「王についての教え」申命記17:18~20
- 2025年7月27日
- 読了時間: 11分
説教者:ラルフ・スミス牧師
申命記17:18~20
その王国の王座に就いたら、レビ人の祭司たちの前にある書から自分のために、このみおしえを巻物に書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない。それは、王が自分の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることのないようにするため、また命令から右にも左にも外れることがなく、彼とその子孫がイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるようにするためである。
私たちは数週間から申命記とイエス様について一緒に見て考えているが、まず申命記のことを思い出していただきたい。
申命記は紀元前千五百年頃に書かれた書物で、モーセが荒野で四十年間イスラエルを導き、その旅が終わった最後の月に書かれた書物、つまりモーセが死ぬ直前に書かれたものである。私たちは礼拝でモーセの十戒を簡潔に告白しているが、申命記全体はモーセの十戒を中心にしていることも皆さんは覚えていると思う。申命記6章から26章までは、モーセの十戒を第一戒から第十戒まで順番に適用してイスラエルに教えている。その中でモーセは特に第一戒と第五戒の命令を強調しているということも、前に一緒に見た。
申命紀6章から11章までは、モーセの十戒の第一戒について教えている箇所である。”あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。”という教えの適用は一番長くて、そして”あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。”という部分が含まれている。
第五戒の命令には約束が二つ与えられている。"あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じたとおりに。それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしているその土地で幸せになるためである。"
イスラエルが神を信じて、神を愛して、神の命令に聞き従うことを教えるところでこの二つの約束が繰り返し出て来る。申命記の中では第五戒がこのように強調されている。つまり、イスラエルの神様は天の父というニュアンスになるわけだ。イエス様の山上の説教の中で、神様のことを繰り返し繰り返し父と呼ぶが、そういう意味でイエス様の山上の説教は、申命記的な説教だと言える。
申命紀は紀元前千五百年頃に与えられたが、その律法が与えられたあと、だいたい千五百年経ってからイエス様が生まれた。イエス様はヘロデ大王が死ぬ少し前の紀元前四年に生まれた。イエス様の働きは、紀元二十六年の冬から始まって、紀元三十年の春まで続く。イエス様は千五百年前のモーセの教えを非常に大切にしているので、イエス様の教えの中でモーセの申命記はたくさん出てくるし、イエス様がサタンと戦った時に申命記だけを引用してサタンに答えていた。私たちが先ほど読んだ箇所は王のための律法の箇所である。14節から20節までの箇所であるが、その中に二つの命令がある。
【申命記17:14~15】あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが「周りのすべての国々と同じように私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない異国人をあなたの上に立てることはできない。
この箇所によると、まずイスラエルの王は神様が選ぶ者でなければならないこと、そしてもう一つはイスラエル人でなければならないことである。
神様が選ぶ王でなければならないのは、王の権威は神から与えられることをはっきりさせるためである。そしてイスラエル人でなければならないのはアブラハム契約の成就のためである。
【創世記17:4~6】「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
神様が選んだ王たちをイスラエルに与えることによって、アブラハムに与えた約束を神様が守ってくださる。それはだいたい紀元前二千年頃のアブラム契約の話である。
そして今日読んだ18節から20節までは、14節から20節までの中で一番大切なところである。そこに書かれている二つの命令には説明がついている。
⚫️その王国の王座に就いたら、レビ人の祭司たちの前にある書から自分のために、このみおしえを巻物に書き写し、(17:18)
まず、王が祭司の前で自分のために自分の手で申命記を書き写さなければならない。みことばを書き間違えることがないように、祭司の前で書く。祭司が王を見張っている。ここに非常に興味深いところがある。イスラエルは王と祭司のはっきりした区別がある国だということだ。実際に他の国にはこのような区別は無いことが多い。エジプトのパロは大祭司、ネブカドネツァルは祭司、日本の天皇は大祭司である。中国の皇帝も祭司的な役割を果たしている。祭司と王を厳しく分けるのはイスラエルのみである。どこまで厳しく分けるのかというと、歴代誌のストーリーを見ればわかる。
【第二歴代誌26:19】ウジヤは激しく怒った。香をたくための香炉を手にしていたが、彼が祭司たちに対して激しく怒ったとき、主の神殿の中にいた祭司たちの前、香の壇の傍らで、彼の額にツァラアトが現れた。
ユダのウジヤ王がエルサレムで王となった。彼はゼカリヤが生きている間は神を求めたので、神は彼を栄えさせていたが、彼が強くなるとその心は高ぶり、神の信頼を裏切って香の壇で香をたこうとして勝手に神殿に入ってしまった。(第二歴代誌26章)
王が申命記を書き写すのは、王の心が高ぶらないためだと今日の箇所に書いてあるが、ウジヤは高ぶってしまった。それを見た八十人の祭司たちがウジヤ王を追い出そうとしたのだが、神様が直接さばいたので、ウジヤは死ぬまでツァラアトに冒されることになってしまった。イスラエルでは祭司は祭司、王は王で部族も違う。祭司はレビ人で王はユダ族(サウル以外)である。王と祭司の権威ははっきりと分かれている。王は最高裁判官のような働きをするが、王でも判断できない場合は、祭司のところに行って神のみこころをうかがって祭司から神の答えをもらうのである。王と祭司は一緒に働くべきものであるが、その権威は重ならない。特に礼拝制度においては王は祭司の下にある。王が祭司の前で座って申命記を全部書き写さなければならないのは、王と祭司の間に権威の区別があるからである。
