説教者:ベンゼデク・スミス牧師
「復活を信じている者として生きる」
だれかに福音を1分で説明してくださいと言われたら、皆さんはどう話しますか。
パウロはこのように説明しました。
【第一コリント15:1~8】キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
パウロは、人々がイエスを信じるために証言しています。
これが福音だとすれば、色々な意味があります。
・福音は哲学や思考ではないということです。
確かに福音を信じるとそこから出て来る哲学はあります。しかし福音自体は哲学ではないのです。もし福音が哲学であるなら、私たちは教会の代わりに学校に行くはずです。儒教みたいに学びに行きます。クリスチャンになるために勉強して学位を取るはずです。それなのに私たちは水で頭がぬれてキリスト教徒になります。
・福音は政治的なアジェンダ(政策における重要課題)でもありません。
つまり私たちが「このように行動してください」と政府を説得する必要はないのです。確かに政府がキリスト教になれば色々変わります。そして国を治める時に、国の頭がキリストであることを認めて治めますが、イエスの王国はそのようなものではありません。それで私たちは投票所ではなくて教会に行きます。
福音とは何でしょうか。
福音とは、ストーリーです。神様が何をしてくださったのか、そのストーリーなのです。
私たちの造り主である御父が、罪人である私たちを愛して、その愛する御子を私たちのために死なせたのです。そしてその御子が死んで復活して天に上られた。今もそこから天と地を支配していて、この世を神の愛と救いへと導いています。
私たちは毎週二ケア信条によってこのストーリーを告白しています。そして今日は洗礼式があったので、使徒信条でもこのストーリーを読みました。
イエスがよみがえったストーリーがまことで真実であると信じることができるのは、そ証言する多くの証人たちがいたからです。イエスはたくさんの人に現れました。個人だけでなくグループにも現れました。イエスを実際に見た人たちがまた他の人に伝えて、それが書物に残されたので、私たちは新約聖書として持っています。確かに、人が死んだあとで復活するなんて、これほど革命的で奇跡的なことは、たくさんの証言と証拠がなければ信じることはできません。
だからイエスは四十日間色々なところに現れて、たくさんの人に会い、一緒に食事もしました。
私たちが自分の世界観で説明できないものにぶつかったときは、それを否定するか、自分の世界観を変えるしかありません。復活したイエスに出会った人たちは、この事実を否定することができなかったので、世界観を変えました。世界が変わりました。弟子たちはイエスが亡くなった金曜日に、恐怖のあまり絶望し、部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。その弟子たちがそこから出て、勇気をもって福音を伝えました。彼らは変えられました。
パウロも敬虔なユダヤ教徒で、その熱心さは教会を迫害するほどでした。しかしパウロも復活したイエスに出会って、福音の偉大な宣教師となりました。そして彼らはことばでイエスが復活したことを証言したのですが、それだけではなく復活を信じている人のように生きました。イエスが復活したのだから自分も復活すると本気で信じているような生き方をしました。
彼らの言葉だけではなく、彼らの人生そのものが証言なのです。
復活が確かなら、私たちの生き方においても死に方においてもそれが一番大事な事実です。
自分たちがいつか死ななければならないことを実感したとき、その事実を無視しない限りその人の生き方が変わるとよく言われますが、さらに私たちが死んだ後に復活すると信じることができたなら、どれだけ生き方が変わるでしょう。
一方で、もし私たちが復活を信じてそれを告白しながら、まるでこの人生しかないように生きているなら、だれも私たちの証言を信じることはありません。
しかしイエスは復活しました。復活したイエスのいのちが自分のうちにあることを信じるなら、自分の幸せのために生きるはずはありません。この人生が終わるまでにすべての良いものを味わっておかなければこれ以上チャンスはないという生き方をするはずはありません。
復活がないなら、私たちは不正を耐え忍ぶことはできません。この世にある悪や苦しみを見た時に、私たちは怒って復讐心をもつかもしれません。あるいは、何かやろうとしても無駄だから、絶望してそれを無視して何も感じないようにしようとするかもしれません。さばきがなくて悪いことをする人たちが得をしているように見えるなら、自分が損しないように悪の道に走ってしまうかもしれません。
復活がないなら、この人生の十数年間が、私たちが幸せを感じる唯一の機会です。そしてだからこそ当然私たちは必死にこの人生のうちに報いを求めます。その幸せを求めるために真実を捨てたり、愛する人を裏切ってしまうかもしれません。もしかしたらこの人生において幸せになれないと思い始めて、それに気づいてしまったら生きる意味がわからなくなるかもしれません。
しかし復活があるなら、この人生はただの始まりです。始まりなら、私たちは今のうちに、神の真実、善、美を求めて生きることができるのです。なぜならこの人生はある意味で投資、犠牲、神にささげるいけにえだからです。そして私たちは死の向こう側にその報い、正義、癒しが待っています。そうであるなら、私たちはこの人生において報いを求めずに忠実に働くことができます。そして私たちは復讐を求めずに不正を甘んじて受けることができます。
【マタイ5:39】しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
