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「レビ人の働き」申命記18:1~8

  • 2025年9月7日
  • 読了時間: 17分

説経者:ラルフ・スミス牧師


申命記18:1~8

レビ人の祭司たち、レビ部族はすべて、イスラエルと同じようには相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への食物のささげ物を、自分への割り当ての分として食べていく。

彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持たない。主が約束されたとおり、主ご自身が彼らのゆずりである。

祭司たちが民から、すなわち、牛でも羊でも、いけにえを献げる者たちから受けるべきものについての定めは、次のとおりである。肩と両頬と胃の部分は祭司に与える。あなたの穀物や新しいぶどう酒や油などの初物、および羊の毛の初物も彼に与える。彼とその子孫がいつまでも主の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、主があなたの全部族の中から彼を選ばれたのである。

もしレビ人が、自分が住んでいる、イスラエル中のどの町囲みの中からでも出ることを望むなら、主が選ばれる場所に望むままに行くことができる。彼は、その場所で主の前に立つ自分の同族レビ人と全く同じように、自分の神、主の御名によって奉仕することができる。彼の取り分は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる取り分と同じである。


申命記18章をスミス語的に訳すと以下のようになる。

レビ族の祭司たち、レビ族のすべては、イスラエルの中に相続分を持ちません。彼らは、主にささげられたものを自分たちの相続分として受けます。

彼らには、イスラエルの中で自分たちに与えられる土地の相続分はありません。ヤハウェご自身が彼らの相続分なのです。(18:1~2)

2節まで読んだが、今日は8節までを一緒に学ぼうと思う。


これまで学んできたことを思い出していただきたい。

申命記6章から26章までの箇所で、モーセは十戒を順番に適用するように教えている。そしてその中でモーセが一番強調しているところが第一戒と第五戒である。

第一戒は6章から10章までの箇所で長く教えている。

そして第五戒は16:14~18:22まで教えていて、私たちはこの箇所を数週間一緒に考えている。第五戒は父と母を敬えという命令であるが、モーセはそれを社会的に広く教えている。

・16:14~17:13 さばき人とさばきつかさたちについての教え

非常に興味深いが、さばきつかさのところでは「正しいさばき」がすごく強調されている。これは簡単に言えば「神のみことば中心のさばきを行いなさい」という話になる。

・17:14~17:20 王についての教え

王についてこれまで一緒に学んできたが、王は祭司たちの前で、自分の手で申命記をすべて書き写さなければならない。これは明らかに王を祭司たちの下においている。そして王はそれを毎日読まなければならない。つまり王もみことば中心の文化を作らなければならない。

・18:9~18:22 預言者についての教え

18:9からは、すべての占いをやめて、神が起こされる預言者に聞き従わなければならないと教える。つまり占いではなく、イスラエルはみことばを中心にする文化を作らなければならない。

さばきつかさも、王も、預言者も、みことば中心の文化を作りなさいと命令されている。

ところが、今日のレビ人と祭司たちの教え18:1~8を見ると、そのポイントは食べ物である。みことば中心の話が食べ物の話になってしまったのはなぜなのか。そのことを理解するために、レビ族の歴史を思い出さなければならない。食べ物のことはこの箇所だけではなく、申命記の中で少なくとも12回繰り返されている。

「レビ族に食べ物を与えなさい。」

貧しい者ややもめの話も含まれているが、食べ物を与えなさいという箇所に必ずレビ人が含まれるのは不思議である。


⚫️レビ人について

・ヤコブの時代のレビ

レビ人の歴史を思い出すために創世記に戻る。

レビはヤコブの十二人の息子の一人であり、レビ族はその子孫である。

ヤコブにはディナという娘がいて、彼女がシェケムにいる娘たちを尋ねた時に事件が起きてしまった。

【創世記34:1~2】レアがヤコブに産んだ娘ディナは、その土地の娘たちを訪ねようと出かけて行った。すると、その土地の族長であるヒビ人ハモルの子シェケムが彼女を見て、これを捕らえ、これと寝て辱めた。

