「王を求めることについての教え」申命記17:14~15
- 2025年7月6日
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説教者:ラルフ・スミス牧師
申命記17:14~15
あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが「周りのすべての国々と同じように私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない異国人をあなたの上に立てることはできない。
今日の箇所は、申命記の中の王を求めることについての導入である。この教えは17:14~20まで続く。申命記が特に第五戒を強調していることを先週説明した。
【 申命記5:16】あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じたとおりに。それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである。
第五戒は父と母を敬いなさい、という命令である。それを守れば神様は二つの祝福を約束してくださる。一つは長く生きること、そしてもう一つは幸せになるということである。申命記の中で、第五戒の強調は特別な形で表れる。それは父と母を敬うことは、ヤハウェに聞き従うことであるということだ。神ヤハウェを愛するなら、長く生きて幸せになる。申命記の中で、この両方の約束が繰り返される箇所もあるし、どちらか一つの約束が強調される箇所もある。ずっと申命記の中でテーマとして繰り返される。
申命記はヤハウェがイスラエルの天の父だという前提がある。神様は出エジプト記4章でこのように言う。
【出エジプト4:23】わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」
神様がファラオにはっきりと、「わたしの子を去らせなさい。もし拒むならあなたの長子を殺す。」と言ったのだが、ここは神様がイスラエルを自分の長子だと明白に直接言う箇所である。旧約聖書の中でこのような表現は他にはなかなかない。
イエス様は山上の説教の中で、神様のことを繰り返し「天の父」と呼ぶが、それを聞いたイスラエルは新しい感覚で神様のことについて考えさせられることになった。イエス様がその言い方を繰り返すのは、申命記のテーマを明白にして、強調するためであった。
申命記の第五戒の教えはさばき人やつかさたちから始まる。それから祭司、王、預言者の教えになっている。祭司、王、預言者は社会のリーダーたちである。そして王の教えは申命記全体の中心であることもよく言われる。
今日の箇所は、イスラエルが王を求めるための教えである。それは罪ではないが条件がある。一つは神様が選んだ王でなければならないこと、そしてもう一つはイスラエル人でなければならないことである。もちろん神様が選んでくださる王であるのは当然だが、なぜイスラエル人でなければならないのだろうか。
【創世記17:4~6】「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
神様ははっきりとアブラハムに「王たちがあなたから出てくる」と言う。つまりイスラエル人がイスラエル人の王を求めるということは、アブラハム契約の成就のためなのである。その意味で王を求めるのは良いことである。
実際にイスラエルの歴史の中で王を求めたことはあったのだろうか。
【第一サムエル8:5~6】彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」彼らが、「私たちをさばく王を私たちに与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。それでサムエルは主に祈った。
サムエルが歳をとったので二人の息子ヨエルとアビヤをさばきつかさとして任命していたが、二人は賄賂を受けてさばきを曲げていたので、イスラエルは他の国々のような王を求めたのである。これに対して神様はこのようにサムエルに答えてくださった。
【第一サムエル8:7~9】主はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」
イスラエルは王を求めて良いはずなのに、神様もサムエルも喜ばなかった。民はサムエルを拒んだのではなく、神を拒んだと言う。そして王が与えられたらどのような権利があるのか、その王は民をどのように扱うのかを警告するようにサムエルに言う。
【第一サムエル8:11~18】彼は言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。あなたがたの息子たちを取り、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。また、自分のために千人隊の長や五十人隊の長として任命し、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や戦車の部品を作らせる。また、あなたがたの娘たちを取り、香料を作る者や料理する者やパンを焼く者とする。あなたがたの畑やぶどう畑や良いオリーブ畑を没収し、自分の家来たちに与える。あなたがたの穀物とぶどう畑の十分の一を取り、廷臣や家来たちに与える。あなたがたの奴隷や女奴隷、それにあなたがたの子牛やろばの最も良いものを取り、自分の仕事をさせる。あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがた自身は王の奴隷となる。その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、主はあなたがたに答えはしない。」
サムエルは、王が与えられたら重い試練になると警告する。なぜなら王は民の息子たちに自分の戦車の前を走らせ、民の娘たちに王のパンを焼かせ、民のぶどう畑やオリーブ畑を没収して王の家来に与え、民の奴隷もろばも羊も取り、民は王の奴隷となる。王の横暴のゆえに泣き叫んでも神は民に答えない。この警告を聞いても、イスラエルは「いや、それでも自分たちは王がほしい」と言う。
