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「イエスの羊を飼いなさい」使徒の働き9:1〜6、詩篇30篇、ヨハネ21:1〜19、黙示録5:11~14

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


使徒の働き9:1〜6

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いてくるためであった。ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」

彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」



詩篇30篇

主よ 私はあなたをあがめます。

あなたは私を引き上げ 私の敵が喜ばないようにされたからです。

わが神 主よ私が叫び求めると あなたは私を癒してくださいました。

主よ あなたは私のたましいをよみから引き上げ 私を生かしてくださいました。

私が穴に下って行かないように。

主にある敬虔な者たちよ 主をほめ歌え。

主の聖なる御名に感謝せよ。

まことに 御怒りは束の間 いのちは恩寵のうちにある。

夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。

私は平安のうちに言った。「私は決して揺るがされない」と。

主よ あなたはご恩寵のうちに 私を私の山に堅く立たせてくださいました。

あなたが御顔を隠されると 私はおじ惑いました。

主よ あなたを私は呼び求めます。

私の主にあわれみを乞います。

私が墓に下っても 私の血に何の益があるでしょうか。

ちりが あなたをほめたたえるでしょうか。

あなたのまことを告げるでしょうか。

聞いてください 主よ。

私をあわれんでください 主よ。

私の助けとなってください。

あなたは私のために 嘆きを踊りに変えてくださいました。

私の荒布を解き 喜びをまとわせてくださいました。

私のたましいが あなたをほめ歌い 押し黙ることがないために。

私の神 主よ 私はとこしえまでも あなたに感謝します。



ヨハネ21:1〜19

その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。

シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。

シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。

夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。

イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」

イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。

それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。

一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ぺキスすほどの距離だったからである。

こうして彼らが陸地に上ると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。

イエスは彼らに「今捕った魚を何匹が持って来なさい」と言われた。

シモン・ペテロは船に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。

イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」

イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「私の子羊を牧しなさい。」

イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「私の羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」

イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」


黙示録5:11~14

また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。

彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」

また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座についておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」

すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。


イースターは一日だけではなく、一つの節でもあります。イースターからペンテコステまでの五十日間がイースターの節で四旬節よりも長いです。それで今日も復活についてのストーリーをいくつか読みました。最初はパウロの復活、次はダビデの復活、最後はペテロの復活でした。三人ともものすごい闇の中にあって、そこから救い出されて回復されました。今日はペテロの復活に関して見てみたいと思います。ペテロのストーリーはイエスとの関係において長いストーリーです。

ペテロはイエスと三年間、一緒に生活し、一緒に働きました。ペテロにはイエスに対して燃える愛と情熱がありました。何か起きると一番最初に言葉に出して行動していたのがペテロでした。ペテロは弟子たちを導くためにイエスに選ばれていました。しかしそのように選ばれた人はサタンにも狙われます。イエスが最後の晩餐の時に、このようにペテロに話しました。

【ルカ22:31】シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

神に用いられるような器であれば、サタンにも攻撃されるのです。

【ルカ22:32】しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

イエスは、どのようにペテロが失敗するのか、どのように裏切るのか、わかっていました。そしてペテロを回復させる計画も持っていました。でもペテロはそのことを何も意識していませんでした。

【ルカ22:33】シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

ある意味で、ペテロの思いは正しいところにあります。イエスとともに苦しんでいて、イエスと一緒なら死ぬ覚悟もできているという純粋な思いをもっていました。しかし同時にペテロは傲慢でした。自分のことがわかっていませんし、「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:33)」と言ったりして、どこかで優越感がありました。ペテロには、自分だけは絶対に最後までイエスについて行く、という過剰な自信があったのです。

【ルカ22:34】しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

そして実際にイエスが裁判にかけられているときに、ペテロは弟子の一人かと三回聞かれ、その三回ともイエスを否定しました。そしてイエスが廊下を歩いているときに目が合って、ペテロは苦しくて泣きました。これによってペテロの心は折れてしまいました。

そのあと、イエスがむちで打たれて十字架の刑にされたときには、ペテロはそこにいませんでした。女性たちはイエスについて行って全部見ていました。ヨハネもそこにいました。しかしペテロとそのほかの弟子たちは一緒に隠れていました。日曜日の朝早く、イエスが復活したときも、女性たちは墓に行きましたが、ペテロとほかの弟子たちは戸を閉めて鍵をかけて隠れていました。女性たちがイエスの復活を証言したときも、確かにペテロとヨハネは墓まで走って行ってペテロだけが中を見ましたが、何も見ませんでした。結局女性たちの証言を信じませんでした。あれだけイエスが教えたのに、理解できず、信じませんでした。

弟子たちが集まっているところにイエスが現れたので、ぺテロは気づいてやっと信じました。でもまだ心は折れていました。まだ立ち直れていませんでした。自分が弟子たちを導く者としてふさわしくないと深く感じて苦しんでいました。