シェケムはヒビ人でその土地の王の息子であった。

ヤコブの息子たちはディナのことを聞いて心を痛め、激しく怒ったが、シェケムはディナに心を奪われ、ディナを愛し、妻にしたいと願ったので父ハモルとともにヤコブと息子たちのところにやって来た。

【創世記34:8】ハモルは彼らに語りかけた。「私の息子シェケムは、心からあなたがたの娘さんを恋い慕っています。どうか娘さんを息子の嫁にしてください。

シェケムは本当に真剣だったようだが、ヤコブの息子たちはシェケムとその父ハモルをだまそうとしてこのように答えた。

【創世記34:14~17】「割礼を受けていない者に私たちの妹をやるような、そんなことは、私たちにはできません。それは、私たちにとって恥辱となることですから。

ただし、次の条件でなら同意しましょう。もし、あなたがたの男たちがみな、割礼を受けて、私たちと同じようになるなら、私たちの娘たちをあなたがたに嫁がせ、あなたがたの娘たちを妻に迎えましょう。そうして私たちはともに住み、一つの民となりましょう。しかし、もし、あなたがたが私たちの言うことを聞かず、割礼を受けないなら、私たちは娘を連れてここを去ります。」

シェケムはディナを愛していたので、割礼を受けてイスラエルと一つの民となることを受け入れた。

そして父とともに町の人たちを説得した。

【創世記34:21~23】「あの人たちは私たちに友好的だ。あの人たちをこの地に住まわせ、この地を自由に行き来させよう。この地は、彼らが来ても十分広いのだから。私たちは彼らの娘たちを妻に迎え、私たちの娘たちを彼らに嫁がせよう。

次の条件でなら、あの人たちは、私たちとともに住んで一つの民となることに同意すると言うのだ。それは、彼らが割礼を受けているように、私たちのすべての男たちが割礼を受けることだ。

そうすれば、彼らの群れや財産、それにすべての彼らの家畜も、私たちのものになるではないか。さあ、彼らに同意しよう。そうすれば、彼らは私たちとともに住むことになる。」

その町の門に出入りする者はみな、ハモルとその子シェケムの言うことを聞き入れ、その町の門に出入りする男たちはみな割礼を受けた。

つまり、シェケムと父ハモルは、自分たちが割礼を受けたら、イスラエルの娘たちや財産、それに家畜も自分たちのものになるので受けましょう、という感じで、自分たちが得をするから割礼を受けようと町の人たちを説得した。

【創世記34:25~29】三日目になって、彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブの二人の息子、ディナの兄シメオンとレビが、それぞれ剣を取って難なくその町を襲い、すべての男たちを殺した。

彼らはハモルとその子シェケムを剣の刃で殺し、シェケムの家からディナを連れ出した。

ヤコブの息子たちは、刺し殺された者のところに来て、その町を略奪した。自分たちの妹が汚されたからである。彼らは、その人たちの羊や牛やろば、それに町にあるもの、野にあるものを奪い、その人たちの全財産、幼子、妻たち、家にあるすべてのものを捕虜にしたり略奪したりした。

ところが彼らが割礼を受けて三日目に、まだ彼らの傷が痛んでいる時に、シメオンとレビがその町を襲い、すべての男たちを殺して、その町を略奪してしまった。

つまりレビとシメオンは、もっと伝道すべき相手を、神様の恵みの契約のしるしを使って殺してしまったのである。

ヤコブは死ぬ前に息子たちに祝福を与えるのだが、その時にレビとシメオンを次のように呪った。

【創世記49:5~7】シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の武器。わがたましいよ、彼らの密議に加わるな。わが栄光よ、彼らの集いに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、思いのままに牛の足の筋を切った。のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは。私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう

それでレビとシメオンは神様の懲らしめ、神様の呪いの中にある。イスラエルから追い出されるほどの呪いではないが、厳しいことばである。

これがヤコブの時代の出来事である。


・モーセの時代のレビ

時間が経つにつれてイスラエルはエジプトに行き、エジプトから出てシナイ山まで行く。非常に皮肉なのだが、イスラエルのリーダーのモーセとアロンは二人ともレビの子孫である。

モーセがシナイ山の上で神様のみことばを与えられてる時に、アロンはシナイ山の下で偶像礼拝の祭りを行っていた。イスラエルとともに金の子牛を作って、みんなでめちゃくちゃな偶像礼拝を行っていた。神様がモーセにそのことを告げ、モーセが山から下って来て、怒って2枚の石の板を壊し、イスラエルをさばこうとして、このように叫んだ。

【出エジプト32:26】そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも主につく者は私のところに来なさい」と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。

レビ族がみんなモーセのところに集まった。それでモーセは彼らに言った。

【出エジプト32:27】そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも主につく者は私のところに来なさい」と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。

そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。」

レビ族はそれを行った。その日、民のうちのおよそ三千人を殺した。


これも深い皮肉なのだが、祝福すべき相手を殺して呪われたレビが、今度は呪うべき殺すべき者を殺したので神様に祝福された。

【民数記3:5~6】主はモーセに告げられた。「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。

レビ族は神様に特別に仕える者として任命された。神の敵を殺したことによって祝福されたのである。ピネハスも民数記25章で偶像礼拝をする人を殺したので神様に祝福された。イスラエル中で、偶像礼拝がどれほどとんでもない罪かがわかる。私たちもこの歴史を覚えるときに、偶像礼拝の罪の重さを感じるべきだと思う。


レビ族は、ヤコブを通して与えられた神の呪いがあるので、イスラエルの中で土地を相続しないということは先ほど読んだ。その呪いによってイスラエルの中に散らされる。土地の相続はない。しかし神様の側に立って偶像礼拝をしている兄弟たちと戦ったことで、レビ族の相続分はヤハウェご自身であるという祝福を与えられた。

イスラエルの中に相続分がないことは、私たちにはピンとこないが、これはかなり大きな話である。イスラエルは農業の文化なので、土地がなければ食べ物を得ることができず、死んでしまう。だからレビ族が消えてしまわないように、ほかの部族が食べ物を与えるように命じられている。レビ族は献金によって生きるものでなければならない、ということになる。


⚫️レビ人、レビ族の務め

では、レビ族の務めは何なのだろうか。この箇所には書かれていないが、出エジプト記、申命記、民数記、レビ記を読めば、ああ、レビ族はこういうことをしなければならないのだ、そのためにこういうシステムになっているのだ、ということがピンとくる。その背景が分からなければ、レビ族には相続分はないけれども他の民が食べさせなければならない、ということだけになってしまうかもしれない。

民数の中に非常に明白に書いてある。イスラエルの北から南まで、東から西まで48の町がレビ族に与えられていて、レビ族はその中に住んでいる。レビ族の仕事は、みことばを学んでみことばを教えることである。レビ族に献金しなさい、という教えは、みことばを中心にする文化を作るための献金のシステムなのである。

このシステムについては民数記で詳しく読むことができる。実際にイスラエルがこの命令に忠実だったかどうかは別の問題であるが、この48の町には聖書の専門家がいる。ダビデの時代になると、レビ族は聖書の専門家というだけではなくて、音楽の専門家であったり、礼拝のいろいろなことを手伝う専門家にもなる。これはすべて聖書を中心にする文化を作りなさい、という神のご計画であり、神がイスラエルに与えてくださったビジョンであり、イスラエルに与えられた使命なのである。

その使命が、みことばを中心にするさばきつかさ、みことばを中心にする王、みことばを中心にする預言者、そしてみことばを教えるレビ人と祭司たちに与えられている。

イスラエルの場合、巻き物を書き写すことがみことばを教えることの中に含まれている。 昔の巻き物は私たちの本のように長持ちしないので、何度も書き直さなければならない。これは毎日朝から晩まで書き続ける専門家がいなければ、みことばを代々持ち続けることはできないのである。だからレビ族という専門家が必要なのである。