それで神様はイスラエルの願いを聞いて王を与えた。皆さんも知っているようにその王はサウルである。
【第一サムエル10:1】サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。…
紀元前1094年、サムエルはサウルを任命し、サウルはイスラエルの王となった。
サウルが王になってすぐにアンモン人ナハシュがイスラエルを攻めようとした。「ナハシュ」ということばは創世記3章の蛇のことである。つまりナハシュはサタン的な王である。サウル王はこのナハシュと戦って勝ったので、蛇を倒したことになり、民にイスラエルの王として認められた。サウルは王として良い働きをした。このナハシュのような敵と戦うためにイスラエルは王がほしかったのである。
この時に、王がほしいという民を、なぜ神様もサムエルも喜ばなかったかが明かされた。
アンモン人と戦って勝った時は収穫の時期であったが、その時に神様は嵐を起こし、王を求めることについてイスラエルが罪を犯したことを宣言し、民はそれを認めた。
【第一サムエル12:7~17、19】「さあ、立ちなさい。私は、主があなたがたと、あなたがたの先祖に行われたすべての正義のみわざを、主の前であなたがたに説き明かそう。
ヤコブがエジプトに行ったとき、あなたがたの先祖は主に叫んだ。主はモーセとアロンを遣わし、彼らはあなたがたの先祖をエジプトから導き出し、この場所に住まわせた。
しかし、先祖たちは自分たちの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの軍の長シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで先祖たちは彼らと戦うことになったのだ。
先祖たちは主に叫んで、『私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテの神々に仕えて罪を犯しました。今、私たちがあなたに仕えるため、敵の手から救い出してください』と言った。
すると主は、エルバアルとバラクとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それで、あなたがたは安らかに住んだのだ。
しかし、アンモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めるのだ』と私に言った。今、見なさい。あなたがたが求め、選んだ王だ。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。
もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、自分たちの神、主の後に従うなら、それでよい。
しかし、もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなたがたの全家に下る。
今、しっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる、この大きなみわざを見なさい。
今は小麦の刈り入れ時ではないか。主が雷と雨を下されるようにと、私は主を呼び求める。あなたがたは王を求めることで、主の目の前に犯した悪が大きかったことを認めて、心に留めなさい。」…
民はみなサムエルに言った。「私たちが死なないように、しもべどものために、あなたの神、主に祈ってください。私たちは、王を求めることによって、私たちのあらゆる罪の上に悪を加えてしまったからです。」
民は罪を犯したことを認め、神様は赦してくださった。しかしこのことをはっきりと罪として扱って、契約の懲らしめをイスラエルに与えてくださった。
イスラエルの基本的な問題は三つある。
まず一つ目は、イスラエルが未熟でまだ王を持つ国として十分に成長していなかったことだ。例えばカインの話を思い出す。カインはすぐに大都市を作ろうとした。そのために人を奴隷にしたが、その町を早く作るのは罪だった。バベルの塔を作った人も同じことである。傲慢で神様に逆らって大都市を作ろうとした。実際に歴史的にイスラエルに町が与えられるまでは千年以上かかっている。カインもバベルの塔の人たちもまだ大都市を持つほど成長していなかった。
同じように、サムエルの時代のイスラエルも、王を持つための霊的な成長も、文化的な成長も必要だったのに、まだそこまで成長していなかった。それなのに神の時を待てなかった。ダビデは「主を待て」と神の時を待つことを詩篇などで強調するが、それは人が神の正しい時を待つことができないからだ。私たちは軽率で、自分たちが欲しい時に、欲しいものを取ろうとする。同じようにイスラエルもまだ時ではなかったのに、王を要求したのである。
もう一つの問題は、イスラエルの王の求め方である。サムエルが警告してもそれを聞かないで続けて要求する。これは、イスラエルが王を与えられるほど成長していないことをよく表す。イスラエルの要求は良い心から出ていないので、サムエルは悪だと思った
三つ目の問題は、イスラエルがサムエルにアドバイスを聞くべきだったことである。王がほしいと思った時、これまで四十年もの間、預言者としてイスラエルを導いてくれたサムエルにアドバイスを求めるべきだった。しかし民はアドバイスもみことばの教えも求めないで王を要求し、警告を与えても民には一切聞く耳がなかった。サムエルは民に、王が与えられたらどんな重い試練になるかを伝えたのに、民は未熟でそれを聞き入れなかった。イスラエルはエジプトを出てからずっと神に従うことができなかったので、当然王にも従わないことはわかっていた。この後も残念な歴史が続く。サウルは王として任命されたが、繰り返し神に逆らって罪を犯し、完全に神様から離れてしまった。
