説教者:ベンゼデク・スミス牧師
ヨハネ6:51〜58
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」 それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
今日はとても大切な説教です。なぜなら、ヨハネ6章は聖餐式を理解するために非常に肝心な箇所だからです。そして私たちがここで毎週何をしているのかを理解するためにもとても大切です。ここで何をしているかを考えるとき、礼拝とは何か、聖礼典とは何か、生きることとは何か、神様の世界は何のためにあるか、そこまですべてが含まれます。イエスが私たちに聖餐式を与えたのは私たちが一つになるためでした。「パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。(第一コリント10:17)」
しかし宗教改革より少し前から、聖餐式は教会を分裂させる問題でした。宗教改革のとき、ミサに関してプロテスタントとカトリックはかなり議論しましたし、プロテスタント同士でもたくさん議論してきました。一番有名な出来事はルターとツヴィングリによるマールブルクの宗教会議(1529年)です。当時、神聖ローマ帝国は武力を使ってプロテスタントを強制的にローマ・カトリックに引き戻すように圧力をかけていました。この圧力に対抗するためにスイスの改革派とドイツのルター派が神学的な調停をするためにドイツのマールブルクで会談を行いました。宗教改革はスイスの改革派とドイツのルター派に分かれていましたが、この両者が手を組んで一致すればローマカトリックに対抗できるのではないかと考えたのです。この会談には特にドイツで影響力のあったルターとスイスで影響力のあったツヴィングリを中心におもだった宗教改革の指導者たちが集まりました。彼らは互いの宗派を超えていろいろなことに合意しましたが、一点だけどうしても合意できなかったのが聖餐式でした。聖餐式でキリストのからだが私たちと共にあるのかどうかという点で一致できなかったのです。ルターはイエスがパンを裂いて「これはあなたがたのための、わたしのからだ(第一コリント11:24)」と言ったのを文字通りに理解すべきだと言い、ツヴィングリはそのパンはイエスのからだを象徴するものだと解釈していました。二人はどうしてもこの問題を解決できませんでした。最後にツヴィングリがルターに手を伸ばしたのですがルターがそれを拒んだのでツヴィングリはその場で泣き出してしまいました。ツヴィングリにとってルターはヒーローだったのでどうしても一緒に歩みたかったのですが、ルターはツヴィングリの手を取りませんでした。
この問題は、それから五百年たった今でもプロテスタントの間でも議論が続いています。ハイデルベルク信仰問答にもこの問題が出て来ます。ハイデルベルク信仰問答は私たちの教会の信仰基準に含まれています。
ハイデルベルク信仰問答第80問
問 主の晩餐と教皇のミサには、どのような違いがあるのでしょうか。
答 主の晩餐が証していることは、主ご自身が、ただ一度、十字架上で成し遂げて下さった、唯一の犠牲によって、わたしたちが、わたしたちのすべての罪の完全な赦しを得ているということ、いま、真実の体をもって、天で父の右の座に着き、そこで、礼拝されることを求めておられるキリストと、わたしたちが、聖霊によって一体とされるということ、であります。
しかるに、ミサが教えていることは、生きている者も死んでいる者も、キリストが、かれらのために、なお、日ごとに、司祭たちによって、犠牲として捧げられるのでなければ、キリストの苦難によっては、罪の赦しを得ることができないということ、そして、キリストは、身体的にパンとブドウ酒の中においでになり、それゆえ、そこで、礼拝されるべきである、ということであります。それゆえ、ミサは、根本において、イエス・キリストの唯一の犠牲と苦難の否定にほかならず、呪うべき偶像礼拝にほかなりません。
