説教者:ベンゼデク・スミス牧師
マルコ13:1〜8
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」 イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。 「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」 それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。 また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。
詩篇16
神よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。 私は主に申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」 地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。 ほかの神に走った者の痛みは増し加わります。私は彼らが献げる血の酒を注がずその名を口にいたしません。 主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。 割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。 私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。 私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。 それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。 あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。 あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。
ヘブル10:11〜25
さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。 なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。 聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、 「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と言われるからです。 罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。 また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。 約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。 また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。
ダニエル12:1〜3
その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。
最近、教えている高校で、神が存在するかしないかよりもSDGsの方が大ごとで意味のあることだと生徒に言われました。最終的には神がいてもいなくても何も変わらないからもっとSDGsについて話したほうがいいと言うのです。
しかし私たちが今日礼拝で朗読した四つの箇所は、神がどんなに大切な存在かを私たちに教えてくれます。四つともこの世に希望をもたらすストーリーを教えてくれます。
戦争に直面しても、戦争の噂を聞いても、飢饉や災いが周りに起きても、病気や老衰や死に直面しても私たちには希望があります。今日の四つの箇所はそのことを教えてくれています。神がいるから私たちは光のうちを歩んでいるのです。神のみことばがあるから、世の中に何が起きているかという大きなストーリーが見えています。だれがこの世界を導いているのでしょうか。それは私たちの主と私たちの神イエス・キリストなのです。
さらにこの大きなストーリーの中で、私たちがどのような役割を果たさなければならないのかも教えてくれています。
今日は四つの箇所を通してどのような世界観とストーリーが伝えられているのかを見てみましょう。
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」 イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。 「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」 それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。 また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。(マルコ13:1~8)
イエスは弟子たちとともにエルサレムの神殿が見えるところにいます。弟子たちは神殿がどれほど美しく優れた建物なのかを語りますが、イエスは、これはすべて滅ぼされる、と言いました。これはどのユダヤ人にも大変な災いに聞こえます。完成間近の、神に栄光を帰する偉大なる神殿が破壊されるなどとんでもないことでした。しかしイエスはさらにもっと大変なことが起きると言います。偽りのメシアが大勢現れて、多くの人を惑わすのです。そして戦争のうわさを聞き、飢饉も起きます。しかしイエスはこれらは災いではないと言います。これらは残念な出来事ではなく、新しいいのちへの道、産みの苦しみだと言います。つまりこれから新しい時代が来るしるしなのです。キリストが王として支配する時代のしるしなのです。
【マルコ13:24~27】しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。
