「必要なことは一つだけです」ルカ10:38~42
- 2025年7月20日
- 読了時間: 15分
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
ルカ10:38~42
さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
今日、私たちが福音書で読んだ箇所はとても家庭的なストーリーで、イエスが訪れた時にこの二人の姉妹がどういう行動をしたかという話です。 姉はイエスをもてなすために一生懸命働いて、妹はイエスの足元でイエスの話を聞いていました。それで姉がいらいらしています。これはある意味でとても共感できる話です。私たちも自分が忙しいときに他の人がただ座って会話しているといらいらしたりします。
そしてこの話は聖書朗読では創世記のアブラハムのストーリーと一緒になっています。この中には、またもてなすために一生懸命働く人の話が出てきます。神様が訪れているからです。
しかしアブラハムの場合、一生懸命働いている人は良いことをしています。マルタとアブラハムの違いは何でしょうか。なぜアブラハムは正しくて、マルタは良くなかったのでしょうか。
イエスはマルタに、色々なことを思い煩って心を乱している、と言います。そして必要なことは一つだけだと言われました。私たちはどうすれば心配や不安から自由になることができるのでしょうか。そしてイエスが言うたった一つの必要なこととは何なのでしょうか。
⚫️アブラハムのストーリー
とても面白くて不思議なことがたくさん含まれています。
【創世記18:1~2】主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。彼は、日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。
まずアブラハムが目を上げると、 三人の人が彼に向かって立っていました。彼らがこちらに向かって歩いて来るのではなくて、いきなり目の前に立っていたのです。アブラハムは預言者なので神様と何度も会っていました。だからこの人たちがだれなのかがすぐにわかったので、彼らの方に走って行って地面にひれ伏しました。
【創世記18:3~5】彼は言った。「主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。私は食べ物を少し持って参ります。それで元気をつけて、それから旅をお続けください。せっかく、しもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言うとおりにしてください。」
三人もいるのに、アブラハムは一人だけに向かって「主よ。」と話しかけるのです。つまり彼はこの三人のうちだれが主なのかもわかっていました。この人は主の御使いです。新約時代に生きている私たちにはわかりますが、これは受肉する前の御子でした。アブラハムは彼らに、少しの水と少しの食べ物を持って来るので待っていてください、と言います。
【創世記18:6~8a】アブラハムは、天幕のサラのところに急いで行って、「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作りなさい」と言った。そして、アブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、料理した子牛を持って来て、彼らの前に出したので、彼らは食べた。
全然少しではありませんでした。彼は妻のサラのところまで走って行って、 三セアの上等の小麦粉でパンを作りなさいと言いました。どのくらいの量なのかピンとこないのですが、三セアはだいたい十四キロです。これで百人分ぐらいのパンが作れます。そして自分は群れの方まで走って行きました。これはかなりの距離があると思いますが、群れの中から一番美味しそうな子牛を自分で選びます。彼はそのとき九十九歳ですが走っています。子牛だったら一頭で百キロはあると思います。百キロの子牛なら五十キロ以上の肉が取れます。つまり子牛一頭で余裕で二百人分の肉になります。アブラハムは料理の準備が整ったら彼れのところに持ってきて、山ほどの料理を彼らの前に置きました。つまらないものですが…と言ったかどうかわかりませんが。
【創世記18:8b】彼自身は木の下で給仕をしていた。
アブラハムは歳とった偉大な人でした。彼ほどの人であれば彼が導いている民は何千人もいたはずです。こんな王様のような人なのに、彼は自分で立って彼らをもてなしました。彼は神ご自身に自分をいけにえとしてささげているのです。これは彼の神に対する奉仕だったのです。
アブラハムは、神が現れたときに、アベルのように自分の持っている最良の物を豊かに与えます。アブラハムのもてなしを通して見ることができるのは、彼は神様に注目しているということです。色々なことに煩わされていないのです。「約束していた息子はどうなっているんですか?」「約束の地はそろそろでしょうか?」など心配しようと思えば色々あるのですが、彼は神に仕えることに集中していました。
⚫️マリヤとマルタのストーリー
また同じ主、神の御子がマリヤとマルタの前に現れますが、今度は受肉したまことの人間として現れます。
【ルカ10:38~40】さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
マルタは一心にイエスに仕えようとしてもてなしています。これは良いことです。しかし、自分がこんなに忙しいのに、妹はイエスの足元でずっと座ってイエスの話を聞いているだけでした。一方で姉のマルタは、あれができていない、これもまだだと色々なことを考えて、自分の妹にいらいらして、さらにそれをイエスにぶつけてしまいます。
主イエス様、これでいいと思ってるんですか?