新約聖書の中に「律法学者」という呼び方があるが、バビロンに捕囚されたりしてそこに至るまでの歴史が複雑で、律法学者がすべてレビ人だというわけではない。しかし元々のシステムは、レビ族がみことばを学んで、みことばを書き写して、みことばを教える部族だった。その48の町はイスラエル全体の中にあるので、その意味でレビ族は散らされている。自分たちの相続の土地はないが、あちこちに自分たちの町があるので、さばきつかさたちもあちこちの町にいることになる。問題が起きて、どうすればいいかわからない時に、このレビ族の町に行って彼らに相談することができる。難しい問題だったら、祭司たちのところに行って相談するというシステムになっていた。このようにみことばが法の中心となるシステムを神様はイスラエルに与えてくださった。


王はみことばを自分のそばに置いて、それを毎日読んで勉強しなければならないし、みことばを考えなければならない。しかし王だけではなくて、レビ族全体がそれをするのである。イスラエルの民がみんな書いたり読んだりできるわけではないので、教えたり民の質問に答えたりする部族が必要である。このように読み書きができない人たちを支えるための教師がたくさんいるシステムを神様は与えてくださった。これもみことばを中心にするシステムである。


ダビデはこれを理解して実行しようとしていた。ソロモン王も、ヨシア王、ヒゼキヤ王もそれを理解して実行しようとしたが、結局はイスラエルは偶像礼拝を行なって滅ぼされ、バビロンに捕囚された。バビロンから戻って来ても同じようなものを作ることはできなかった。

イエス様が本当のレビ人、本当の祭司、本当の預言者、本当の王としてイスラエルを導くように、神様から与えられたお方なのである。すべての旧約聖書のモーセの教えの中の理想は、イエス様のみにおいて成就されることを私たちは見ることができる。

結局アダムの子孫はアダムの罪の心を相続して、アダムのように罪を犯してしまい、どうしても罪を犯してしまう。

しかしイエス様は十字上で私たちの罪のために代わりに死んでくださって、よみがえって、そして御霊を注ぎ出してくださったので、教会の時代において古い契約のイスラエルよりも神のみことばに従って歩み、実を結ぶことができるようになっている。

同時に教会の歴史を読む時に、教会の中に恥ずかしいほど多くの失敗がある。


教会の歴史の何中で、みことばが中心の文化を作ることができた時代はあるのだろうか。あちこちにあると思うが、目立つのはカルバンがいた頃のジュネーブである。カルバンがジュネーブにいたのは1536年である。彼はまだ30歳にもなっていなかったが、キリスト教綱要の初版をすでに書いていた。彼は1509年に生まれて、36年にジュネーブに行き、頼まれてジュネーブのみことばのリーダーになったが、その2年後に追い出された。彼の教えがあまりにも厳しくて、ジュネーブのリーダーたちは彼に耐えられなかったのである。このリーダーたちの背景はカトリックで、お金持ちのビジネスマンばかりの町のリーダーたちであった。彼らの道徳的なレベルは低く、信仰のレベルもゼロに近いような人たちがリーダーになっていたので、この人たちがカルバンを追い出した。

するとジュネーブの町がどんどん悪くなってしまった。

それで41年にカルバンを再び招いた。彼はジュネーブに戻って、みことばにしたがって生活しなければならないことを強調して教えた。あの古いリーダーたちとの戦いも続けてあった。ジュネーブの古株たちがカルバンを嫌っていたのはカルバンがフランス人だったからである。そしてフランスで迫害されている人たちがたくさんジュネーブに逃げて来た。それでジュネーブの町にフランス人が急にたくさん入ってきて、人種差別というより部族差別のような問題がたくさんあって、カルバンにはいろいろな戦いがあった。

