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「モーセとイエス様の申命記」

  • 2025年6月15日
  • 読了時間: 12分

説教者:ラルフ・スミス牧師


これから待降節まで、私が説教するときは、申命記を通して一緒に考えたいと思う。


申命記はモーセによって書かれた書物である。そして同時に申命記はイエス様の書物である。

今日はこの二つの観点から申命記を一緒に考えたい。


⚫️申命記とモーセ

申命記はモーセによって書かれた書物である。しかし今の時代の一般的な学者たちは、申命記をモーセの書物とは考えていない。なぜなら、申命記があまりにも優れているので、このような書物を申命記の時代にモーセのような人物が書いたとは信じ難いというのだ。学者たちは、申命記はアッシリア帝国の時代に、アッシリア帝国とバビロン帝国の色々な知恵を借りて書かれたものではないかという。それが今の聖書をあまり信じていない学者たちの定説である。皆さんは驚くかもしれないが、一般的な神学校や大学の旧約聖書の学者たちは、聖書を神のみことばとしてそんなに深く信じていない。それで申命記をモーセの書物として見ないで、バビロンやメソポタミアの学問を借りてモーセの名前にされていると考えている。


もちろん、聖書を信じる学者はそのようには考えないが、私たちがこのような現代の定説を考えるときに何を思い出すべきかというと、出エジプト記に書いてあるモーセの歴史である。

モーセは赤ちゃんの時にファラオの娘に引き取られて、ファラオの娘の息子になって、エジプトの貴族として育てられた。紀元前千五百年頃のことであるが、当時のエジプトはどの国よりも学問が優れていた。だからモーセは六歳から二十歳まで、非常に優れたすべての分野の高いレベルの教育を受けた。その後二十歳から四十歳まではエジプトの貴族として働いた。モーセが四十歳になったとき、エジプト人がイスラエル人をいじめているのを見て、結局そのエジプト人を殺してしまった。それがエジプト中に知られたと思い、エジプトからミディアンの荒野に逃げた。


ミディアンに行ったモーセは四十年間イテロのところで羊飼いとして働いた。イテロはミディアン人だがアブラハムとケトラの子孫なので、アブラハムの神様を信じていて、祭司であった。モーセはイテロのところで羊飼いとして働いて、毎日みことばの交わりをしていたはずだと思う。


モーセが八十歳になった時にシナイ山で神様に出会った。神様はモーセに、イスラエルに戻って神の民イスラエルをエジプトから導き出すように命じたので、モーセの最後の四十年はイスラエルと共に荒野にいた。


このようにモーセの人生は簡単に四十年、四十年、四十年と分けることができる。これは使徒の働き7章のステパノの証しの中ではっきり語られている。

モーセがイスラエルをエジプトから導き出して、シナイ山に着いたのがペンテコステの時である。その時にモーセに神のみことばが与えられた。出エジプト19章でシナイ山に着いて、20章で十戒が与えられて、21章から出エジプト記の最後までは律法の説明と天幕の説明になる。

レビ記が与えられた時もシナイ山にいた。民数記の10章になってやっとシナイ山から離れることになったので、モーセとイスラエルはシナイ山で二年間かけて律法を与えられたことになる。

シナイ山を離れて歩み始めたが、イスラエルは神に逆らって残りの三十八年の間ずっと荒野を旅しなければならなかった。エジプトを出て四十年目の1月にミリアムが亡くなり、五月にモーセとアロンが神様に逆らって、違うことをやってしまって神の怒りを招いてしまった。それでアロンもモーセも荒野の中で死ななければならなかった。申命記は四十年目の11月からモーセがイスラエルに説教として話た内容である。モーセは四十年の最後に失敗して約束の地に入ることができなかったが、その時にこの申命記を説教として書いた。申命記はモーセが受けた優れた教育がなければ書けない書物であった。同時に、モーセが間もなく死ぬというところになって、イスラエルに心を尽くして最後に話しかけることばとして残された。モーセはイスラエルが罪を犯さないで、神様の命令に従って歩むように励ましている。申命記はモーセの心からの説教である。その中で特に第五戒と第一戒の命令を強調している。私は昔、第五戒について1冊の短い本を書いた。第五戒を守るなら神様は二つの祝福をくださると約束している。長く生きることと、幸せになるということである。