この第80問は最初から入っていたわけではなく、ハイデルベルク信仰問答ができてから百五十年後に付け足された問いでした。第80問はプロテスタントの聖餐式とカトリックのミサにはどのような違いがあるのかという問いです。この問いに対する答えは長いのですが、最後に「ミサは…呪うべき偶像礼拝にほかなりません。」というとてもきつい言葉で終わっています。じつは近年の改革派の教団ではこの部分がかぎかっこに入っていたり、他の方法でもともと入っていないことを説明したり、言葉を付け足して「これは正確にカトリックの立場を表現していない」と書いたりして、教会員に対して縛りのない言葉にしています。20世紀になってなぜこのように変化してきたかというと、徐々にお互いについて読んだり話し合って、自分たちが相手について何を知っているかを論破するのではなく、相手を理解しようとしはじめたからです。しかし私たち人間は自然に自分と同じ立場の人の話を聞きたがります。相手の説明や論破を聞いて、こっちでよかったと安心します。でもそれだと相手を正確に理解することが難しくなってしまいますし、自分の成長も妨げられてしまいます。それによって最終的に教会の中で一致することが難しくなり、自分はその状態にとどまって、相手の方がおかしいと思い込んでしまうのです。そして教会によってはこの状態は好都合だと思っています。なぜなら、みんなが相手を危険だと思っていればこの教会から出て行かないからです。そうなると一つの教会に残るための間違った理由を与えてしまうことになり、兄弟に対する寛容も持ちにくくなってしまうのです。
イエスのうちにとどまり、イエスによって生きることができるように、イエスの言葉を一緒に見たいと思います。
⚫️わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」 それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。 (ヨハネ6:51~52)
ユダヤ人は物理的に考えてイエスを誤解しました。イエスが誤解をといてくれれば良かったのに。「ただの比喩ですよ」と言ってくれれば良かったのに。
それでも他の時にイエスは以下のような説明をしています。
【マタイ16:6〜11】イエスは彼らに言われた。「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」 すると彼らは「私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、自分たちの間で議論を始めた。 イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。 まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。 七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。 わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」そのとき彼らは用心するようにとイエスが言われたのはパン種ではなく、パリサイ人やサドカイ人たちの教えであることを悟った。
⚫️ イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 (ヨハネ6:53~54)
このヨハネ6章のとき、イエスはどのように自分のことを説明したのでしょうか。じつはイエスは説明するどころかもっと強い言い方をしています。日本語の翻訳には出て来ないのですが、イエスは自分のことばを和らげるどころかもっと強くします。54節以降で「食べる」という言葉はギリシャ語にはなくて、「かじってよく噛んで食べる」というギリシャ語が使われています。イエスは具体的なイメージを抱くように話しています。もちろんイエスの肉をかじって食べているイメージ、血を飲んでいるイメージです。イエスは聞いているユダヤ人に反感を抱かせましたが、二千年後に聞いている私たちにとっても衝撃的です。これはあまり具体的に想像したくないし、何かがおかしいと感じます。でもイエスは自分を信じないユダヤ人を混乱させるために言っているのではなく、弟子たちにも繰り返して言っていました。
【マタイ26:26】また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
イエスが十字架上で死んだあとも使徒たちはこの伝統を続けました。
【第一コリント11:23〜25】私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
使徒たちは一度も「ほかのものを指す比喩としてパンと言っています」と説明していませんでした。もし比喩でなければどのようにこのことばを考えていたのでしょうか。イエスが「わたしの肉をかじりなさい」と言ったとき、弟子たちがイエスにかみついたのではないでしょう。イエスのからだがそこにあって、手に持っているパンを裂いて「これはわたしのからだです」と言うのです。これをどう理解すればよいのでしょうか。聖餐式のぶどう酒がイエスの血なのでしょうか。