マルタはどこが間違っているたのでしょうか。
マルタは大きな罪を犯しているのではありませんので、イエスはとても優しく「マルタ、マルタ」と彼女に語りかけます。
【ルカ10:41】主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
マルタがとんでもなくいけないことをしているわけではありません。彼女はイエスにつかえています。そこまではアブラハムと同じです。しかしイエスに注目しているのではなくて、色々なものに気をとられて、結局自分がなぜこれをしているのか忘れてしまいました。イエスをお迎えしたら、必ず大勢の人が一緒にいるはずです。だから大変なのです。でもこの大勢の人をもてなすのは、この人たちがみんなイエスとともにいて、イエスのことばを聞いて、イエスとともに食べて祝福されるためでした。
しかし、マルタは色々なことに気をとられて心配してそれを忘れています。その一つの必要なことを忘れていました。その一つのこととは、イエスご自身です。
これは今日朗読したコロサイの箇所でパウロが話していることです。コロサイ1:15からの箇所ですが、ラルフ・スミスという神学者が、この箇所はもしかしたらパウロが書いた讃美歌ではないかと言っていました。
【コロサイ1:15】御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
私たちがイエスを見たときに、神を知ることができます。受肉したイエスが目に見えない神を見える形にしてくださったのです。
【コロサイ1:16】なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
すべてのものは御子にあって、御子によって、御子のために造られました。言い換えると、すべてのものはイエスから流れ出て、イエスに向かって流れて行きます。また言い換えると、イエスはアルファ(初め)であり、オメガ(終わり)であります。
【コロサイ1:17~18a】御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。
この宇宙にあるものをすべて統合させるのはイエスのみなのです。イエスだけがこの宇宙をすべて含むことができるお方なのです。それ以外のものはすべてイエスより小さいもので、小さいからこそたくさん必要になり、これが私たちの心と思いをバラバラにする偶像となるのです。だから偶像を礼拝する人はだいたい複数の偶像を礼拝します。イエスのみがすべてを合わせて、統合させて、含むことができるお方だからです。
【コロサイ1:18b】御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
イエスは御父から生まれ出た最初のお方です。同時に死者の中から永遠のからだを持って最初に復活したお方です。それが神様の最初の創造でした。創世記1:1の前の創造が御子でした。さらに同時に新しい創造もイエス・キリストです。それはこれから来る新天新地のことです。
【コロサイ1:19】なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
イエスは、宇宙や被造物界のすべてを含むお方であるだけではなく、神性をすべて表すお方でもあるのです。無限なお方なのです。
【コロサイ1:20】その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
天にあるものも地にあるものも神と和解して神と一つになりました。それは十字架で流された血のゆえなのです。
【コロサイ1:21~22】あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
イエスはご自分の肉のからだの死によって神と和解させてくださいました。
イエスのからだと血によって、天にあるものも地にあるものも神と和解して一つとなっているのです。だから十字架の形は天と地が一つにつながっていて、その真ん中でイエスが十字架にかかりました。すべてのものをご自分に引き寄せていて、イエスにあってそれを和解させて一つにしてくださったのです。
これが不安やもてなしとどういう関係があるのでしょうか。
マルタは色々なことに気をとられて不安に思っていましたが、これはまさに私たちの日常的な状態ではありませんか。
皆さんはどういうことを心配していますか。
例えば、健康、自分の評価、評判、成功、見栄え、自分の魅力、生活の安定のための収入のことをいつも考えていますか。
言い換えると、私たちは自分が着たいものを着て、自分が飲みたいものを飲んで、自分の食べたいものを食べることができるのか、私たちはこのようなことを心配しているのです。
しかし、イエスは富は結局は私たちに不安を与える偽りの神であり偶像であると言います。私たちがお金さえあれば安心だと思ってしまうのは、お金をそのように見ているからです。
【マタイ6:24b~25】あなたがたは神と富とに仕えることはできません。ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
イエスは心配しなくて良いと言います。
ではどう解決するのでしょうか。なぜ心配しなくて良いのでしょうか。
必要なことは一つだけだからです。
【マタイ6:33】まず神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
つまり、第一にすべきことを第一にすれば、他の二次的なものは二次的なまま、正しい順番で与えられるのです。第一にすべき大きなものはイエス・キリストのみです。それが第一であれば、他のものはすべてそれに含まれて、それとともに与えられるのです。
