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「七つの大罪シリーズ:妬み」

更新日:2023年5月18日

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


ヨハネ福音書11:1-45


今日の朗読はラザロの復活のところでした。少しづつイースターが近づいて来る感じがします。

今日は四旬節の第五主日です。それで前回から始めた「七つの大罪」のシリーズを続けます。

「七つの大罪」といっても、本当は「七つの悪習」という意味です。

前回はすべての悪習の根っこにある「傲慢」という罪について考えて、それから傲慢の姉妹のような「虚栄」について考えました。

皆さんは残りの六つを覚えていますか。

色欲、貪食、怒り、強欲、怠惰、そして今日一緒に考える「ねたみ」です。



皆さんがねたみについて日ごろから意識したり考えたりしているかはわかりませんが、じつはねたみが何なのかが分かると、自分の周りにも自分の中にもあちこちに見ることができるようになります。ねたみはどこにでもあってとても破壊的な罪です。

このように七つの大罪についてよく理解しようとするのは、礼拝で罪の告白がもっと具体的にできるためです。

私たちはこの礼拝の中で数分前に罪の告白をしましたが、その告白が漠然としたものだと、ただ罪の告白をして赦された、と思うだけで、赦されたことを偽善的に考えて家に帰ることになります。だから私たちは具体的に自分の罪を見つけなければなりません。「これが私の罪なのか。この時に、あの時に、私はこのような罪を犯していたのか。それはよくない。神に告白してそのための赦しを得なければいけない。」そこまで自分の罪を理解しなければ、私たちは聖徒、つまりきよい者になることはできないのです。



では、ねたみとはどんな罪なのでしょうか。似たような罪があります。むさぼりです。例えば欲しい車があったとします。そしてその車をだれかが持っていたとします。その時に、「ぼくが欲しかったあの車だ。」というその気持ちが強くなりすぎるとその車をむさぼる罪になります。一方で、その車を持っている人に対して「なんだあいつ、あの車を持っているあいつが許せない。なんであんな奴がお金の無駄遣いをしてあの車を買ったんだ。」と思うなら、それがねたみなのです。他の人が持っている物を欲しがって手に入れたいと思うのはむさぼりですが、それを持っている人を忌み嫌うのがねたみの罪なのです。ねたみと似ていますが違うものもあります。それは嫉妬です。嫉妬は場合によっては罪にならないので少し複雑です。嫉妬は、自分のものを相手が奪うことを許さない心のことです。例えば、自分の妻を他の人が奪おうとすれば嫉妬心が生まれます。これは罪ではありません。しかしねたむ人は、相手が持っているものを奪おうとするのではなく、相手がそれを持たないように、失うようにしたいのです。

ある時、3人の人がランプを見つけました。するとそのランプの中から魔人が出てきて一人一人の願い事を聞きます。

一人目はドイツ人の女性でした。彼女の隣人はとても美しい家に住んでいました。彼女の願いは、隣人と同じような家に住みたいということでした。ただもう少し大きくてもう少しおしゃれな家にしてください、と頼みました。魔人は彼女の願いをかなえてそのような家を与えました。

二人目はフランス人の男性でした。彼の友人にはとても美しい愛人がいました。彼の願いは自分にも同じような愛人が欲しいということでした。ただもう少し美しくて足を長くしてください、と頼みました。魔人は彼の願いもかなえてくれました。

三人目はロシア人の男性でした。彼の隣人の牛はほとんど餌を食べないのに普通の牛の4倍の牛乳を作っていました。彼の願いはその牛を殺してくれということでした。

このロシア人の男性の思いがねたみなのです。相手が持っているものを相手が失うようにしたい。ある著者が、他の罪には楽しさがあるのに、ロシア人の罪は何も楽しくないと言いました。ねたみはただただ嫌な気持ちを与えるだけなのです。

【箴言14:30】穏やかな心は、からだのいのち。ねたみは骨をむしばむ。



ねたみは、聖書の中でどのように出て来るでしょうか。

ねたみは社会にも教会にもあちこちにある罪なので、当然聖書にもたくさん出てきます。よく出て来るのは罪のリストの中です。

【マルコ7:21~23】イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。

聖書には、このような罪のリストがたくさんあって、その中によくねたみも入っています。

しかしねたみの印象が一番深いのはストーリーで学んだ時でしょう。聖書の中にはねたむ人の話がたくさんあります。最初のねたみのストーリーはカインとアベルです。

【創世記4:4b~5a】主はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。

これは典型的なねたみです。

まず兄弟同士であること。聖書の中で、よく兄が弟をねたみます。なぜならねたみの根っこには傲慢があるからです。兄は、弟が当然自分より劣っているはずだと思っているので、弟が自分より勝っていると許せないのいです。何事もいつも自分と比べている相手に負けると許せなくなってしまいます。カインはアベルを見下していたのです。そして神様が自分よりもアベルのささげ物に目を留めたことも受け入れられず、神に対しても怒っているのです。だから神様が愛するものを破壊したい思いになり、神に愛されていたアベルを殺します。