私たちを、苦しみや死で脅かす人がいたとしても勇気をもって生きることができます。私たちにはキリストの十字架を背負ってキリストに従う勇気と力が与えられます。なぜならイエスの十字架の道をたどって行けば、必ず神の栄光と復活につながることがわかっているからです。
この復活とは、キリスト教ではからだの復活です。キリスト教では受肉の信仰と言います。
【第一ヨハネ1:1~3】初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
初めからあったいのちのことばとは、永遠のことば、永遠の神のことです。ことばなのにどうやって見るのか、手でさわるのか。これが受肉したみことばなのです。
【第一ヨハネ1:2】このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
イエスがこのいのちなのです。永遠のいのちであるイエス・キリストは目に見えるいのちなのです。
【第一ヨハネ1:3】私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
しつこいですよね。でもヨハネはこのポイントが伝わるように繰り返し「自分の目で見た」「じっと見つめた」と言うのです。そして耳で聞き、手でさわりました。これが受肉したイエス・キリストです。
これは最初に人間として生まれたイエスだけではなく、復活したイエスについても言っています。
ところが、イエスが復活して永遠のからだをもっていると聞いてがっかりする人たちがいました。例えば、当時のギリシャ人です。彼らの文化ではアイデアの世界(頭の中の世界)の方が現実よりも優れた世界だと思っていました。からだを持っているものはからだがないものよりも劣っているという考え方でした。
また、イスラム教徒にとって、神は完全な霊で、肉において表すことはできないものでした。だからモスクに行くと壁に何の絵もなく、ことばやパターンのデザインしかありません。根本的にことばで部屋を飾ります。なぜなら、彼らのいのちのことばは目で見えるものや手でさわれるものではないからです。
私たちの時代においても、からだよりデジタルの方が優れているという考え方があります。皆さんの中で、マトリックスという映画を見たことがある人はいるでしょうか。この映画にはエージェント・スミスというコンピュータープログラムが出て来ます。このスミスは人間のからだが大嫌いで、それを見下しています。スミスはその匂い、汗、汚さに耐えられません。自分はコンピュータープログラムだからきれいで完璧なデジタルだと思っています。
残念ながら、私たちは少しづつ自分のからだから離れ、お互いのからだから離れる生活に向かっています。子どもたちは小さいときからiPadやiPhoneでアニメを見ています。実写でもなく二次元の世界のアニメです。そして時々大人の男性が肉でできた女性よりも初音ミクと結婚したがります。私たちは自分の頭の中にあるものの方が神様がお造りになった世界よりも大事だと思いがちです。最近では、自分が男性、あるいは女性だと思っていればそれが現実で、からだがどちらかなのかは関係なく、自分の頭の中にある性別だけが大事だと考える人たちもいます。
その中で、キリスト教は、からだは良いもので神からの賜物であると主張し続けています。私たちがこのからだを無視したり、このからだそのものを超えるもの(霊以外で)を求めたりはしないのです。からだは大事にするもので愛するものです。なぜなら神様はこの肉のからだをあがなって、霊のからだとしてよみがえらせてくださるからです。だから私たちはzoom会議ではなくて、教会に来るのです。神様は私たちを同じ部屋に集めます。そこで私たちはお互いに聖なる口づけをします。(私たちはそこまではしませんが。)
【第一テサロニケ5:26】すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをしなさい。
これはからだが同じ場所になければできないことです。
【第一テサロニケ5:27】この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるよう、私は主にあって堅く命じます。
みんな同じ場所に集めて、みことばを読み聞かせなさいということです。
そしてさらに神様が私たちを集めるのは、私たちがイエスのからだであるパンとイエスの血であるぶどう酒をいただくためです。
【ヨハネ6:55〜56】わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
この宴会は天で行われます。今、イエスのからだは天にあり、私たちは天に上ってイエスと交わりをします。
【へブル12:22〜24】しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。
つまり、天にいる義人はまだ霊であると書いてあります。私たちはキリストのからだと血をパンとぶどう酒において見てさわることはできますが、キリストをこの目で見ることはできません。実際は遠く離れているものでもあります。だからこれは本物であると同時に前味でもあります。これからもっと良いものが来るという約束であり、影でもあります。だから私たちは復活を待ち望みます。
復活した時に、私たちはイエスとともにいて、すべての聖徒、天使たちとともに神の御前に集まることができます。ですから私たちは続けて証人として生きて、私たちの言葉を通しても、生き方を通しても、私たちが本当にイエス・キリストを信じて、その復活を信じている者のように生きていきましょう。
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