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「王についての教え その2」申命記17:14~20

  • 2025年8月10日
  • 読了時間: 12分

説経者:ラルフ・スミス牧師


申命記17:14~20

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが「周りのすべての国々と同じように私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない異国人をあなたの上に立てることはできない。

ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。主は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。その王国の王座に就いたら、レビ人の祭司たちの前にある書から自分のために、このみおしえを巻物に書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない。それは、王が自分の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである。

それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることのないようにするため、また命令から右にも左にも外れることがなく、彼とその子孫がイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるようにするためである。


申命記が書かれたのは、イスラエルがエジプトを出てから四十年目のことである。民は間もなく約束の地に入るが、モーセは神の聖なるものについて罪を犯したので、彼らと一緒に約束の地に入ることはできないと神に言われていた。モーセはイスラエルの民を自分の子どものように愛していたので、彼の人生の最後の月に、イスラエルを思って説教をしたのがこの申命記である。

申命記5~26章でモーセは特別なことをした。十戒をどのように社会に適応するかを順番に教えたのである。そして特に第一戒と第五戒を強調している。6~11章で第一戒について説明して、第五戒の命令については、長く生きて幸せになるという約束も強調する。第五戒は父と母を敬うように命じる戒めだが、この約束は父と母を敬う者に与えられる約束である。神ご自身がイスラエルの父なのでこのポイントを強調している。


今日の申命記17:14~20は王についての教えの箇所である。王についての教えは三つの段落に分けることができる。

⚫️あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが「周りのすべての国々と同じように私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない異国人をあなたの上に立てることはできない。(17:14~15)

最初の段落では、 王は神に選ばれた者でなければならないこと、そしてアブラハムの子孫でなければならないことが書かれている。アブラハムの子孫でなければならないことは律法には説明されていないがアブラハム契約の中にはある。

歴史の中で、イスラエルには、サウル、ダビデ、ソロモンの三人の王しかいなかった。ソロモンのあと、イスラエルは北と南に分かれてそれぞれに王を立てたので、それ以降イスラエル全体を治める王は存在しなくなった。

モーセは紀元前1500年頃に申命記を書いた。

最初の王サウルは紀元前1094年から1054年までの四十年間王であった。

次の王ダビデは紀元前1054年から1014年までの四十年間王であった。

最後の王ソロモンは1014年から974年までの四十年間王であった。


⚫️ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。主は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。(17:16~17)

二番目の段落では、王が増やしてはいけない三つのものが書いてある。馬と妻と金である。しかしソロモンはそれを三つとも増やして罪を犯してしまった。


⚫️その王国の王座に就いたら、レビ人の祭司たちの前にある書から自分のために、このみおしえを巻物に書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない。それは、王が自分の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることのないようにするため、また命令から右にも左にも外れることがなく、彼とその子孫がイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるようにするためである。(17:18~20)

この三番目の段落は、王の教えの中で一番大事な段落である。

王は祭司たちの前で申命記を書き写し、それを自分のそばに置いて、毎日読まなければならない。この命令の目的は、王がヤハウェを恐れるため、他のイスラエル人の前で心が高ぶらないため、そして王が神の命令から右にも左にもそれずに歩むためである。そうすれば王も王の子孫も祝福されて長くこの王国を治めることができる。


サウルは申命記を書き写していないとはっきり言えるが、ソロモンは若い時に書き写していたと思う。だから三千もの箴言を書くことができたし、雅歌も書くことができた。

ダビデは三人の中で律法を守った唯一の王である。彼は祭司たちの前で自分の手で申命記を書き写した。

この命令は王にとってとても大切である。この命令によって王は祭司たちの権威の下に置かれていることをはっきりさせている。王が祭司の前で律法を書き写すようなことはイスラエルの周りの国々にも東洋にもどこにもない。イスラエルでは王と祭司の区別は絶対的である。周りの国々では祭司と王の区別は曖昧であった。