【申命記5:16】あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じたとおりに。それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである。

この二つの約束は、申命記の中でずっと繰り返されている。ベートーベンの交響曲第五番(運命)は有名だが、最初の四つの音が印象的で、曲の間ずっと繰り返されている。それと同じように申命記の中にもこの二つの約束が繰り返し出てくる。長く生きて幸せになることは、箇所によって両方出てきたり、箇所によって片方だけ出てきたりする。このように繰り返されるテーマとして出てくるのは非常に面白い。

しかしもっと面白いのは、モーセがその約束について話す時に、父と母を敬いなさいという命令を繰り返すのではなく、イスラエルが神様を恐れて、神様の命令を守るように励ましているということである。つまりイスラエルの神様を天の父として考えて、あなたを愛してくださる天の父に従って歩みなさい、そうすれば長く生きて幸せになるよ、というメッセージが込められているのである。そのテーマは申命記の中にずっと出てきて、モーセは第五戒の命令の大切さを強調している。

第一戒も同様に強調されている。第一戒は本当の神様のほかに他の神々があってはならない、というものであるが、モーセの十戒は次のように始まっている。

【申命記5:6】わたしはあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

モーセの十戒は恵みから始まっている。ルーテル教会と改革派教会の神学の大きな違いは、ルーテル教会が律法から始まるのに対して、改革派教会は恵みが先に来るということである。

ルーテル教会は律法を聞いて自分の罪を感じて悔い改めることから始まるが、改革派教会は神の恵みを信じて、神への感謝の心を持つことから始まり、感謝をどのように表して歩むべきかは律法が教えてくれる。これはハイデルベルク教理問答の中にはっきり出てくる。クリスチャンが律法に従うのは神への感謝がはっきりしているからである。まず私たちを愛してくださった神の恵みに感謝して、神の律法に従って歩むのが改革派の神学なのである。


申命記の中で第五戒が強調されているのと同じように、第一戒も強調されている。

申命記5章で十戒が与えられて、6章から26章まで順番に第一戒から第10戒まで具体的に社会に適用する教えを与えている。その中で申命記6章から11章までは全て第一戒についての教えとなっている。他のどの命令よりも深く広く第一戒を扱っている。このように第一戒は申命記の中で強調されている。


⚫️申命記とイエス様

イエス様は申命記を自分の書物として受けて、他の書物よりもよく引用している。それが一番目立つのはイエス様がサタンに誘惑された時に三回も申命記から答えていたことである。


サタンが「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。(マタイ4:3)」と言うと、イエス様は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。(マタイ4:4)」と答えられた。これは申命記8章の引用である。

【申命記8:3】それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。


サタンが「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。(マタイ4:6)」と言うと、イエス様は「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。(マタイ4:7)」と答えられた。これは申命記6章の引用である。

【申命記6:16】あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。


サタンがイエスを高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。(マタイ4:8~9)」と言うと、イエス様は「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。(マタイ4:10)」と答えられた。これも申命記6章の引用である。

【申命記6:13】あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。また御名によって誓いなさい。


イエス様のサタンに対する答えは全て申命記6章から8章までにある。先ほど説明したように、申命記6章から11章までは全て第一戒の適用である。イエス様が申命記の第一戒からしか引用していないということは、イエス様が主のみを礼拝し、主のみを愛し、主のみに従うというはっきりした天の父への堅く美しい信仰を持っている表れである。第一戒の命令の適用の箇所からしか引用していないのも非常に興味深い。


ある時、律法の専門家がイエス様を試そうとして、「モーセの律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と尋ねた(マタイ22:35~36)。するとイエス様は次のように答えた。

【マタイ22:37】「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

これは申命記6章の引用である。

【申命記6:5】あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

申命記6章は、ユダヤ人たちが毎日の信仰告白として唱えるように神様に命じられた箇所である。イスラエルの神が唯一の神であるから、心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、主を愛さなければならない。イエス様はイスラエルの意味を成就するメシアである。イエス様こそ神の子である。出エジプト記3章で、神様はイスラエルを自分の息子として導いたが、イエス様はそれをはっきり認識して、神様の命令を守って本当のイスラエルの姿を見せる。イエス様は本当に人生の全てのことにおいて神様を第一にして、天の父に従って歩んだ。