兄弟関係なら、ヨセフとその兄たちも同じです。兄たちは、父が自分たちより弟を愛しているのが許せなかったのです。弟の方が優れていて、良い人でした。だから殺意の方に走ります。

私たちの社会でよく見るストーリーも聖書にあります。民数記16章のモーセとアロンに対する反乱です。

【民数記16:1~3】レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか」

スケールの大きな反乱です。部族長250人が集まってモーセとアロンに立ち向かっています。このときはまだ祭司という特別な存在がいませんでした。アブラハム、ノア、イサク、カイン、アベルと同じようにだれでもいけにえをささげることができました。その意味でみんなが平等で、同じようにきよい時代だったのです。

ところがここで神様が新しい制度を作りました。祭司たちと民を区別して、歴史上初めていけいにえをささげて良い人とささげてはいけない人に分けたのです。今までいけにえをささげていた部族長たちはこれからはもうできなくなりました。それが彼らにとって面白くありませんでした。自分たちの神に近い立場がモーセとアロンに奪われたと思ったのです。

【詩篇106:16~18】彼らが宿営で 主の聖徒 モーセとアロンをねたんだとき 地は口を開け ダタンを呑み込み アビラムの仲間を包んでしまった。その仲間の間で火が燃え上り 炎が悪者どもを焼き尽くした。

神がどれだけねたみを忌み嫌うか、それを感じます。

聖書を読めば他にもたくさんの例が出て来ます。

ラバンの息子たちはヤコブをねたみました。創世記31章

ミリアムとアロンも弟モーセをねたみました。民数記12章

サウロはダビデがゴリアテと戦って勝利したのでねたみました。それが殺意につながりました。第一サムエル17章

バビロンの君主たちはダニエルをねたみました。これも殺意につながりました。ダニエル3章

モルデカイのことをハマンがねたみました。そして殺そうとしました。エステル記5章

パウロとバルナバはアンテオケにいたユダヤ人にねたまれて、パウロは殺されそうになりました。使徒の働き14章

本当は一つ一つ見て、ねたみとはどういう罪なのかを一緒に考えたいのですが、皆さんの時間のある時に是非読んでみてください。



ぼくは一番中心的なねたみのストーリーを飛ばしました。それはだれのことでしょう。そうです。イエス・キリストです。イエスがラザロをよみがえらせたとき、ユダヤ人のねたみが頂点に達しました。

【ヨハネ11:46~48】しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったこと(つまりらざろの復活)を告げた。祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を招集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」

結局ユダヤ人のリーダーたちは民の尊敬がほしかったのです。多くの人について来てほしいのに、イエスが現れました。イエスはユダヤ人リーダーたちよりずっと優れていました。イエスがいると、自分たちがどれだけクズなのか民にわかってしまいます。

【ヨハネ11:53】その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。

また殺意に走ります。

【マルコ15:8~13】群衆が上って来て、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。そこでピラトは彼らに答えた。「おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。」ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ」

イエスはアベルのように自分の兄弟に殺されました。このねたみの罪がどれだけ人間の社会に影響を与え、人間の歴史に影響を与え、破壊的で、サタンに利用され、サタンの大好きな罪なのかがわかります。



あなたの中にねたみはありますか。それをどうやって見つけることができますか。だれでもだれかを心の中でねたんでいるはずです。絶対そうだとは言い切れませんが、ねたむ相手がいる確率は相当高いと思います。あなたはだれかをどこかでねたんでいます。でも気づいていないことが多いのです。例えば怒りを感じるときは、自分が怒っていることを実感できます。そして友だちのところに行って怒りをぶちまけることもあると思います。

怒りとは違い、ねたみは隠れている罪です。ねたみを感じた時、だれかに「私は今すごくあの人にねたみを感じています。」とは言わないのです。ねたみは基本的に自分でも気づけていないし、自分に隠す罪です。自分をコントロールする罪で、自分でも気づいていないから危険な罪なのです。

ではなぜ自分にも人にもねたみを認めないのでしょうか。そこには結局プライド、傲慢があるからです。だれかをねたむときは、その人が自分より勝っていることを認めている瞬間です。でも自分より勝っていると認めたくない相手だから、微笑んで余裕があるように見せて、ほめて、ねたみを隠します。余裕があるように見せないとねたみがばれてしまうから。それで代わりに隠れたところでその人をどうやって破壊できるかを企みます。これがパリサイ人のやっていたことです。