文脈を見てみると、イエスはこの世の支配者を突き落とします。この世の支配者とはまずは悪霊たちです。神から礼拝を奪おうとした悪霊たちです。そしてもちろん彼らについて行った人間たちもそうです。たとえば自分が王だと主張したファラオやネブカドネツァルたちです。私たちが聖書を読むとき、力ある権威あるものが月や星などの天体にたとえられるのは違和感があるかもしれませんが、その違和感を乗り越えるために世界の国旗を思い出してみてください。日本の国旗は太陽だし、モルディブの国旗は月です。トルコの国旗には月も星もあります。アメリカの国旗には星がたくさんあります。現代でも権威のある国々のことを天体を通して考えたりします。イエスが天にあるもろもろの力を揺り動かして悪霊たちを天から突き落とすのです。
【ヨハネ12:31】今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。
これは悪魔のことです。代わりにイエスが天のいと高き方として王座につきました。イエスは天地を支配して神の会議を支配します。
【ヘブル10:12〜13】キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。
十字架のあと、イエスは天に権威が与えられて、地上のすべてのものがイエスに従うまで待っています。
【ダニエル12:1】その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。ちりの大地に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。
神はどの国の民も天使に預けました。イスラエルはミカエルが導いていました。だからミカエルのことを「あなたの国の人々を守る大いなる君」と呼んでいました。ユダヤ人がからだの復活を信じていたのは、一つにはこの箇所があったからですが、じつはこの箇所は最後の復活の話をしているのではありません。すべての人が目覚めるとは言っていなくて、多くの者が目を覚ますと言っています。これは歴史の中の復活についての話しです。そしてイスラエルの復活について話しています。エゼキエル37章と平行します。
【エゼキエル37:9〜14】そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言っている。『私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた』と。それゆえ、預言して彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしの民よ、見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る。また、わたしが、あなたがたのうちに、わたしの霊を入れると、あなたがたは生き返る。わたしはあなたがたを、あなたがたの地に住まわせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語り、これを成し遂げたことを知るーー主のことば。」
神様が捕囚の地バビロンからイスラエルを集めて国として生き返らせたように、メシアが来ると神の民を復活させます。しかしメシアが来た時にすべてが自動的に救われるのではありません。さばきをもたらす神なので、祝福される者と呪われる者が存在します。イエスがこの働きをなすためにミカエルだけではなくて多くの天使たちを使います。
【マルコ13:27】そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。
御使いたちとは、もちろん実際の天使たちも含まれますが、それだけではありません。神様がこの地上で何かの働きをするときに、私たちも用いられます。
天使たちが私たちに力を与えて、私たちを強めて働きます。だから御使いには私たちが含まれるのです。聖徒たちも神の救いのために送り出される者なのです。悪い人たち、邪悪な人たちが悪霊から力を得ているように、私たちは神が送ってくださった天使によって力を受けて働いています。そうすると次のみことばが成就します。
【ダニエル12:3】賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。
聖書に、星、天体、天の万象と書いてあったら、基本的に天使と思ってください。天が揺るがされて落とされた悪霊の代わりに、私たちがこの世の神の光として輝くのです。本来は天使が神の光を地に照らすはずだったのに、彼らは神に逆らったので私たちが代わりにこの世の光となる必要があります。そして天体のようにこの世を支配するのです。これらの箇所は最後のさばきや最後の復活ではなくて、十字架からAD70年の神殿の破壊とその時期に来る変化に集中しています。しかしもちろん私たちはこの話から最後のさばきがどのようになるかを知ることが可能です。最後の日はそれまでのさばきの最終版で偉大なバージョンで、途中の小さなさばきは最後のさばきのために私たちに準備をさせるものです。教育用語を使って説明すると、形成的評価はすべて総括的評価に向かっていると言えます。
十字架でイエスはたった一度、罪のためのささげ物をささげました。
【ヘブル10:12〜13】キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。
イエスはその働きを完成します。AD70年に神殿が破壊されて、モーセによるいけにえ制度が終りました。またアロンの祭司制度も終わります。その後は一つの大祭司しか残りません。その大祭司はメルキゼデクのようなイエス・キリストです。
【へブル5:10】(キリストは)メルキセデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。
イエスがどのようにメルキゼデクに倣うのかというと、祭司でありながら王であるからです。アロンは祭司、ダビデは王でした。イエスはメルキセデクのようにイエスにあって一つとなります。
【へブル10:11~13】祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。