そのあとペテロは魚を捕りに行こうとしました。漁を楽しもうとしているのではなく、前の生活に戻ろうとしていたのです。ペテロは混乱していて敗北感でいっぱいでした。自分に何ができるのか、自信を持ってできるのは魚を捕ることだけでした。彼には妻も妻の母もいたので家族を養わなければならないというプレッシャーがあったのかもしれません。ほかの弟子たちも一緒に魚を捕りに行きました。

彼らは経験のある上手な漁師でしたが、一晩中頑張っても何も捕れませんでした。闇の中で苦労して働いても何も益がありませんでした。

太陽が昇ると同時にイエスが現れて、そしてイエスが教えた通りに漁をすると、百五十三匹の大きな魚が釣れました。つまり「主が家を建てるでなければ 建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ 守る者の見張りはむなしい。あなたが早く起き 遅く休み 労苦の糧を食べたとしても それはむなしい。(詩篇127:1~2)」のです。イエスなくしての労苦がどれだけむなしいのかを、神様はほかの弟子たちに見せています。戻るところはありません。私たちも同じです。いくら働いてもがんばっても、家族を養うためでも、従業員のためでも、自分のために地上に宝を蓄えようとしている限り、その宝は腐ります。一生懸命働くのが自分のプライドのためだったら、あるいは自分の不安をやわらげる為だったら、結局は自分の手をむなしさでいっぱいにします。そして朝が来たときに何も持っていないことに気づきます。しかしイエスについて行くなら神様は私たちの網をいっぱいにします。私たちが望んでいた以上のことを成し遂げてくださいます。

イエスが逮捕されたとき、ペテロは炭火のそばで声に出して三回イエスを否定しました。しかしペテロが前の生活に戻ったときに、ヨハネからイエスが来ていると聞いて、そのまま飛び込んでイエスのところに走っていきました。ペテロのイエスへの思いはそのままでした。どんなに恥を感じていてもペテロのイエスへの愛は変わらなかったのです。それはペテロにもイエスにもはっきりしています。イエスは炭火のところで朝ごはんに魚を焼いてあげました。匂いは以前の記憶とつながっているし、しかも炭火は独特なにおいがするので、ペテロがその炭火のそばにいたときに何を考えていたか、想像できるでしょう。ペテロは、前回炭火のそばでイエスを否定したときのことを思い出していたに違いないと思います。ペテロはずっと逃げて、隠れていました。漁をするのも現実逃避でした。「自分は使徒を導くのにふさわしくない。自分は岩ではなく、自分の上に教会は建たない。」このように思ってペテロは恥を感じていました。

このペテロを、イエスはどのように復活させたのでしょうか。心の折れていたペテロをどのように治したのでしょうか。どのように奇跡を行ったのでしょうか。

イエスはペテロに質問します。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」(ヨハネ21:15)

ペテロが今までに何をしたかではないのです。あなたはあの時どうしてこうしたのか、ではないのです。ペテロはイエスを愛しています。イエスはそこに注目しているのです。ペテロはこれを否定することはできません。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」(ヨハネ21:15)

イエスはわかっていました。特に日本人は、わかっているならわざわざ口にする必要はないと思うかもしれません。お互いに理解しているなら口にする必要はないのでしょうか。イエスはそう思っていません。本当であるなら、口から出さなければいけない。本当であるなら、もっと深く本当になるように口にしなければならないのです。じつは、私たちが読んだ黙示録の箇所も同じです。

【黙示録5:11~12】また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」

なぜこのように大勢の御使いが同じことばを同時に言えるのでしょうか。じつは、これは歌の歌詞なのです。みんなが同時に歌っているということは、みんなが知っている歌詞なのです。これは私たちの礼拝で実際にやっていることです。大勢が同時に「聖なる、聖なる、聖なるかな。万軍の神。」と歌っています。これが礼拝なのです。

【黙示録5:13】また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座についておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」(アーメン)

これはよく知られている歌詞で、この歌詞を見ると歌わずにはいられないものです。

でも、ペテロがイエスを愛しているのは当たり前のことだから、わざわざ言う必要はないと思うかもしれませんが、これは本当のことで、とても大切で深い真実だから、声に出すことによってこの真実が自分を変えるのです。自分がこの真実に沿って生きる者となるのです。だから口から言葉を出すことが大切です。そうすることによって特に相手との関係性を変える力があるのです。私たちは主を礼拝することによって、主との関係性が変わります。

しかし、明らかにペテロは答えたくないのがわかります。ペテロは「愛している」と言いたくないのに、イエスが強制的に答えさせているのです。ペテロが言いたくない理由はいろいろありますが、イエスに強制的に答えさせられることによって、ペテロに奇跡が起こります。イエスがペテロに三回も「愛している」と答えさせた結果、ペテロが否定した一つ一つが取り消されて、ペテロの折れていた心が癒されて、力を得て、実際に教会の土台となる岩になりました。