⚫️自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない。それは、王が自分の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることのないようにするため、また命令から右にも左にも外れることがなく、彼とその子孫がイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるようにするためである。(17:19~20)
もう一つは王がみことばの下にあるということだ。王は申命記を自分の手で書き写して、それを毎日読まなければならない。
【ヨシュア1:8】このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
神様はヨシュアに朝から晩まで神のみおしえを声を出して唱えるように命令している。その意味は申命記の王に対する命令と同じである。声を出して、毎日繰り返して申命記に書いてあるものを唱える時に、王がどのようなさばきを行うべきかをみことばから直接教えられる。そこから右にも左にもそれてはいけない。ただまっすぐに神様のみことばに従って、さばきを行わなければならない。そのために自分の手で書いて毎日読んで、毎日考える。王がみことばの下にいることははっきりしている。
京極純一という日本の政治の哲学者が1983年(昭和58年)に刊行した著書『日本の政治』という本がある。この人がクリスチャンかどうかはわからない。私は最初はこの本を要約した記事を英語で読んだのだが、簡単に言えば、日本の中で高いレベルの政治を行う者たち、例えば王や将軍など(時代や場所によって呼び方が違うが)をさばくための基準は日本にはないということだ。上にいる者が言うことは法で、絶対で、下の者たちは従わなければならない。逆ったら法に逆らっていることになる。しかし逆らって成功したら、また政治の構造を変えるかもしれない。日本の政治には預言者のような人はいないしありえない。権威のある人の上にある明白な善と悪の基準は存在しない。これが日本の政治である。
しかしイスラエルは違う。王が祭司の前に座って申命記を書き写さなければならないのは、王が祭司の権威の下にいることになる。それは明らかにみことばの下にいることである。神の命令から右にも左にもそれないで、王の心が高ぶらないように、それを書いて毎日声を出して読んで、それを学ぶためである。
このようなことは聖書以外の宗教にはない。古代国家の中で王は神から与えられた法に従わなければならないとか、そのためにその法を書いて毎日読んで考えなければならないとか、その法から右にも左のそれないようにしなければならない、という概念はない。
私たちは毎週礼拝でモーセの十戒を声を出して唱えているが、これは当然の考え方ではない。これはじつに驚くべき特別なことである。
王がみことばを学んで、みことばに従って、王の働きを行うときに、長く生きて、自分も自分の子孫も続けてイスラエルを治めることができるということもここに書いてある。つまり王と王の子孫の教えに第五戒の命令を適用しているのである。王が天の父のことばにしたがって歩むなら、神様はこのような祝福を与えてくださるのである。
イスラエル全体の王は三人いた。サウル、ダビデ、ソロモンである。
サウルは紀元前1094年に四十年間続けて王としてイスラエルを治めた。
ダビデは紀元前1054年から四十年間イスラエルを治めた。
ソロモンは紀元前1014年から四十年間イスラエルを治めた。
ソロモン王のあとで南ユダと北イスラエルが分かれてしまい、イスラエル全体を治める王はもういない。この申命記の命令をサウルは守っていないことは確実であるが、ソロモンはこれを書き写して、自分の息子たちに一生懸命教えようとしたことは箴言を読めばわかる。
箴言と申命記は深い関わりがあると注解書で読んだことがあるが、ソロモンが申命記に書いてあることを箴言で息子に一生懸命教えている。残念ながらその息子には聞く耳がなかった。しかしソロモン自身はこの命令を守っていたはずである。ソロモンは人生の最後の方で神からそれたりしたが、命令を知らなかったわけではない。
そしてイスラエルの歴史の中でだれよりもみことばを心に刻んで毎日口ずさんで声を出して読んでいたのはダビデである。ダビデが本格的にみことばを愛して詩篇1篇を書いた。
【詩篇1:2~3】主の教えを喜びとし 昼も夜も その教えを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。
詩篇1篇は詩篇全体の導入である。詩篇からダビデの神に対する深い服従と愛を見ることができる。ダビデは心を尽くして神を愛していたことを、私たちは詩篇の中でたくさん見ることができる。それはイスラエルの王の正しい姿を表している。
しかし申命記17章の王の教えは王のためだけではない。王はイスラエル全体に模範を示し、すべてのイスラエル人がみことばを心に刻むように教えられているのである。
【申命記6:3】イスラエルよ。聞いて守り行いなさい。そうすれば、あなたは幸せになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる地で大いに増えるであろう。
私たちはこの申命記のみことばを自分の心に刻み、覚えて、神のみことばを真剣に求めて、それに従って歩むように。ダビデは紀元前千年頃の王であるが、そのみことばを守り行い、良い模範をイスラエルに与えて、そして歌も与えてくれた。ダビデが歌をたくさん残してくれたのは、私たちがみことばを心に刻んでそれを口ずさんで覚えることができるためである。みことばを瞑想できるためである。
心が高ぶっているのではなくて、イスラエルを自分の羊のように思って、羊飼いの心で模範を示してくれた。
イエス様はダビデの子。イエス様ほどみことばを心に刻んで心から瞑想して考えて、熱心に民に教えた人はだれもいない。イエス様のみが本当の意味で最初から最後まで、王に対するみ教えを守った。イエス様は私たちに心からみことばを求める模犯を示してくださった。それは私たちが神様のみことばを心から喜び、感謝して、神に対する愛、神に対する信仰、神に対する真実、忠実を表すことができるようにするためである。本格的に心からみことばを求める。
みことばを求めるということはイエス様ご自身を求めることである。神様ご自身に対する愛と信仰を表す行動でもある。地域教会として、私たちはみことばを求める心が深められるように祈りたいし、みことばを求める行動も深められるように祈りたい。私たちは本当にみことばを愛して求める地域教会として成長したいと思う。
コメント