アロンの祭司たちは毎日立っていけにえをささげていました。なぜなら彼らの働きが終わっていないからです。しかしイエスは完全に働きを完成して座ります。そして支配します。それによって全世界が変わります。だから私たちクリスチャンは完全に赦されたものであり、完全に幸いな者なのです。周りにどんな災いがあったとしても、私たちは生きることも死ぬことも恐れません。今やキリスト・イエスにある者が罪に定められることも決してありません。神のさばきを恐れる必要もありません。このように宇宙のストーリーが私たちを慰めて私たちに勇気を与えてくださいます。私たちは神がだれなのか、何をなしているのかを知りながら歩んでいます。だから光の内を歩んでいるのです。そしてさらに神様が私たちにどうしてほしいのかも知って歩んでいます。そこがへブルが次に言うところなのです。
イエス・キリストがこのような救いをもたらしたのなら、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。何をすればよいのでしょうか。二つの具体的なことをへブル書は教えてくれます。
1、礼拝を通して、聖餐式を通して、私たちは神に感謝を捧げる。
2、神の御使いとして自分も周りの人もきよい生き方へ導く必要がある。きよさを求める必要がある。
【ヘブル10:19】こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
私たちはイエスの血によって聖所に入ります。そしてイエスの肉体を通して新しい生ける道を歩むことができます。これは明らかに聖餐式を指すことばです。
【ヘブル10:22】心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。
心に血が振りかけられて、からだをきよい水で洗われる。バプテスマの時にこれが起きます。私たちは自分の信仰を礼拝で告白する必要があります。そのあとさらに生きることを通して告白に一貫した生き方をします。
【ヘブル10:23】約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。
私たちは神を礼拝します。そして洗礼とバプテスマを通して神に近づきます。
しかし私たちは一人だけではきよくなることができません。聖徒たちのコミュニティの中にいる必要があります。そしてお互いをきよさへと導き合う必要があります。
【へブル10:24】また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。
集まる習慣を避けている人たちもいるということです。当時の教会に行きたくない人たちは、もしかすると私たち以上の理由があるかもしれません。教会に行くとクリスチャンであることが目立つので迫害されるかもしれないからです。
私たちも教会に行きたくないことはたまにあると思います。それでも教会に来なさいとへブル書の著者は言っています。一つは神を避けないことです。神は私たちの父であり、主であり、私たちにいのちを与えてくださるお方なのです。だから私たちが神を避ける理由は何もありません。だから大胆に全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。
もう一つは、他のクリスチャン、自分の兄弟姉妹を避けないことです。場合によっては教会にいることはストレスかもしれません。あなたが好きではない人、あなたを好きではない人、あなたのことを嫌っている可能性がある人がいるかもしれません。兄弟の罪が見えてしまって、その人の顔を見ると罪を思い出してしまうかもしれません。あるいはもしかしてあなたの方が責められているとかあなたの方が罪人だと思われているのかもしれません。しかし神様が私を赦してくれたので、私たちも兄弟を赦さなければなりません。
神様は私たちのさばき主なので、たとえ兄弟があなたを赦さないとしても、あなたは赦されています。だから罪を犯した人たちを避けたり無視したりしてはいけません。彼らが罪のうちにいるなら、私たちは彼らにひき返らせる責任があります。それは難しいことなので注意を払う必要があります。
もしかしたら、教会を避けたい理由が周りの人たちとあまり共通点がないからということかもしれません。どうしてもつながらないと思うかもしれません。
【エペソ4:4】からだは一つ、御霊は一つ、主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。
これ以上の共通点はありますか。これが私たちみんなにとって一番大事なことであるなら、私たちは兄弟の交わりを求めることができるはずです。神を愛して、神の民を愛するから教会に行きます。
【詩篇16:2】私は主に申し上げます。「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにはありません。」
だから神を避けず、神を求めて礼拝に来ます。
【詩篇16:3】地にある聖徒たちには威厳があり 私の喜びはすべて 彼らの中にあります。
私たちの喜びも聖徒たちの中にあるのです。この詩篇16篇は心の状態を話しているのではありません。私たちを礼拝に導いているのです。
【詩篇16:4】ほかの神に走った者の痛みは 増し加わります。私は 彼らが献げる血の酒を注がず その名を口にいたしません。
つまり悪霊どもを礼拝しない。悪霊を礼拝する儀式の中に血を飲む儀式が含まれていたりします。血を飲んで悪霊からいのちと力を得るためなのです。しかしダビデはこう言います。
【詩篇16:5】主はわたしへの割り当て分 また杯。あなたは 私の受ける分を堅く保たれます。
私たちのいのちと力は主ご自身の杯から来ます。キリストの契約の血から私たちに永遠のいのちが与えられます。だから世界がどんな状態であっても、自分が愛する人がどんな状態であっても、私たちには平安と喜びがあります。イエスが祭司として、王として支配していることを確信しています。イエスはよみがえりです。いのちです。イエスを信じている者は死んでも生きるのです。
それゆえ私の心は喜び 私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。 あなたは私のたましいをよみに捨て置かず あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。 詩篇16:9~10
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