イエスはそれでおわりません。「愛している」と答えたペテロに、「わたしの子羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)と言います。イエスを愛しているなら、イエスの命令に従わなければなりません。その命令は子羊を飼うことでした。


この箇所を読んで、皆さんはどう思うでしょう。「私はペテロだ」と思う人も多いかもしれません。皆さんは変われるのに、ただ養われることを待っている羊ですか。それともイエスに呼びかけられている羊飼いですか。私たちにはみんな羊飼いが必要です。羊飼いのいない羊の群れは哀れです。ここでは、私が皆さんの羊飼いです。ラルフ牧師も皆さんの羊飼いです。だれであっても、あなたを牧する者はあなたの羊飼いです。そして私たちみんなの上に、羊飼いの羊飼いであるイエスがいます。私たちのたましいの牧者であり、監督者であるイエス・キリストがいます。そういう意味で、私たちはみんな羊です。

しかし、それと同時に、私たちはみんな羊飼いでなければなりません。自分が親であればそれは言うまでもないでしょう。親は明らかに神の子羊を養わなければならない立場です。夫婦であれば、お互いに養う相手がいるのです。兄弟、特に年下の兄弟がいれば、あなたは兄弟の羊飼いですし、自分の周りに自分よりも体が弱い人、心が弱い人がいるのなら、あなたはその人たちの羊飼いです。自分に食べ物や祈る力があれば人に仕えることができます。人の必要性に気づいて、そのために祈ることもできます。つまり、私たちはいつまでもただの羊であってはいけないのです。赤ちゃんへの神様の要求はゼロです。しかし私たちはいつまでも赤ちゃんでいてはいけません。そのうちに成長して仕える者にならなければいけません。そうしないと、私たちは自分を役に立たない者と感じてしまいます。そして孤立します。人に対して恨みを持ちやすくなります。受けるのが当たり前だと思ってしまう人は、何も受けられなければ怒ります。そんな人になってはいけないのです。御国に属する人は、どうすれば相手に与えることができるかを求めなければならないのです。

【使徒の働き20:35】受けるよりも与えるほうが幸いである。

【エペソ4:28】盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

だから、人が来て、最近どうですか、と声をかけられるのを待たずに、自分の方から声をかけて、相手の状態を知って、祈ってあげるのは大切です。そして、だれも自分のことを招かない、自分は外されている、寂しいな、と思わないで、貧しい人、友がいない人を見つけて、自分の方から招いてもてなしましょう。

これは容易なことではありません。むしろ難しいことです。そして始めるのも続けるのも難しいことです。続けるには、自分に集中して、自分を見つめてはいけません。自分を見つめると、自分の中から自己嫌悪が出てきたり、敗北感が邪魔したり、自分の失敗を見てあきらめてしまって、羊を養うことができないからです。あるいは、傲慢になって、人をねたんだり、ライバル意識をもったり、競争したり、感謝や尊敬を受けたくて、自分のエゴのために小さな群れを作りたがるからです。このような思いがあると、結局は正しく羊を養うことができません。だから自分を見つめてはいけないのです。

でも同時に、羊を見つめてもいけません。自分から出る羊への愛だけでは足りないからです。羊はいつまでも愛しやすいものではありません。自分が愛して働いたとしても、感謝されるとはかぎりませんし、良い反応をしてくれるともかぎりません。良い草を与えようとしても、それを拒否して泥を食べようとするかもしれないし、安全な道に導こうとしても、崖から飛び降りようとするかもしれないからです。もしかしたら他の羊を攻撃するかもしれません。自分に感謝する羊、自分を尊敬する羊、自分にへつらう羊を特別に養って、「これは私の羊で、あれは別の羊だ」と思ってもいけません。いつの間にかイエスの羊ではなく、自分の羊を養うようになってしまうからです。

では、どこに注目するべきでしょうか。私たちはイエスを見つめなければなりません。イエスは私たちの罪を知っていて、それでも私たちを赦して下さったのです。私たちが裏切ったイエスが私たちを信頼してくれています。イエスを目の前で受けているとき、私たちはその愛にこたえることができます。

だから、疲れているときも、落ち込んでいるときも、自分に信頼できないときも、人を信頼できないときも、人に仕える力がないときも、イエスを愛していれば、イエスがあなたを復活させます。

あなたは自分の人生の中で与えられるすべてのもの以上に、イエスを愛していますか。自分の家族以上に、自分の安定した生活以上に、イエスを愛していますか。その愛が自分の行いの土台になります。イエスの羊を養い続けられる理由は、イエスを愛しているからです。そしてイエスについて行っているからです。あなたはイエスを愛していますか。イエスの羊を飼いなさい。




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