イスラエルの王は祭司たちの権威の下で祭司が見ている前で律法を書き写さなければならない。

律法そのものが王の上にあることもはっきりしている。それを書き写して、自分のそばに置いて、毎日読んで、右にも左にもそれることがないようにしなければならない。王は100%神の教えの下にある。この概念もイスラエルの周りの国々にはどこにもない。


ダビデは毎日申命記を読んでいるうちに、イスラエルの民全体への教えと王への教えが並行していることに気がついた。なぜそれがわかるのかというと、私が気付いたからだ。私が気付いたなら当然ダビデも気付いたはずだ。

イスラエルの民に教える第一戒は申命記6~11章に書いてあるが、私たちは礼拝の中でいつもそのみことばを聞いている。

【申命記6:4~6】聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。

全てのユダヤ人が読み書きできるわけではないので、みことばを暗記して、神の命令を守り、神を恐れて右にも左にもそれないように歩まなければならない。

これは神が王に命じていることと同じである。王も自分のそばに申命記を置く。


そしてイスラエルは神を愛するように命令されている。神の御国やみことばを求めるということは、神を愛するということである。申命記は神がイスラエルを愛することを強調している書物であるが、同時にイスラエルは神の愛に応えて、神の命令に従うべきである。

なぜなら神が先にイスラエルを愛してくださったからである。みことばを心に刻み、毎日それに従って歩むことは神を愛することである。


ダビデがエルサレムで支配者となったとき、二つの非常に特別なことをした。

一つ目は、キルヤテ・エアリムから契約の箱を持ってきたことである。

それまではペリシテからキルヤテ・エアリムに持ってきた契約の箱をアビナダブの家でずっと管理していた。

【第一サムエル6:21~7:1】彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を遣わして言った。「ペリシテ人が主の箱を返してよこしました。下って来て、あなたがたのところに運び上げてください。」キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、丘の上のアビナダブの家に運んだ。そして、主の箱を守るために彼の息子エルアザルを聖別した。箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。

そこから契約の箱を移そうとして、最初は失敗してしまった。ペリシテ人のやり方を真似して契約の箱を車に乗せて牛に引かせてエルサレムに持って行こうとしたのだが、神様はウザをさばいてダビデを止めた。

【第二サムエル6:2~3、6~7】ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上げようとして、自分とともにいたすべての兵と一緒に出かけた。神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の名でその名を呼ばれている。

彼らは、神の箱を新しい荷車に載せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。アビナダブの子、ウザとアフヨがその新しい荷車を御した。…

彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それをつかんだ。牛がよろめいたからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍らで死んだ。

ダビデは神の怒りを見て、主を恐れたので、契約の箱をダビデの町に移さずに、ガテ人オベデ・エドムの家に移した。この人も異邦人である。

【第二サムエル6:9~11】その日、ダビデは主を恐れて言った。「どうして、主の箱を私のところにお迎えできるだろうか。」ダビデは主の箱を自分のところ、ダビデの町に移したくなかった。そこでダビデは、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。主の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。主はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。

神がオベデ・エドムを祝福されたという知らせがダビデの元に届いたので、ついに契約の箱をエルサレムに運ぶことにした。前回はダビデが間違った方法で聖なる神の契約の箱を運んだので、今度はレビ人が箱についた輪にポールを通して運ぶようにさせた。

そして契約の箱をダビデが準備したところに持ってきた。それは神殿ではない。神殿はソロモンの時代まで与えられなかった。ダビデはシオンの山の上に天幕を作り、契約の箱はその天幕の中に置かれた。このようなことはモーセの律法の中にも他の聖書の中にも何も書かれていない。ダビデは特別なところに特別な天幕を建てた。この天幕には部屋は一つしかなかった。だからダビデは天幕に入って契約の箱の前に座って神を礼拝していた。この時のことをダビデは詩篇27篇で次のように言っている。

【詩篇27:4】一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。

神殿はソロモンの時代にモリヤ山に建てられた。

モリヤ山は旧約聖書に二回しか出てこない。創世記22章でアブラハムがイサクをささげたところと、ソロモンが神殿を建築したところである。どちらもモリヤ山での出来事である。