また別の時にイエスが教えてくださっています。
【ルカ12:13】「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
またお金の心配をする人の話が出てきました。イエスはこの人にも同じようなことを言いました。
【ルカ12:15】「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
そしてご自分の弟子たちにさらにこう言います。
【ルカ12:22~23、31】「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。…むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。
ここでもイエスは同じように言います。この世で私たちに必要なものは、本当に必要なたった一つのものに加えて与えられるのです。
パウロも同じようなことを第一コリントで言います。この世のことは私たちの心をばらばらにすると言います。
【第一コリント7:32~34a】あながたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことを心に配り、心が分かれるのです。
心が分れるとは、一つにまとまっていない状態です。御国という一つのものではなくて、ばらばらで様々なことを心配して、同時に色々なことを求めている状態です。
【第一コリント7:35】私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。
パウロはこうなってほしいと願っています。「ひたすら主に奉仕する」を文字通り訳すと、「心が分かれていない奉仕」となります。別の日本語訳では、「主に仕えることに心を専念する」と書かれています。つまりばらばらではないのです。
では神に専念する、心を一つにする、第一にすべきものを第一にするにはどうすれば良いのでしょうか。
皆さんは一番最近一時間かけてひたすら祈ったのはいつですか。一時間とは言わないまでも十五分だけでも集中して祈ったのはいつですか。神様と十五分を集中して過ごすことができないほど皆さんは忙しすぎるでしょうか。
私たちは時間をかけて詩篇を祈ったり、ただ静かに座る必要があります。自分がイエスから流れ出ていること、イエスが始まり(アルファ)であること、自分はイエスによって造られたこと、自分だけではなくて自分の周りにいる人々、この世界のすべてがイエスから出てイエスに向かって(オメガ)います。そのことを瞑想してください。毎日それをすれば、自分の不安は徐々にキリストにある平安に変わっていきます。
例えば富に対する不安について考えると、自分のお金はすべてイエスから来ること、そしてイエスに戻るものになることがわかるでしょう。富はすべてイエスの御国のために使うものだからです。そうであればお金は偶像にはなり得ません。なぜならそのお金は神に仕えるための道具、あるいは器でしかなくなるからです。
私たちは色々な人生を送っていて、色々なことを成し遂げなければいけません。その意味で、私たちはみんな一つのからだにあるたくさんの細胞と同じです。そのさまざまな細胞には、それぞれの機能があります。その細胞が私たちのかしら(頭)であるイエスに注目していれば、からだの器官は全部一緒に働くことができます。それでからだが健全で実を結ぶものとなるのです。頭が一つでなかったら、言い換えれば頭がたくさんあったら、そんな社会は色々な方向に行こうとして、引っ張られて、ばらばらになって崩れてしまいます。これが偶像を礼拝する社会の姿です。そのようなからだは病気です。そんな社会は一致がなくて不安に満ちています。
【詩篇16:4~5a】ほかの神に走った者の痛みは 増し加わります。私は 彼らが献げる血の酒を注がず その名を口に致しません。主は私のへの割り当て分 また杯。あなたは 私の受ける分を堅く保たれます。
「割り当て分」これが主が妹マリアに関して言ったことばです。彼女は良い割り当て分を選んだと言います。
【詩篇16:8~9】私はいつも 主を前にしています。主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません。それゆえ 私の心は喜び 私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。
これは不安な状態の反対です。主が私の右におられるから私には平安があると言うのです。
【詩篇16:10~11】あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず あなたにある敬虔な者に 滅びをお見せならないからです。あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります。
だからイエスがいるところにはいつも美味しい食べ物の宴会があるのです。
私はどのようにイスに注目すれば良いのでしょうか。
まず私たちはここでイエスに仕えられているのです。イエスは私たちに仕えてくださいます。イエスはアルファ(初め)だからです。そして私たちはこの礼拝でイエスに仕えています。イエスはオメガ(終わり)だからです。それが主の奉仕というものです。主が私たちに仕え、私たちも主に仕えます。それで私たちはここでさらに妹マリアがやっていたことをやっています。私たちはイエスの足元に座って、その永遠のことばに耳を傾けます。さらに私たちはアブラハムがやったこともここでやっています。私たちは自分の一番良いもの、自分の人生のすべて、自分の働きを主にささげているのです。
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