「モーセとイエス様の申命記 第2回」
- 2025年6月29日
- 読了時間: 12分
説教者:ラルフ・スミス牧師
この申命記の学びは、モーセとイエス様の申命記を考えるシリーズである。
今日は、モーセとイエス様の申命記の不思議な大切な背景の一つを考えて、申命記全体の流れを簡単に描き、申命記の中の第五戒について一緒に考えたいと思う。
⚫️モーセとイエス様の申命記の不思議な深い背景
【ヨハネ1:14a、18】ことばは人となって私たちの間に住まわれた。…
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が神を説き明かされたのである。
イエス様はことばなる神で、このお方が人となって私たちの間に住まわれた。そしてだれも神様を見たことがない中で、御子イエス様が私たちに神様を解き明かしてくださった。
しかしイエス様が受肉によって初めて神を表す働きを始めたわけではないし、ヨハネもそのような意味では言っていない。この御子の働きは昔からずっと同じようにあった。旧約聖書の中で、神様が形を持ってご自分を表しているところは、基本的に御子による働きである。しかし受肉によってイエス様が御父を表す働きはもっと深く、広くなって、その光はもっと強く輝くようになった。
エジプトを旅立ったイスラエルが、マサでモーセと水のことで争ったので、神が岩を打てと言った出来事があった(出エジプト17:6)。パウロはそのことを指して、その岩はキリストであると言う。
【第一コリント10:4】みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。
つまり受肉前でも、神様がご自分を表しているときは御子の働きなのである。
モーセがまだミデヤンの地にいた時に、燃えている柴から「モーセ、モーセ」と呼ぶ神の声が聞こえて、エジプトに行ってイスラエルの民を救い出し、約束の地に導き上るように召しを受けた。その声も受肉前のヤハウェである。御子が御父の栄光を表してモーセに命令を与え、モーセがヤハウェなる御子に従ってエジプトに戻った。ヤハウェなる御子がモーセにみことばを語って教えてくださった。
申命記は旧約時代の書物であるが、今度はイエス様が受肉して申命記を学んで申命記を繰り返し語っている。
このように三位一体なqる神の御子の働きは申命記を考えるため大切な深い背景になる。
⚫️申命記全体の流れを簡単に描く
次に、申命記の構造を思い出していただきたい。
申命記の構造は非常に契約的な構造であるが、わりと簡単な構造として見ることができる。もちろん他の分析もあり得る。バッハの音楽も、いくつかのレベルで分析できると書いてある本を読んだことがある。その本には、この観点からも分析できるし、あの観点からも分析できるし、それらがお互いにする矛盾するのではなくて調和している、と書いてあった。聖書も他の書物もそうだと思う。
非常に簡単に申命記の全体的な流れを考える。
1、超越 聖書は神様からのみことばである。
2、上下関係
3、倫理 申命記5章から26章までの長い箇所。
4、祝福と呪い
5、相続
モーセの十戒は申命記5章で与えられているが、これは契約の構造の倫理について教えているところである。そして6章から26章まではモーセの十戒を第一戒から第10戒まで順番に適用している。私はこの分析を大学院でも神学校でも聞いたことはなかった。スティーヴン・コフマンというユダヤ人が申命記を一生懸命勉強して分析して、申命記には十戒の適用が順番に書いてあるということを記事などにした。その記事を読んだ福音派の旧約聖書の学者ウォルター・カイザーがコフマンの影響を受けた学者となった。ジェームズ・ジョーダンもそれを少し変えたが似たような分析をしている。彼も申命記にモーセの十戒の適用が順番に書かれていると言う。
申命記の十戒の教えは契約の構造の倫理の部分にの中にあるが、なぜモーセが神のみことば(律法)をここまで強調して、十戒を順番に適用するように教えるのだろうか。
それはモーセが約束の地に入ることが許されなかったからである。モーセは申命記を語り終えたら死ぬ。申命記はモーセの最後の言葉なのである。
しかしイスラエルは約束の地に入るので、モーセはまるで自分の子どものように愛しているこの民に、約束の地に入ってからどのように生きるのかを心を込めて語っているのである。あなたたちが約束の地に入ってこのように生活するなら、必ず契約の祝福が与えられる。それでモーセは6章から26章までずっと神様の命令の具体的な適用を語っていた。
この部分について、これまで私は二つのことを強調してきた。一つは、申命記6章から11章までは全て「神を愛しなさい」ということだ。6章から11章までは第一戒の命令の適用なのだが、その最初のところにこのように書いてある。
【申命記6:5】あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
これが申命記全体の 一番基盤のところである。そしてモーセの第一戒の心なのである。第一戒は「他の神々があってはならない」と否定的に言うが、それを肯定的に言うなら「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くしてヤハウェを愛しなさい。」である。モーセはこのことを繰り返し強調する。
二つ目は第五戒(父と母を敬え)が強調されているということである。私はそのことについて小さな本を書いた。「Hear My Son(聞け、我が子よ)」というタイトルである。
救い主なるヤハウェはイスラエルの天の父なので、彼らがヤハウェを尊敬して命令に従って歩むなら長く生きて幸せになるという約束が与えられるということだ。申命記の中で第五戒の適用を教えているのは16:18~18:22までである。たとえ申命記の全体的な構造について我々の立場を認めない人でも、この箇所が明らかに第五戒の命令の適用であることは認めている。
16章の第五戒の適用は、さばき人やつかさの教えから始まり、その後で祭司(レビ人)、王、預言者の教えが続く。旧約聖書の中で、祭司と王と預言者は油を注がれて任命される大切な職務なので、さばき人やつかさの話から始まるのは不思議に思うかもしれないが、出エジプト記を思い出してほしい。19章でイスラエルがシナイ山に着いた時、神はイスラエルにこのように宣言した。
【出エジプト19:4~6】『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』
この恵みの宣言をしてくださってから律法が与えられた。十戒は次のように始まる。
【出エジプト20:2】わたしはあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
モーセの十戒は、神様がイスラエルをエジプトの奴隷から救い出した神の恵みの宣言から始まる。だから他の神々があってはならないのである。恵みは律法の前に来る。これがルーテル派と改革派の違いである。
ルーテル派は恵みより律法が前に来る。人は律法によって罪を感じるので、神の恵みを求めるという順番である。だから彼らは旧約聖書は律法で、新約聖書は神の恵みという解釈をする。