⚫️わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。(ヨハネ6:55)
イエスは55節でこのように説明します。ある意味でここに答えがあるのです。私たちは普通に口から入れてお腹に入るパンのことをまことの食べ物と言います。そしてイエスのからだはまことの食べ物に似ている要素があるのでパンを比喩として使いやすかったのです。だからイエスのからだはまことの食べ物に似ているものだと自然に考えます。私たちは地上の現実から入るからです。泳ぎが上手い人を見て「この人はまさにに魚だ」と言ったとします。でももちろんその人にヒレやエラがあると思って言っているのではありません。魚と共通する要素があると言っているだけなのです。
同じように、私たちはイエスのからだを本当にかじってエネルギーを得るのではなく、聖餐式でパンをいただくことによって瞑想したりして霊的なエネルギーを得ることができるように感じて、私たちがパンを食べるときにイエスのことを思い出して、励まされていのちを得る、と思ってしまうのです。
別のたとえをすると、指輪を相手に渡して「これは私の愛です。これをつけたときに私を思い出してください。」と言った時には、その指輪に込められた思いを通して、相手が励まされて自分の愛を感じることを願っています。このような考え方が、聖餐式を『象徴』としてとらえる見方です。
ルターはこの見方を忌み嫌っていて、じつはカルヴァンも、英国国教会を導いていたトーマス・クランマーも、カトリックもこの見方を否定しています。しかし結局、私たちは聖餐式を受けるときに、大切なことはすべて頭の中で起きていると思いがちです。イエスは本当の意味でここにはいないが、彼は天にいて、私たちは地上にいて、このパンという象徴を通してイエスのことを思っている、という考え方です。そのように考えると、ここにミステリーはありません。ミステリーとはナゾや逆説です。ミステリーと言ったのは、聖礼典のことをギリシャ語でミステリオン(神秘)というからです。そしてこのような象徴的な見方をするならば、聖餐式は聖礼典ではなくなります。聖礼典とは天と地をつなげる神の働きなのに、その働きがなくなってしまうのです。ミステリーをなくすと私たちにとって納得しやすいし、信じやすくなります。啓蒙運動に影響を受けた現代人は、自分の五感や理性を通して本当の真実を悟ろうとします。
私たちの周りの世俗の考え方、あるいは自然な人間としての地上の考え方にはものすごく力があるので、私たちの神に対する見方にも影響を与えてしまいます。数年前にカトリックの間である調査が行われました。その中の一つの質問は、「聖餐式は単なる象徴だと思いますか」というものです。カトリックは化体説(けたいせつ:パンとぶどう酒が本当のイエスのからだであるという考え方)を信じているはずですが、「ただの象徴である」と答えた人は75%でした。これはカトリックの教理に反します。それなら恐らくルター派も改革派も75%以上の人たちが象徴的に考えているのではないかと思います。なぜかというと私たちにとって一番わかりやすい見方だからです。ある意味で人間として聖餐式の意味を逆にしてしまっているのです。イエスが話していたユダヤ人たちもこのように地上的に考えていました。
じつはイエスがわたしの肉はまことの食べ物だと言う時、私たちが口にしてお腹に入れるのはまことの食べ物ではなく、まことの食べ物を指す影なのです。本物と影というたとえを使っているのですが、つまり結婚のようなものです。まことの結婚はキリストと教会の結婚です。地上の結婚はすべてまことの結婚を指す一時的な消え去る影のようなものです。だからといって意味がないわけではなくて、だからこそ意味があるのです。まことの結婚を反映するものだから意味があるのです。すべてのいのちはイエスから出て来ます。その意味で地上のいのちもパンも水も空気もすべてイエスのいのちを私たちに与えているのですが、イエスは聖餐式を通して天のいのち、永遠のいのちを提供しています。そのいのちを得るために私たちはイエスご自身を食べて飲みます。まことの食べ物を食べて飲むのです。しかも信仰を持って食べて飲む必要があります。
