神を自分の誇りとしましょう。

2、神からの栄光を求める

神はどのように栄光を与えるのでしょうか。十字架の道を歩んだ者に栄光を与えます。キリストに与えられたその栄光を私たちは求めます。キリストの道を歩めば、最後にキリストのような栄光を受けます。

3、祈り

イエスの祈りというものがあります。

「主イエス・キリスト、神の子よ、罪人なる我をあわれみたまえ。」

【ルカ18:9~14】自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから十分の一を献げております。』

一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神様、罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

傲慢、虚栄の罪の誘惑を感じた時、このイエスの祈りを祈ってください。是非この祈りを暗記して、いつでも祈れるようにしてください。このイエスの祈りは、あのエジプトの砂漠の修道士が祈り始めたものです。



「主イエス・キリスト、神の子よ、罪人なる我をあわれみたまえ。」




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