しかし改革派は、まず恵みが与えられて、愛された者として、その愛に答えるためにクリスチャンとして生きるにはどうするべきかを律法によって教えてくださると教えるのが改革派の信仰である。
神様はイスラエルを宝の民、祭司の王国として恵みを与えてくださり、出エジプト記20章で十戒を与えてくださった。出エジプト記21章から23章でその具体的な適用を説明し、24章で神様とイスラエルのリーダーたちと契約の食事をして、25章から40章までは天幕と祭司の服について教えている。
出エジプト記18章では荒野にイテロがやってきて、民の問題をモーセが朝から夕方まで一人で取り扱っているのを見た。民は何か問題が起きるとモーセのところに来るので、モーセは双方の間をさばいて神の掟とおしえを知らせていた。それを見たイテロは次のように言う。
【出エジプト18:17~24】すると、モーセのしゅうとは言った。「あなたがしていることは良くありません。あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。
さあ、私の言うことを聞きなさい。あなたに助言しましょう。どうか神があなたとともにいてくださるように。あなたは神の前で民の代わりとなり、様々な事件をあなたが神のところに持って行くようにしなさい。あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい。あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。もし、あなたがこのことを行い、神があなたにそのように命じるなら、あなたも立ち続けることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。」
モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて彼が言ったとおりにした。
イテロは裁判のシステムをモーセに提案して、色々なレベルのさばき人やつかさたちを任命するようにした。
つまり出エジプト記の順番は、イテロがさばき人を任命するように提案して(18章)、神様がイスラエルを宝の民として宣言し(19章)、モーセの十戒が与えられる(20章)。
申命記も同じ構造になっている。契約の倫理についての適用はさばき人への教えから始まる。
【申命記16:18~20】あなたの神、主があなたに与えようとしておらるれる、あなたのすべての町囲みの中に、あなたの部族ごとに、さばき人たちと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは公正にたみをさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人を偏って見てはならない。賄賂を取ってはならない。賄賂は知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなけれなならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を自分の所有とすることができる。
イスラエルが約束の地に入ったら、すべての町にさばき人たちを任命する。そうするとどの町でも正しいさばきを行うリーダーたちが神の正しさを追い求めることができる。さばき人への教えの中に出てくる「正義」はヘブル語では「ゼデク」という。イスラエルがカナンに入って、モーセの教えの正しい基準に従ってさばきを行うなら、長く生きて神様が与えてくださった土地を相続できる。このようにモーセは第五戒を別の言い方を使いながら、繰り返し民を励ましている。
さばき人は地域などの小さいレべルの王様のようなものである。さばき人が取り扱うことができない問題であれば、レビ族の町に行き、そこで取り扱ってもらうことができる。レビ族の町は四十八あるがその中で六つだけは逃れの町でさらに高いレベルの町である。そこでも取り扱えなければ天幕のある神様が選んでくださる町に行ってさばきを求めることができる。
イテロが提案した裁判のシステムは、申命記の中にこのように繰り返されている。これはもちろん荒野の中ではなくカナンの地に入った後の教えであるが、モーセが民に求めるポイントは心からの正しいさばきである。
イスラエルのリーダーたちが心からの正しいさばきを行うことは、私たちとどう関係するのだろうか。じつは、さばき人はこの会堂の中にたくさんいる。父親と母親は自分の家の中のさばきつかさである。子どもたちが複数いると必ずいろいろな問題が起きる。そして親はそれを正しくさばかなければならない。独身の女性たちや年寄りはさばき人の助け手となって一緒に祈ったり話し合ったりして、正しいさばきができるように交わりにおいて互いに祝福し合うのである。私たち一人一人は何かの形において、何かの意味において、さばき人のような責任と祝福と働きが与えられていると思う。
【ヘブル5:12~14】あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。
私たちはもちろん赤ちゃんのように乳しか飲めない者たちではないが、私たち自身が御言葉をよく知らず、深く理解していないと自覚しなければならない。このヘブルのみことばは、私も含めて皆さんが、交わりにおいても、家の中で教えることにおいても、ただ神の正しさを追い求めるということが十分にできていないことを自覚して、成長を求め、モーセが励ましたように正しいさばきを行うことができるように追い求めなさいと教えてくれている。
メシア自身が正しさの基準である。
【イザヤ11:1~5】エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。
御父のふところにおられる御子が神のみことばであり、私たちに御父を表してくださったので、私たちは御父を愛し、その愛のうちに歩むことができるように励まされている。
【ヨハネ14:8】ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
ピリポはこのようにイエス様に尋ねたが、イエス様は次のように答えた。
【ヨハネ14:9】イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一諸にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、「わたしたちに父を見せてください』と言うのですか。
イエス様は私たちに御父を表している。それは私たちがイエス様ご自身を真剣に追い求めることができるためである。イエス様は、私たちが正しさを知って、知恵をもってさばき人の働きができるように励ましてくださる。
聖餐式の時に、正しさを追い求め、神様ご自身を追い求める心をあらたにして、自分を神様にささげる祈りをする。
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