なぜこれがまことなのでしょうか。古代教会の時代からパンはパンである。それと同時にイエスのからだでもある。これらは逆説であると同時にまことです。それに対して中世からカトリックはこれはパンではないと言い始めました。パンに見えるし、パンの味もするがもうパンではないという教えなのです。本質がイエスのからだに変わっていると言います。これは間違っていると思いますが、聖礼典としては成り立ちます。イエスは私たちと共にいます。多くのアナバプテストはこれはパンであってイエスのからだではないと教えます。エホバの証人もモルモン教もこのように教えます。カルトはかならず逆説を取り除こうとするからです。三位一体もほかの逆説もなくしてなるべく信じやすい人間に合った宗教を作ろうとします。これはパンであるけどイエスのからだではないという反対の立場をとります。イエスを覚えることには役に立つけれどイエスはここにはいません。それで聖礼典としては機能しません。彼らがなぜ頻繁に聖餐式をやらないのか納得できます。第一コリントでは「あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。(第一コリント11:26」)というようにパンという表現を使っています。パンではなくなることはありません。同時にイエスのからだでもあります。これが逆説です。目に見えないことですがイエスのからだです。これに信仰が必要なのです。目に見えないものを信じるのが信仰です。これはイエスのからだだから天と地を結び合わせる儀式、聖礼典なのです。
451年のカルケドン公会議ではイエスの神性と人性について、「混同なく、変化なく、分離なく存在します(ベン牧師独自の翻訳)。」一人の人間に神性と人性が存在します。この表現を教父たちは聖餐式を説明するために用いました。さきほどの英国国教会のクランマーも他の多くの改革者たちもこの概念を使っていました。今だに正教会は同じ説明をします。つまり天と地が一つになっているように、霊と肉が一つになっているように、神と人間が一つになっているように、イエスの受肉のように、イエスのからだとパンが一つになっています。
どのように一つになっているのでしょうか。これに関してはずっと議論している人たちもいるし、逆説として信じて受け入れる人たちもいます。一生懸命説明しようとするのがカトリックと改革派で、ルター派と正教会はあまりそこは追求しません。でも最終的にこれは私たちの理解を超えるものというところにたどり着きます。そこは共通しているところです。
なぜこれが大切なのでしょうか。
⚫️わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。(ヨハネ6:56)
ある意味で聖餐式に関する理解があってもなくても足りなくても間違っていても、真実は変わりません。私たちの理解にかかっているのではありません。信仰は必要ですが、神が行動して私たちにいのちをあたえるわけなので、心配する必要はありません。そしてこれを食べて飲むことによってイエスは私たちをイエスと一つにしてくださいます。イエスを食べるとか血を飲むということばを避ける必要はないし、怖がる必要もありません。イエスと一つになって、私たちがイエスのうちにとどまること、イエスが私たちのうちにとどまること、これが私たちの存在の目的です。私たちが向かっているところです。神は生ける者の神です。私たちが神と一つでない限り、神のいのちを得ることができません。
⚫️ 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。(ヨハネ6:57)
イエスが私たちの唯一のいのちです。それならイエス以外のものはすべて死なのです。死にはいろいろな段階があって、生きているように見えても死んでいます。イエスがいのちのパンであるなら、他のパンは死のパンです。イエスは神に感謝(ユカリスト=聖餐式)して、パンを裂いて私たちにくださいました。神に感謝していただくパンはすべて神様が私たちにイエスにあるいのちを与えるために用いる手段なのです。感謝していただかないパンは死のパンです。
なぜ命のパンを食べたいのでしょうか。それは愛のためです。二人が愛し合う時、一緒に食べたり、一緒に住んだり、いつまでも一緒にいたいと思うでしょう。イエスは私たちの花婿です。なぜ聖餐式を受けたいのかというと、私たちがイエスを愛していて、イエスに対して飢え渇いているからです。私たちを愛してくださった御父にたどり着くためにはイエスしかいないのです。だから私たちはこれから聖餐式にうつりたいと思います。これはパンとぶどう酒です。同時にこれは私たちのために与えられる主イエス・キリストのからだ、私たちのために流された主イエス・キリストの血なのです。
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