サウルが死んだは紀元前1054年で、その時にダビデが次の王になり、四十年間イスラエルを治めた。ダビデは非常に素晴らしい王でイスラエルにとっては大きな祝福であった。ひどい罪を犯してしまったが、本心から悔い改めて、イスラエルにみことばをよく教えてよく導いた王であった。ダビデが死んだのは紀元前1014年で、その時にソロモンが次の王になり、ソロモンも四十年間イスラエルを治めた。サウル、ダビデ、ソロモンが王として治めたのは四十年、四十年、四十年である。まるでモーセの人生のような感じである。
イスラエルが一つの国として存在していたのは、この三人の王による百二十年だけだった。その後は二つの国に分かれてしまった。北イスラエルと南ユダである。
北イスラエルはずっと神様のことばに聞き従わず、偶像礼拝をしたとんでもないイスラエルになってしまった。250年ほど経ってからアッシリア帝国にさばかれた。
南ユダは良い王がいたり悪い王がいたりしたが、586年にネブカドネツァルがさばきを行う。北イスラエルも、南ユダも結局偶像礼拝を行って、神のことばに聞き従わないという結論になってしまったのは非常に残念な歴史であったが、警告は最初からあった。
【第一サムエル12:14】もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、自分たちの神、主の後に従うなら、それでよい。しかし、もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなたがたの全家に下る。
結局主の手がイスラエルの全家に下り、厳しい懲らしめを受けたことになった。
周りの国のような王がほしいと言ってサムエルの警告を受けたが、その時にイスラエルは自分たちに与えられた最初の王を思い出すべきだった。最初の王とはモーセである。モーセはシナイ山で与えられた律法を民に教えたり、民をさばいたりして王のような働きをした。このように王がやるような働きをモーセがやった。
モーセは祭司のような働きもした。イスラエルがエジプトを脱出して天幕ができたら、レビ記でいけにえ制度が与えられたので、祭司を任命しなければならなかった。祭司の任命式を行うのは祭司だが、この時はまだ祭司はいなかったので、任命式はモーセがやることになる。このようにモーセは祭司の働きもする。
そしてもちろんモーセは最初から預言者で、神様はイスラエルにモーセのような預言者を送ると約束してくださった。
【申命記18:15】あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私(モーセ)のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。
だから、モーセは王であり、祭司であり、預言者の働きをしたのである。
モーセのことを考えると、この世にいるような王ではなかった。アロンとミリアムがモーセのことを非難した時に神様はこのように言う。
【民数記12:3】モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。
モーセはヘリくだった心で全ての人の中で一番柔和だった。だから神はモーセにエジプトで訓練を与え、ミデヤンの地で羊飼いとして動物に仕える訓練を与え、イスラエルのリーダーとして神の民を愛して導くことができたのである。本来イスラエルが求めるべきなのはモーセのような王であった。しかし民はこの世にいるような、イスラエルの周りの国のような王がほしいと言って、結局そのような王サウルが与えられてしまった。
イエス様は申命記の中で預言されている祭司、王、預言者である。イエス様は世界の王で天から遣わされた王だったが宮殿では生まれなかった。イエス様はナザレの町で生まれた。ナザレはイスラエルの中で見下されている町だった。ピリポがナザレから来たイエス様を紹介した時に、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか。(ヨハネ1:46)」と言った。イエス様はあまり評判の良くないナザレの貧しい大工の家に生まれた。その中でイエス様は自分の父親と一緒に大工として働いて仕えることを学び、ヘリくだった心を持っていた。
父親が亡くなった時に三十歳までナザレの人々に仕える働きをした。イエス様も仕えることを学ぶ訓練の時代があった。
もちろんイエス様は最初からヘリくだって思いやりの心を持っていたが、ある時、ヨハネとヤコブたちの母親がイエス様のところに来て願った。
【マタイ20:26】「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
この世の人は人々を抑えて支配するが、あなたたちはそうであってはならないとイエス様はこのように弟子たちを教えられた。
【マタイ20:26】あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
これは偉くなるための手段ではない。神の御国において偉い人は、この世の偉い人たちと質的に根本的に違う。イエス様は世界の中で 一番偉い人だったのに、へりくだって弟子たちに仕えていた。自分の弟子たちの足も洗った。そして私たちの救いのために私たちに仕え、ご自分のいのちを代価としてささげてくださったのである。
私たちは小さい領域においても、大きい領域においても、どのような意味においても偉くなったなら、イエス様のような人に仕える心で、ヘリくだった心で神の栄光を求めるべきである。人をしいたげて命令するよりも、人に仕える者になりなさい、とイエス様は私たちに教えてくださる。
私たちは何かの形において、お互いに仕え合うことができると思う。自分の家の中でも、社会の中でも人に仕えることができる。イエス様の模範に従って生活を送り、神の御国において仕える心をもって神の栄光を持って人に仕えることは、本当の意味での偉い者になる。それはイスラエルの王に要求され、命令されることでもあるし、私たちにも同じことが命令される。しかし、それは素晴らしい祝福の命令である。イエス様の真似をする生活をするように命令されること以上に大きな祝福はない。
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