【第二歴代誌3:1】ソロモンは、エルサレムのモリヤの山で主の宮の建築を始めた。そこは、主が父ダビデにご自分を現され、ダビデが準備していた場所で、エブス人オルナンの打ち場があったところである。

シオンの山は旧約聖書の中で少なくとも160回出てくる。シオンの山は聖書の中でとても大切である。つまりダビデがシオンの山の上に建てた天幕が神の本当の住まいということになる。

ソロモンが神殿を作った時に、ダビデの天幕からソロモンの神殿に契約の箱を持って行ったのだが、それはまるでシオンの山全体をモリヤ山に持っていくかような象徴になる。旧約聖書の中で神の住まいはシオンの山である。しかし神殿はモリヤ山にある。だからシオンの山がまるでモリヤ山に移ったかのようだ。先ほども言ったように、天幕には一つの部屋しかないので大祭司と祭司の場所が分けられていなかった。モーセの契約の中で大祭司だけが契約の箱に近づくことができると書いてある。ダビデ自身は祭司ではないが、契約の箱に近づくことができる。レビ族も契約の箱に近づくことができる。


ダビデが支配者になった時に行った非常に特別なことの二つ目は、一つ目と関係がある。ダビデが歌をイスラエルに教えたことである。毎日の朝のいけにえと夕のいけにえ、祭り、安息日などでみんなが集まって礼拝する時に歌うようになった。

なぜダビデが歌を教えるようになったのかというと、一般のイスラエル人は読んだり書いたりすることができなかったので、歌にすることによってモーセの律法を心に刻むことができるようにするためである。だからダビデは人々に歌うように教えた。ダビデはじつはモーセの真似をしている。申命記32章でモーセはイスラエルに歌を教えていた。この歌はうれしい歌ではない。イスラエルの心が頑なで罪深くて愚かであるという歌である。それを歌うことによって自分たちがいかに愚かであるかをイスラエルが知るためである。イスラエルはみことばを心に刻み、神の命令を守り、神を愛さなければならないが、それは簡単なことではない。しかし歌にすれば覚えられる。例えば19世紀の大工たちは歌いながら家を建てていた。農夫たちは歌いながら農作業をしていた。昔の人は歌いながら働くことが多かった。

ダビデはイスラエルに歌を教えて、彼らがヤハウェを恐れて、礼拝をして、みことばから右にも左にもそれることがないように教えた。


私たちは毎日の生活のための日本語の良い歌を持っていない。本当は詩篇の心を表す音楽がほしい。その歌を歌うことによって詩篇を深く瞑想して自分の心に刻むことができるような歌がほしい。

中国語の詩篇は詩と音楽がとてもよく合っているので、それを歌うことによって詩篇を瞑想することを助けている。

良い歌があれば、ダビデが書いた詩篇も歌によってそのことばを瞑想できるように助けてくれるだろう。私たちも詩篇をそのまま日本語で歌って、歌う人が瞑想できるようにする必要がある。


それが与えられる時までどうしたらいいか。私たちにはみことばがあるので、毎日みことばを読んで心に刻むことだ。歩くときも座るときもみことばを考えて、熱心に子どもたちに教えることができるように頑張る。神ご自身を求めることは神のみことばを求めることである。

【申命記6:4~6】聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。

私たちは何をやっていても神のことをまず第一に考えるべきである。私たちが神のみことばを求めるのは神を愛しているからである。神を愛するのは神がまず先に私たちを愛してくださったからである。


聖餐をいただくとき、私たちを罪から救うために十字架にかかって罪のさばきを受けてくださったイエス様のことを記念する。そして私たちの愛をもって神の愛に応える。

礼拝の終わりに、私たちは自分のすべてを神にささげて、神の御国のために生きるという誓いをあらたにする。私たちは王の教えにあるように御国を求めることを約束して聖餐式を受ける。



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