イエス様は御父を喜ばせることを行なっていた。神様に従って歩み、神様を喜ばせる生き方の模範をイエス様は示してくださった。イエス様はどのように御父を喜ばすことができるかを日々求めていた。御父のみこころを行うにはどうしたらいいのか、イエス様は朝から晩まで心をつくして思いを尽くして力を尽くして求めて、天の父に従った。その御子が私たちに人間が歩むべき道を示してくださって、その模範を与えてくださった。その意味でイエス様の申命記という言い方ができると思う。


私たちが旧約聖書を読むときに、モーセやイザヤの観点だけで読むことはできない。イエス様がすべてを成就したからである。復活した後で、イエス様はエマオに向かう弟子たちに、モーセや預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを説き明かされた(ルカ24:27)。さらにイエス様は四十日間繰り返し弟子たちに現れて、どのように旧約聖書がご自分のことについて書いてあるかを説明した。ペンテコステの時に御霊が与えられて、弟子たちの旧約聖書についての理解が成長したので、パウロやペテロが書いた書物を読むと、旧約聖書が全て主イエス・キリストを中心にしていることがわかる。

その中でもいけにえ制度は非常に明白である。主イエス・キリストが十字架上でご自身をささげてくださったからである。


そして本当のイスラエルはどのような思いを持って生きるべきかを、イエス様は私たちに教えてくださった。

例えば、イエス様がサマリアの女性に会った時、その機会を用いて福音を伝えている。弟子たちはイエス様を見て驚いた。当時のユダヤ人の男性は、公然の場所で女性と話したりはしないからだ。イエス様はそのユダヤ人の偏見を無視して、その女性を憐れんで、心からその女性に福音を伝える(ヨハネ4章)。

イエス様はパリサイ人であるニコデモも憐れんで福音を伝えて、彼が悔い改めて救われるように導いた(ヨハネ3章)。福音書の中で繰り返しイエス様が積極的にユダヤ人たちに福音を伝える姿を見ることができる。

偉い人も憐れんで、低い人も憐れんで、人を癒して、イエス様が私たちに心を尽くして思いを尽くして力を尽くして神様を愛することを見せてくださった。隣人を自分と同じように愛しなさいということを、実際の具体的なストーリーで見せてくださった。

永遠なる神の御子が私たちに模範を示してくださった。そこから私たちは学ばなければならない。


山上の説教の時にイエス様は山に登って、そこに座って律法を教えている。ご自分が新しいモーセであるかのように見せて教えている。その中で律法の本当の意味を教えている。その時代のイスラエルがどんなに律法から離れてしまっているのかをみんなに教えて、みことばの本当の理解がどこにあるかを伝えてくれている。

愛の一番の道は、心を尽くして思いを尽くして力を尽くして神を愛することである。そして二番目の道は、隣人を自分と同じように愛することである。これをイエス様の働きの中で見ることができる。クリスチャンが申命記を本当の意味で理解するためには、イエス様を通して申命記を読まなければならない。その時に、私たちが心を尽くして思いを尽くして考えなければならない。これは神に対する愛に含まれる。力を尽くして実際に行い、心を尽くして神を愛する。イエス様がその模範を全て私たちに見せてくださっている。


私たちはモーセの十戒を毎週告白するが、聖餐をいただくときに、自分の罪を悔い改めて、そして自分の罪の赦しの宣言も受けて、イエス様が私の罪のために死んでくださったその愛に感謝する。そして私たちも自分を生きたそなえ物として神様にささげて、イエス様のように心を尽くして思いを尽くして力を尽くして神を愛する生き方をする。その中には隣人を愛する愛も含まれる。

私たちの周りにいる99%の人はイエス様を知らない。そのサマリヤの女性はイエス様のことを知らなかったが、イエス様が積極的に伝えた。そのように私たちも神を愛し、隣人を愛して主イエス・キリストの模範から学んでそのような歩み方をしようではないか。



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