カルバンが死んだのは1564年であるが、カルバンはその時までに、本当に町をやり直して改革したので、64年のジュネーブは天国のようで、ほかのところからジュネーブに来た人たちが驚くほどだった。みんながみことばを守っている。悪いことをしている人は見当たらない。みんな礼拝に行く。最初は礼拝は日曜日と他に三回しかなかったが、最後には毎日礼拝をするようになっていた。みことばの学びも毎日あった。みことばを中心にする町をカルバンは他の牧師たちと一緒に改革して作ることができたのである。


カルバンが死んだのは1564年であるが、この年はシェイクスピアが生まれた年である。シェイクスピアが生まれてしばらくはエリザベスが女王だったが、シェイクスピアが活躍していた1600年頃のロンドンでは毎日礼拝があった。シェイクスピアは37の劇の中で2000箇所以上にみことばの言及をした。その時の社会がどんなにみことばに満たされているかが強調されている。みんなが聖書をよく読んでいた。その時に一番人気があった書物がジュネーブ聖書というジュネーブで翻訳された聖書であった。

それがどうして特別だったのかというと、英国からジュネーブに逃げてきた学者たちが聖書を翻訳したからである。彼らは解説を書いて、地図を入れたりして、勉強できる聖書の翻訳だったのである。これが一番人気があった。

しかしその翻訳が嫌いだったイギリスのジェームズ国王が新しい翻訳を明治て、私たちが使っている英語が美しいキングジェームズバイブルが出来上がった。

キングジェームズバイブルはジュネーブ聖書を追い出すための翻訳だった。当時のロンドンの人たちは毎日礼拝に行くことができた。当時の一番人気のあるエンターテインメントは説教を聞きに行くことだった。有名な説教家があちこちの大きな教会で説教をし、たくさんの人が聞きに行ってすごい人気だった。みんなみことばを求めていたし、自分たちでも読んだ。


改革派の国とローマカトリックの国の大きな違いは教育である。ルターもカルバンも学校を作った。英国の教会も学校を作った。読むことを教えるのは聖書を読むためだった。ただ読むだけではなく、勉強できるためだった。だから勉強するための聖書をジュネーブバイブルと呼んだ。


みことばを中心にする文化を作るのは、私たちの地域教会に与えられている使命でもある。地域教会は、みことばを中心にする文化を自分たちの地域教会に作るように神様に教えられている。

今日は詩篇1篇を歌ったが、その中に出てくる「幸いな人」は英語では「All the happinesses」という複数形のことばである。豊かに祝福されて深い喜びを与えられるのはだれか。それは みことばを喜んで、それを毎日口ずさみ、瞑想し考える人であると言う。これはただ単に、今日は3章読んだ、ということではない。みことばを喜び、みことばの教えを考えて、瞑想して、勉強する。その人たちは祝福されて幸いである。その人たちは心において神様の恵みと喜びを与えられる。そのことを詩篇1篇で私たちは昔からよく歌っている。子どもたちは歌詞を見なくてもみんな歌える。


私たちの地域教会の使命の一つは、みことばを中心にする文化をこの地域教会において作ることだと思う。それは一人一人の努力、一つ一つの家族の努力による。例えば、菅野さんの「聖書人になりたい」というサイトがインターネットにある。そこにたくさんの資料が提供されているし、昔の福音総合研究所で作ったコースはすべて手に入る。昔の説教も手に入るし。今はYouTubeに礼拝動画がアップされている。勉強したいと思う人には資料がたくさんある。

しかし、他の人のために食べ物を食べて消化してその人を助けてあげることはできないし、他の人のために息をしてあげることはできない。自分でやらなければならない。同じようにみことばも自分で真剣に求めなければ、詩篇1篇の幸いは与えられない。そしてみんなが真剣にみことばを求めなければ、地域教会として神の栄光を現すことも、みことばを中心にしてイエス様を中心にする文化を築き上げることもできない。

是非、このみことばのビジョン、みことばの使命を、一人一人が心に受けて、これを一緒に求めたいと思う。




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