これがねたみかどうか自分で探るために、いくつか自分に問いかけてみましょう。

・あなたには、この人が認められているのを見ると面白くない、という人がいますか。彼らが成功していると、これはあなたが思っているほどすごいことではないのですよ、と言ってその人を引き降ろそうとしませんか。

自分はもっと現実的に見ようとしているし、その人が傲慢にならないためにほめないようにしているだけと言うなら、それは競争心です。そしてその人の足を引っ張ろうとします。

・あるいは、あなたには、その人が失敗するとうれしく思ってしまう人はいますか。その人が失敗したときに、自分が威張るチャンスとして使っていませんか。自分が第一志望の大学に落ちたとき、その人も落ちたことが分かった時、ほっとして余裕が生まれますか。あいつは自分の実力がわかっていなかったから高望みしちゃったんだ、と言うかもしれません。またはだれかがビジネスに失敗してお金を失った。こうなると言った自分のアドバイスを聞かなかったからだと言えるのがうれしいと思っていませんか。

似たようなことがあってもねたみとは限りません。例えば発熱している人すべてがコロナに感染しているわけではありません。しかし発熱したとき、そしてコロナが流行っているなら、検査した方が良いです。もしかしたらコロナかもしれないから。

同じように、自分が似たようなことをしていると思ったら、ねたみかどうか検査してみてください。万が一ねたみだったら、とんでもないことです。

・自分をだれと比べていますか。結局ねたみは同等の人に対する感情なのです。特に自分が大切だと思っている、自分のプライドのある分野で同等のはずの人に抜かされるとねたみを抱きやすいと思います。例えば、自分の価値が収入になるとします。つまり自分の富がプライドです。イーロンマスクが自分よりお金があっても何も気になりませんが、教会で立派な時計をつけて隣に座っているあの人のことは気に入らないのです。ねたみは、腕時計に金を使いすぎだとか、その時計は趣味が悪いなど、批判として出て来ます。ピアノが上手い人がいてもねたまないのは、その人にとってピアノはどうでもいいものだからです。その人のプライドがピアノにはないから気にしないのです。でもある人をねたんで、その人が醜い高い腕時計にお金を使い過ぎていることについて、他の人もそれを知らなければならないと思って行動し始めたのなら、それは危険です。

聖書はねたみと陰口をよく一緒にします。ねたむ人はよく陰口を言います。ライバルの友人がその人を見下すように仕向けるかもしれません。

ねたみは兄弟同士の問題です。だから、特に教会内を破壊する罪なのです。なぜなら私たちはみんな兄弟姉妹だからです。

そして競争心は人から人にうつりやすいのです。相手は自分に対抗心を持っていて、自分が失敗すると相手が喜ぶから、失敗したくない。このように相手の競争心に飲み込まれることはよくあることです。



では、私たちはどのようにこの罪に打ち勝つことができるのでしょうか。

1,兄弟を愛することです。必要なら、敵をも愛します。

【第一コリント13:4】愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

愛をもっていれば、たとえ相手が自分をねたんだとしてもその人を許すことができます。競争心に引きずられません。

2,喜ぶ人とともに喜びなさい。

【ローマ12:15~16】喜んでいる者たちとともに喜び、泣いているものたちとともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の高い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。

私たちは同じ一つのからだなので、同じ神経系につながっているはずです。それなら他の人の喜びや苦しみ、痛みも感じるはずです。喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者とともに悲しめば、ねたまないために自分を守ってくれます。そしてさらにねたむ人を変えることができます。愛も人から人に移るからです。

3,それが御国のためになるなら喜ぶべきです。

例えば荒野でモーセに逆らった人たちがいました。今度は別のときに二人の男性が宿営で預言をしていました。ヨシュアは危険を感じて、モーセにその人たちを止めてくれるように頼みました。預言者としてのモーセの立場を守りたかったからです。

【民数記11:29】モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

パウロも同じ心をもっていました。ライバルがパウロを苦しめようとして福音を伝えていました。

【ピリピ1:18】しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方で福音が宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。

4、ねたみに打ち勝つために神を恐れましょう。

【詩篇37:1~3】悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ 青草のように枯れるのだから。主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。

神が支配して、すべてを見ていて、必ず報いてくださることを信じていれば、ねたみから救われます。そして自由になって、愛、喜び、謙遜、寛容、このようなものを追いかけることができます。



ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。第一ペテロ2:1~2




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